番外編3 ひより日和 「ふたつのマグ」
1
夏休みは怒涛のように過ぎ去った。
暑さも落ち着いて、朝晩は過ごしやすい。
大蔵屋百貨店、ただいまの催事は「秋の味覚市」だ。
夏ほど騒がしくはない。
落ち着いた雰囲気ながら、売り上げは結構いいらしい。
百貨店はお歳暮商戦に向けてじわじわと忙しくなる。
そんな今日この頃だが、10階サービスカウンターの先輩が、8月のお盆明けから産休に入った。
その穴を埋めるために、しばらくは1階からも応援に入ることになっている。
1階のインフォメーションカウンターは通常3人体制だが、時間帯によっては2人になる。
このため、シフトの構成が少し変わった。
9月に入ってからは、朝倉さんとのシフトも図ったようにちぐはぐだ。
館内で仕事の話はする。
帰りに少し立ち話もする。
でも、それだけ。
顔は見ているのに、足りない。
同じ館内にいても、なんだか遠い。
彼はちゃんと食べているのか。
しっかり寝ているのか。
大丈夫だとわかっていても、気になる。
全く、会えないわけでもないのに、私は贅沢なんだろうか。
今日の私のシフトは遅番だ。
彼は当務ではなかったか…。
そろそろ16時の巡回に来る頃だと思って、つい館内へ視線を向けてしまう。
来た。
正面じゃない。端からだ。
表情が緩みそうになるのを、私は慌てて抑えた。
「お疲れ様です」
「変わりは?」
異変の有無を聞いてから、少し声を落とした。
「俺、当務だから。また連絡する」
「はい…あの…私もしますね」
館内のカウンターの脇でいつまでも話してはいられない。
朝倉さんはひとつ頷いて、また巡回へと戻って行った。
横に立つ恵美に肘で小突かれる。
「仲いいじゃん。」
いいも何も、ゆっくり話す時間もないのに、仲が悪くなるはずもない。
あるとすれば、心が離れる心配しかない。
「最近は、シフトが合わなくて、ここで顔見るだけ」
恵美は鼻で笑って、サラッと言った。
「そんなの簡単よ。一緒に住めばいい」
「ええええええ?」
少し大きな声が出てしまった。
2
「シッ!」
恵美が人差し指を唇に当てて言う。
「声、大きい」
私は慌てて口元を押さえる。
「だって、一緒に住むって……そんな簡単に言わないでよ」
「簡単とは言ってないけど、会えない会えないって言うなら、解決策としては一番早いでしょ」
恵美はこともなげに言う。
まるで、夕食のメニューを決めるくらいの軽さだ。
「早すぎるよ」
「付き合って何ヶ月だっけ」
「……4ヶ月くらい」
「4ヶ月なら、部屋くらい行っててもおかしくないんじゃない?」
私は言葉に詰まった。
「行ったこと、あるの?」
恵美が目を細める。
「……ない」
「ないんかい」
「だって、タイミングが……」
「タイミングって便利な言葉だよね」
恵美は笑っている。
完全に面白がっている顔だ。
「朝倉さんの部屋、見たくないの?」
見たくないわけがない。
たぶん、物は少ない。
靴も傘も、必要な分だけ。
キッチンの調理器具は少ない。
勝手に想像して、少し笑いそうになる。
でも、それと同時に胸が落ち着かなくなる。
朝倉さんの部屋。
朝倉さんの生活。
私の知らない、私がまだ入ったことのない場所。
「……見たいけど」
「じゃあ、行けばいいじゃん」
「そんな簡単に」
「言えばいいじゃん。部屋、見たいですって」
「言えるわけないでしょ」
「言えば喜ぶと思うけどね」
恵美は、すっかり他人事の顔でパンフレットを整える。
そのとき、カウンターの前に人影が立った。
「高阪さん、すみません」
高級時計売り場の水野くんだった。
去年入社した社員で、まだどこかスーツに着られている感じが残っている。
けれど、最近は接客にも少し慣れてきたらしく、表情に余裕が出てきた。
「どうしました?」
「お客様に、ギフト券の利用について聞かれて……確認してもいいですか」
私は説明を聞き、該当する案内を伝える。
水野くんは真剣な顔で頷いていた。
「ありがとうございます。やっぱり高阪さんに聞くと分かりやすいです」
「慣れですよ」
「それで、あの」
