番外編6 「本命一本勝負」
1
2月初めに雪が降って、しばらく2月の割には暖かい日が続いたものの、また寒い。
最近の天候は、本当にわからない。
ここ、大蔵屋百貨店では、9階の催事場が朝から大騒ぎだ。
いや、大蔵屋だけではないだろう。
全国の小売店で大騒ぎなのは「バレンタイン商戦」だ。
今日は、2月14日。
バレンタインデー。
最後の追い込みである。
大蔵屋の従業員だって、チョコを求めて9階まで行く。
バレンタインは、お客様だけのものではない。
私のバッグの中にも、小さな紙袋がひとつ入っている。
昨日、閉店間際の9階でようやく選んだものだ。
今年は、ひとつだけ。
本命一本勝負だ。
「朝倉さん、甘いもの食べるの?」
恵美は、インクの出が悪くなったボールペンを振り回しながら聞いてきた。
そう言われると、覚えがない。
「甘いもの食べてるところ、見たことないかも」
「だったら、チョコにこだわんなくてもよくない?」
恵美は捨てる書類の裏にくるくると丸を書いて、インクの出を確認している。
「それはそうなんだけど、形だけでも……ね?」
「本命一本勝負なのに、形だけ?」
「……インク、出た?」
「うん、出たわ」
逃げたつもりだったのに、恵美はあっさり話を戻した。
「9階もいいけど、5階も行ってみたら?」
5階は紳士服、紳士洋品雑貨、靴、メガネ売り場だ。
「そだね。あとで見てくる」
よく考えてみたら、彼は甘いものをあまり食べない。
チョコはサブで、メインは雑貨でもいいかもしれない。
いや、やっぱりチョコがメイン。
バレンタインなんだもの。
11時。
そろそろ朝倉さんが巡回に来る時間だ。
そう思ってコスメエリアに目を向けると、いた。
……いたけれど、足止めを食らっている。
美容部員たちに囲まれている、というほどではない。
でも、明らかに何人かがタイミングを見計らっている。
少しして、朝倉さんがインフォメーションに来た。
その手には、小さな紙袋がいくつも下がっている。
「お疲れ様です」
「お疲れ様です」
いつもの声。
いつもの顔。
でも、紙袋の束だけがいつもと違う。
「あのぅ……朝倉さん、大きい紙袋、使います?」
なんだか面白くない。
けれど、少し困っているようにも見えたので言ってみる。
「助かります」
完全に感情を殺しているような顔だった。
私はカウンターの下から特大の紙袋を取り出して、広げる。
「特に変わりありません」
いつもの報告をしながら、カウンターに置いた。
朝倉さんは、小さな紙袋たちをその中へ静かに入れていく。
……多い。
思っていたより、ずっと多い。
「これは、警備室で分けます」
そう言われて、少しだけ安心した。
いや、安心するところなのかは、よくわからない。
2
こういうイベントは苦手だ。
特に今は。
誰がこんなに大量のチョコレートを食うんだ。
面倒だが、仕方ない。
人の好意を無にするのも気が引ける。
来年からは、業務に差し障りがあるとか何とか言って、禁止にしてもらえないだろうか。
大蔵屋は化粧品のエリアが広い。
漂う匂いも苦手だ。
美容部員からも、強い香りがする。
自社の香水を宣伝用に振り撒いているのかもしれない。
インフォメーションでは、ひよりの表情が少し硬かった。
こんな紙袋の束を見たら、気を悪くするのも当然かもしれない。
警備室に戻ったら、机の上にも大量の紙袋があった。
俺が特大の紙袋を置くと、後輩の神田が寄ってきた。
「主任、大変でしたね。何袋目ですか」
おもしろがっているのか。
「うるさい。全部お前にやる。持って帰れ」
神田は、紙袋をのぞき込んでいる。
「メモとか入ってますよ?」
「CANMEL……いいじゃないっすか。コスメの子、みんな美人だし」
「だから、やるって言ってるだろ」
俺は、ひよりからだけでいい。
「ほかのやつらも、そこそこもらってるんで、分けましょうか」
好きにしろ。
どうせ、ひよりからのものは入っていない。
だったら、どうでもいい。
このあとの3階の巡回がまた面倒だ。
婦人服売り場はテナントが多い。
また、足止めを食らいそうだ。
「神田、お前これから、非常口と避難経路?」
「そうです」
「3階と替われ」
非常口と避難経路は、人がほとんどいない。
「3階は、主任のこと待ってる人、多いんじゃないですかね」
神田が笑っている。
ひよりから何もないなら、誰からもらっても、何もないのと一緒だ。
3
なんだか気分が萎える…
あんなにたくさんのチョコ……もう私が渡すまでもないような気がしてきた。
いや、こんなことでふさぎ込むのは、やめよう。
別に、恒一さんが欲しいと言ったわけじゃないんだから。
悶々と考え込んでいると、恵美が前を向いたまま言った。
「今、ちょっと1階は空く時間だからさ、15分くらいいいよ」
「5階、さっと行ってきな?どうせ小物でしょ?」
「え?でも…」
「ここで、何買うか決めていけば早いじゃん」
「帰りは一緒に帰るんだったら、時間取れないよ?」
恵美の厚意に感謝だ。
いつか、ちゃんとお返ししたいな。
お言葉に甘えて、カウンターを出ると、恵美が笑って言った。
「もし、チーフが来て、聞かれたらトイレが長いと言っとくよ」
ちょっと!
お返しは撤回する。
5階でハンカチを探した。
彼は、服も靴も黒ばっかりだ。
制服まで黒い。
黒以外にしたい。
目についたのは、ワインレッドの大判のハンカチ。
四辺にペイズリー柄が入っている。
「うん。素敵。これにしよ」
ラッピングは薄い箱で、小さなリボンをつけてもらった。
さぁ、急いで戻らないと。
本当は、どうしようか迷った。
職場で渡すか、家で渡すか。
だから、昨日買ったチョコも持ってきたのだ。
でも、あのたくさんのチョコに自分のチョコも紛れてしまうのかと考えると嫌だった。
カウンターに入ると、恵美が私の手の中にある小さな大蔵屋の紙袋を見て言った。
「ここでは渡さないの?」
小さな紙袋をカウンターの内側の棚へ入れる。
「ここでは、渡さない」
恵美は、軽く笑う。
「その他大勢に混ざりたくないわけね」
グッと言葉が詰まる。
図星なのが悔しいけど、恵美は察しがいい。
「ボールペンのインクは順調?」
誤魔化してみた。
「今は、順調」
恵美は、堪えきれないのか後ろを向いて、笑っていた。
夕方、朝倉さんが来た時にも、やっぱり渡さなかった。
彼は、いつも通りに見えたけど、少し硬い感じがした。
やっぱり、気を悪くしたかしら?
でも、職場では渡したくない。
今日は、彼も早番、何事もなければ一緒に帰れる。
LINEだけでも、送っておかないと…
〈今日、一緒に帰れますか?〉
送信してから、少し迷って、もう一文足した。
〈帰ったら、少しだけ時間ください。〉
送ってしまってから、急に恥ずかしくなる。
カウンターの内側の棚に入れた小さな紙袋が、やけに気になった。
4
16時の巡回で総合インフォメーションに行ったが、ひよりからは特に何も言われなかった。
定時まで、あと30分だ。
巡回から戻ると、またチョコが増えている。
なるほど、遅番の従業員と遅番の警備員の分か。
俺の後ろの机で、神田たちがチョコレートの包みを分けている。
ひよりが怒っているのか、機嫌が悪いのか、それとも他で嫌なことでもあったのかは分からない。
ただ、機嫌が悪いなら、多分、今日の大量チョコのせいだろう。
すると、ポケットの中でスマホが震えた。
ひよりだ。
〈今日、一緒に帰れますか?〉
〈帰ったら、少しだけ時間ください〉
彼女から連絡がなければ、こちらからしようと思っていた。
でも、彼女の方から一緒に帰れるかと聞いてきた。
怒っているわけではないのかもしれない。
いや、待て。
“時間ください”これは、やっぱり怒られるのか。
始末書レベルの文言が頭に浮かぶ。
もらった物は、すべて警備室のみんなで分けた。
3階の巡回も、神田と替わった。
自分から受け取りに行ったわけではない。
再発防止に尽力した。
とにかく、彼女の方から一緒に帰ろうとしてくれている。
これは、悪い兆候ではないと思いたい。
考え込んでいると、また神田が寄ってきた。
「もう上がりですか?」
「ああ」
ロッカーへ行こうと立ち上がる。
「俺、さっきインフォメ行ったんですよ」
は?なんで。
「何しに」
「前田さんを飲みに誘いに」
飲みに誘いに……?