水野くんが少し言いにくそうに笑った。
「莉子さんたちが、高阪さんのことを“ひよりさん”って呼んでたので」
「僕も、そう呼んでもいいですか?」
「前田さんもいいですよね?」
「え?」
思わず私がききかえすと、恵美が横から突っ込む。
「あんた、ひよりには『呼んでいいですか?』で、あたしには『いいですよね』なんだね」
「だめなら、全然。すみません、急に」
水野君が慌てて頭を下げる。
「あたしは、いいわよ、全然」
恵美は、今日も通常運転だ。
「あ、いえ。だめじゃないですよ」
職場の後輩に名前で呼ばれることくらい、珍しいことではない。
莉子ちゃんたちも、いつの間にかそう呼ぶようになっていた。
「じゃあ……ありがとうございます、ひよりさん!あ、恵美さんも」
水野くんは少し照れたように笑って、売り場へ戻っていった。
その背中を見送りながら、恵美が小さく吹き出す。
「あたしは、付け足しだね」
「ひよりさん」
「なに」
「若い子に懐かれてるねぇ」
「そういう言い方やめて」
「いや、事実でしょ」
「それなら、恵美だって…」
言い返そうとしたその時、視界の端に黒い制服が映った。
朝倉さんだった。
いつからそこにいたのか分からない。
けれど、ほんの一瞬だけ、こちらを見る目がいつもより静かだった気がした。
「朝倉さん?」
声をかける前に、朝倉さんは小さく会釈して、また館内へ戻っていった。
恵美が、私の横でぽつりと言う。
「……今の、聞こえてたんじゃない?」
「え?」
「水野くんの“ひよりさん”」
胸が、少しだけ変な音を立てた。
3
21時を過ぎて、遅番を終えた。
〈21時くらい、また搬入口にいます〉
〈帰るの遅くなると心配だから、少しだけ〉
定時少し前に受信した朝倉さんからのLINEだ。
更衣室で着替えて通用口へ向かうと、搬入口の脇に黒い制服が見えた。
朝倉さんだ。
当務中だから、長く話せるわけではない。
それでも、待っていてくれたのだと思うだけで、足取りが軽くなる。
「お疲れ様です」
「お疲れ様」
いつもの声。
けれど、少しだけ低い。
「疲れてますか?」
「少し」
朝倉さんはそう言って、視線を外した。
何かを考えている顔だ。
「……何かありました?」
「ありません」
「その言い方の時は、あります」
朝倉さんが、困ったように黙る。
黙られると、少し不安になる。
でも、ここで引いたら、また私は勝手に想像して、勝手に怖くなる。
「私、ちゃんと聞きたいです」
「言いにくいことでも、できれば言ってほしいです」
そこまで言うと、朝倉さんはようやく私を見た。
「今は、うまく言えない」
その正直な答えに、少しだけ胸が締めつけられる。
「でも、話すつもりはあります」
「……はい」
「今度の休み、合いますか」
「会いたい」
まっすぐ、言われて心が強くなった
「合わせます!何としてでも!」
朝倉さんが、ほんの少しだけ笑った。
「無理しないで」
「いいえ!無理をしてでも」
そう言うと、朝倉さんの目が少し柔らかくなった。
「そう言われると、止めにくい」
「止めないでください」
言ってしまってから、自分でも驚いた。
でも、もう取り消したくなかった。
「私も、ずっと、ずっと会いたかったんですから」
すれ違ってばかりの秋に、やっと予定がひとつ重なった。
4
久しぶりに休みが重なった日は、よく晴れていた。
正確には、重なったわけではなく、4階インフォメーションの先輩にシフトの交代を頼んで、無理に合わせた。
先輩は、特に用事もないからと快く替わってくれたので、ちょっとほっとする。
デートという言葉には、まだ少し照れる。
けれど、朝から朝倉さんに会えると思うだけで、昨日の夜はなかなか眠れなかった。
小学生みたいな気分だ。
昨日、朝倉さんは帰宅が遅かったようで、LINEが来たのは22時を過ぎていた。
〈生活雑貨を見に行きませんか?〉
〈鍋を増やそうと思って〉
そういえば、以前、彼は料理ができないと言っていた。
できるとしても“スクランブルエッグ”くらいだと。
自炊する気になったのかしら?