「え?前田さんて、あの前田さん?」
「ええ、最近よく行くんすよ」
「高阪さん、機嫌よさそうに笑ってましたけどね?」
なんでお前が知ってる。
それに……なんでそんなに軽く誘えるんだ。
駅に行くと、ひよりはもう待っていた。
怒っているとか、機嫌が悪いとか、そんなふうには見えない。
いや、ひよりは怒っていても態度に出さないのかもしれない。
「お疲れ様です」
普通だ。
歩き出すと、ひよりは自然に俺の手を握ってくる。
「帰ったら時間くださいって、今日のこと?」
ひよりは、笑っている。
「はい。今日のことです」
「なんか、怖いな」
素直に言ってみる。
「もしかして、怒られると思ってます?」
「ちょっと」
ひよりは、慌てたように言った。
「怒ってません」
「でも、家で言いたいの」
「うん」
ひよりの手は、いつものように温かくて柔らかい。
怒っていない。それは分かった。
じゃあ、なんだ。
結局、気になる。
5
ふたりで、玄関から中へ入った。
普通で当たり前のことが、なぜか嬉しい。
彼が明かりを点けようと、壁に手を伸ばした。
「あ、明かりつけないでほしいです…」
なんとなく、暗いほうが落ち着く気がした。
明かりはなくても、外の街灯の光と緩い月光で真っ暗じゃないから。
恒一さんは、まだ少し硬い気がする。
ちゃんと、言わないといけない。
暗闇でふたりで向かい合って、立っている。
私は、バッグからふたつの箱を取り出した。
「あの…職場で渡さなくて、ごめんなさい」
恒一さんの肩がぴくっと動いた。
「怒ってたわけじゃなくて」
「あの中に、混ぜたくなかったの」
恒一さんは首を振って言った。
「混ざらない」
「ひよりからのは、混ぜないよ」
私は、手に持ったままだった、ふたつの箱を差し出した。
「これ…チョコはバレンタインだから。こっちは、甘いものあまり食べないかと思って」
恒一さんは、ハンカチの箱を先に開けて見る。
暗くて色まで、判別できたかはわからないけれど。
「ありがとう。大事に使う」
「ひよりが選んでくれたから」
そう言った後、少し間をおいて言った。
「なにか、お礼がしたい」
私は、少し笑った。
「それは、来月にまた…」
言い終わる前に、彼が言った。
「それはそれで、その時に」
「俺のできる範囲で今…」
「あ……」
“キスして”なんて、言えない。
恥ずかしくて。
“好き”って言ってなんて、言えない。
お願いして、言ってもらうものじゃない。
「じゃあ…ぎゅーってして?」
恒一さんが一歩こちらに近づいて、強く抱きしめられた。
いつもの彼の匂いがして、安心する。
彼が私の耳元でささやく。
息に声が少し混じって、闇に吸い込まれるような声だった。
「ひより」
「好きだ」
そう言って、口づけた。
今まで食べた、どんなチョコよりも甘く、溶けていくようなキスだった。
ひより日和 番外編5 本命一本勝負 おわり