有名料理店のシェフは大概が男性なので、案外習うと上手かもしれない。
そんなことを考え、ひとりで笑った。
〈今ある鍋は、どういう鍋ですか?〉
そう返信した。
〈どういう鍋かは知りません〉
〈インスタントラーメンが食える鍋です〉
ってことは、そんなに大きくないわけね。
〈今まで、鍋ひとつだけだったんですか?〉
〈ついに、ふたつに?〉
〈大事件ですね〉
送信
受信
〈事件ではないです〉
〈改善です〉
いつも通りの朝倉さんだった。
朝倉さんは、郊外の大型雑貨店へ行こうと車を出してくれた。
中に入ると、キッチン用品、寝具、カーテン、家具、住まいづくりに必要なものは全部そろっている。
鍋の並んだ通路に入って行く。
「朝倉さん、鍋は何用ですか?」
朝倉さんの頭の上に「?」が浮かんだような気がした。
少し考えていたようだ。
「スクランブルエッグ以外に使います」
今度は私の頭の上に「?」が飛び交った。
「フライパンではなく?鍋でスクランブルエッグですか?」
「フライパンはありません」
平然と言う朝倉さんに、ちょっとのけ反った。
せめて、フライパン1つくらいはあると思っていた。
「それなら、鍋よりフライパンのほうが、使い勝手はいいと思いますよ?」
ぶらぶらといろんな物を見て回っていると、どれも欲しくなる。
私は食器のコーナーで見つけたマグカップに目を奪われた。
「このマグ、かわいい」
そう言って、マグを指さして、朝倉さんを見る。
朝倉さんは、マグを手に取って見ている。
「容量は少ないですね」
「そこじゃないです」
朝倉さんは、少し笑って言った。
「ふたつ買う?」
私を見て、そう言った。少しだけ、胸が高鳴る。
「ふたつ?」
「使うから」
言いながら、フライパンの入ったカゴへ入れている。
「どこで使うんですか?」
「俺の部屋で」
私の胸は高鳴るどころか、不整脈かと思うくらいに忙しくしていた。
そのあとは、私もクッションやキッチンクロスをいくつか買って店を出た。
車に荷物を積み込むと、朝倉さんが運転席に乗り込む前に言った。
「一度、部屋に置いていってもいいですか」
「はい」
反射で返事をしてから、私は固まった。
部屋。
朝倉さんの部屋。
今、部屋って言った?
「……無理にとは言いません」
私の反応を見て、朝倉さんが少しだけ声を落とす。
「荷物を置くだけです。玄関先に置いてそのまま…」
「行きます」
自分でも驚くほど早く、声が出た。
「行きたいです」
言ってから、顔が熱くなる。
朝倉さんは一瞬だけ目を見開いて、それから小さく頷いた。
朝倉さんの部屋は、想像していたよりもずっと静かだった。
きれい。
でも、物が少ない。
散らかっていないのではなく、そもそも散らかるほど物がないのだ。
――この部屋には、朝倉さんしかいない。
その当たり前のことに、なぜか胸が少し鳴った。
5
朝倉さんの部屋は、私の想像をほとんど裏切らなかった。
物が少ない。
とても。
余計なものがない。
誰かが帰ってくる温度も少ない気がした。
この部屋は、朝倉さんがひとりで立っているための部屋なのだ。
整理されていて生活はできる。
でも、楽しむためのものが少ない。
誰かを招く想定がない。
ひとりで完結している部屋だった。
本棚には「警備」「防犯」「救急」「法律」「護身術」そして、小説。
私は本棚から振り返って朝倉さんを見た。
「小説、読むんですね」
「たまに、というか、寝るために」
「だから、だいたい読みかけで止まってます」
ジーンズのポケットに手を入れて、そこに立っている。
「忙しいんですね…」
そう言って、キッチンへ行く。
「……モデルルームですか?」
「住んでます」
シンク下のキッチン収納を見て、朝倉さんを見る。
「開けてもいい?」
そう聞くと、朝倉さんは黙って頷いた。
「鍋、一個」
「はい」
「朝倉さん、インスタントラーメンとスクランブルエッグしかできない理由がわかりました」
朝倉さんは、大真面目に聞き返す。
「道具の問題ですか?」
「それもありますけど、一番肝心な意欲が足りませんね」
私は、さっき買った袋からマグカップを取り出した。
「洗ってもいいですか?」
「はい」
キッチンの狭いシンクで、ふたつのマグを並べて洗う。
この部屋にある食器より、少しだけ色がある。
少しだけ、柔らかい。
水を切って、棚の空いた場所に置いた。
マグカップが、ふたつ並ぶ。
それだけで、この部屋の空気がほんの少し変わった気がした。
「……これ、私も使っていいんですよね?」
聞いてから、変なことを聞いたと思った。
朝倉さんが、最初から二つ買うと言ったのに。
でも、朝倉さんは真面目な顔で頷いた。
「ひよりさん用です」
「……あ、なんか…すごく嬉しいです」
「ここに来た時は、それを使ってください」
その言葉だけで、胸の奥が少し温かくなる。
この部屋は、ひとりで生きるには困らない。
でも、ふたりで暮らすための部屋ではない。
それでも、ふたつ並んだマグカップだけが、ここに少しだけ私の場所を作ってくれた気がした。
6
「このマグ使ってもいいですか?」
私は、カップを少し持ち上げて、聞いてみる。
「コーヒーなら、あります。インスタントですけど」
朝倉さんは、電気ケトルに水を入れて、スイッチを押した。
インスタントコーヒーでも、落ち着く香りがする。
一緒にコーヒーを入れて、一緒に座って、一緒に飲む。
当たり前のことでほっとしている。
部屋を見回して、感じたことを口にした。
「この部屋は、静かですね」
マグカップをテーブルに置く音が反響するような気がする。
「仕事柄、家にいない時間も長くて寝に帰るだけだから」
「必要なものだけで、生きてる感じかも」
そして、少し考えて、
「足りないものも、あるってわかった気がしてます」
「フライパンとか?」
私が、少し笑って言った。
「それもそうだけど…」
「ひよりさんの部屋から、ここへ戻ると少し静かすぎると思うときがある」
「だから、このマグカップは不思議な感じ」
「この部屋で、自分以外の人が使うものがあるんだなって」
「じゃあ、私の専用クッションも置いて帰ろうかな」
そう言ってコーヒーを一口飲んで、隣に座る彼を見た。
「うん」
短い返事。
小さな沈黙を破るように、私は言った
「朝倉さん?」
「この間のうまく答えられないお話は、まだ整理がつきませんか?」
少しでも、話しやすいようにゆっくり言った。
朝倉さんは、ふぅーっとコーヒーの香りと一緒に息を吐いた。
「大したことじゃないんですよ」
「水野が…」
「あなたを”ひよりさん”と呼んでいたので…狭量と言われたら、それまでなんですけど」
朝倉さんは、カップの中で揺れるコーヒーばかり見ている。
「水野君以外の人も、嫌ですか?」
「いや、多分、水野だからです」
朝倉さんは、一度私を見てすぐにまたカップのコーヒーに視線を戻した。
「ほかの人なら気にならなかったと思う」
「職場の呼び方として、わかるので」
「でも、水野は距離が近い」
「距離が近い」だけは、きっぱり言うので、ちょっと笑いそうになった。
「じゃあ、朝倉さんが変えればよくないですか?」
「ひよりさんじゃなくて、ひよりと呼んでください」
朝倉さんは、私を見て「え」と一瞬、硬直した。
「これで、解決ですね」
「では、どうぞ」
朝倉さんは、おずおずとカップをゆっくりテーブルに置いた。
「え…と…ひより」
胸の奥に届くような声だった。
「…はい」
声が、小さくなる。
「ひより」
今度は、さっきより少し低い声だった。
私はマグカップを両手で包んだまま、顔を上げる。
「はい。なんですか?恒一さん」
答えた瞬間に、朝倉さんの動きが止まった。
「それは…ずるい」
声が、掠れている。
一瞬、視線を下に向けて、私が持っているカップを上から持ち上げる。
カップを徐にテーブルに乗せた
私は、カップが手から離れてテーブルまで移動する様子を何も考えずに見ていた。
そして、朝倉さんの手が私の頬に触れた。
「嫌なら言ってください」
その確認だけは、いつもの朝倉さんだった。
「嫌です」
私は首を振る。
朝倉さんの動きが、ぴたりと止まった。
その顔を見て、慌てて言葉を足す。
「……キスするたびに、そんなこと、聞かないで?」
「嫌なはずないでしょう?」
朝倉さんは、何かを堪えるように目を伏せる。
「今のは、本当にずるい」
そう言って、朝倉さんはもう一度私に触れた。
頬を包む手が熱い。
背中に回った腕が、少しだけ強かった。
彼の胸に手を置いた。
鼓動を感じたいと思った。
私はちゃんとここにいる。
自分でこの人の腕の中にいる。
二つ並んだマグカップから上がる湯気が揺れる。
朝倉さんの部屋に、初めて私の名前が落ちた。
そして、その名を呼ぶ声が、私だけのものになった気がした。
エピローグ
ひよりさん――いや、ひよりを送って部屋に戻ると、部屋はいつも通り静かだった。
小さなソファ。
ローテーブル。
テレビ。
必要最低限のキッチン。
何も変わっていないはずなのに、少しだけ違って見える。
キッチンの棚に、今日買ったマグカップがふたつ並んでいた。
ひとりで暮らすには、これで十分だった。
必要なものは揃っている。
困ったこともない。
けれど、十分だと思っていたものが、少しずつ足りなくなっていく。
それが、嫌ではなかった。
むしろ、次に彼女がここへ来る日を考えている自分に気づいて、小さく息を吐いた。
「……ひより」
誰もいない部屋で、もう一度だけ呼んでみる。
その名前は、さっきより少しだけ自然に口から落ちた。
キッチンに並んだふたつのマグカップを見て、俺は静かに笑った。
この部屋に、帰ってくる理由がひとつ増えた。
番外編3 ひより日和「ふたつのマグ」 おわり




