第8話 演出の虚構
視聴覚室の前に辿り着いた時、僕の肺は焼けるような熱を帯び、呼吸のたびに喉の奥が不快感の味を覚えた。
重厚な扉の前に、見慣れたたくましい背中を見つけ、僕は枯れた声を絞り出す。
「大樹。視聴覚室の鍵、見つけたんだ」
僕は大樹の姿を見るとすぐに駆け寄った。大樹は助かったと言わんばかりに僕の肩に手を置き、深く重いため息をつく。
どうやら先ほどまで殺人鬼に追われていたらしく、肩が激しく上下し、額からは嫌な汗が滴っていた。
僕は急いで視聴覚室の扉を開け、大樹を室内の暗がりに引き入れる。椅子に崩れ落ちた彼は、僕が手渡した水を一気に飲み干した。
「……最悪なニュースがある」
大樹の声は、地底から響くように低かった。
「白井先生が、殺られてた。保健室だ。
……俺、一度別れた後、どうしても先生が心配で、確かめに行ったんだ。あそこなら安全だって、先生なら大丈夫だって……縋りたかったのかもしれねぇ…っ。」
大樹が拳を固く握りしめ、爪が食い込むほどに震わせる。
「でも、俺が見たのは……そんな綺麗なもんじゃなかった。恐らく、先生は、逃げる暇さえ与えられなかったんだ。
先生の脚を、腹を、……まるで子供がハサミで紙を切り刻むみたいに、何度も、何度も……!」
大樹の視線が虚空を彷徨う。その瞬間、彼の意識は、あの鉄臭い匂いが立ち込める保健室へと引き戻されていた。
扉を開けた瞬間、視界に飛び込んできたのは床を埋め尽くす赤黒い海だった。その中心に、かつて白井先生だったものが、内臓と骨の部位を散らばせて倒れていた。
「俺……先生を、せめてベッドに寝かせてあげようと思った。でも、身体が……バラバラすぎて、どこから持ち上げればいいのか、分からなくて…それで、それで…俺は床に這いつくばって、先生だったものの欠片を一つずつこの手でかき集めたんだよ。
ぬるりとした生ぬるい肉の塊を、完成することのないパズルみたいに繋ぎ合わせて……。」
死んでもなお、先生の顔は酷いものだった。
絶叫を上げたまま固まったような、絶望に歪んだ表情。
大樹は震える指で、その開いた口を閉じ、剥き出しの眼球を覆い、せめて安らかに見えるように形を整えたのだ。
「……それで先生の顔に白い布をかけたその時、気づいたんだ。床に“開かない扉”があっただろ? そこが開いてたんだ。」
「まさか……!」
「恐らく殺人鬼はそこを通ってきた。俺たちはずっと、廊下を追ってくるとばかり思い込んでいたが……違う。あいつは壁の中を自在に移動してやがるんだ。あんなの、不意を突かれたら誰だって終わりだ。」
背筋が凍る。
先生ほど警戒していた人でさえ、死角からの襲撃には抗えなかった。この学校そのものが、殺人鬼に有利なように設計されている。
大樹の話を聞きながら、僕の脳内では不快な、そして謎の違和感のノイズが鳴り止まなかった。………僕は、気づいてしまった。気付きたくなかった。
「……おかしいよ、大樹。おかしい…。」と、僕の声は自分でも驚くほど硬く、震えていた。
「殺人鬼には10秒待つっていう絶対的なルールがあったはず…なのに、なのに!
脱出ゲームなら…、なんて言うか、ああもう!なのに、白井先生は不意を突かれて殺された……?
隠し扉を使って、カウントもなしに?
だって最初大樹言ってたじゃないか、そして初めて僕が殺人鬼と遭遇した時も殺人鬼は10秒数えて待ってた…つ!!」
ルールが書き換えられている。
あるいは、最初からそんなものは存在しなかったのか。
思考の土台が泥のように崩れていく感覚に、僕は吐き気を覚えた。
……いや、違う。
僕が感じているこの吐き気は、恐怖からくるものじゃない。
まるでバグを見つけた時の不快感に近いのだ。
「ルールなんて……あんな化け物に、そんなもん通用するわけねぇだろ……っ。あの化け物は楽しそうに人間を殺してた………快楽殺人鬼だよ!!」大樹は、震える手で顔を覆ったまま、掠れた声でこぼす。
理屈が通らない。その事実が、死の恐怖以上に僕の神経を逆撫でしていた。
(…もしかして最初から、ルールなど…。)と、僕は嫌な予感がした。
ただプレイヤーである僕たちを絶望させて、次の演出を進めるためだけに、お役御免として消去されたような、そんな乾いた感触。
(まるで……ただの捨て駒じゃないか。)
先生だけじゃない。
同級生も、巴も、流星もみんな、彼らが血を流して死んだのは、彼らの人生の終幕ではなく、この脱出ゲームという劇を盛り上げるための、安っぽい演出に過ぎなかったのではないか。
(……まるで、誰かが途中でプロットを書き換えたみたいだ。それも、僕たちという駒を絶望させて…弄くり回すだけの。)
白井先生の死もそうだ。ルールに基づいたミスではなく、単に飽きたから消されたような、あまりにも雑な退場。
知恵を絞る余地さえ奪い、ただ純粋な恐怖と暴力で場を繋ぐ……普通の脱出ゲーム好きなプレイヤーが見たら激怒しそうな内容ばかり。ただ残虐な死で観客を喜ばせるためだけに配置された、使い捨ての肉の塊みたいだ。
絶望が室内に満ちようとした時、僕は声を絞り出した。
感情よりも先に思考が動いたのだ。何よりも先に情報共有が最優先だと…。
「……大樹。僕からも報告があるんだ。有栖に、さっき会った。」
大樹の肩が、びくりと跳ねた。
「……っ、有栖が?生きてるのか?」
彼は弾かれたように顔を上げ、僕の制服の袖を掴まんばかりの勢いで身を乗り出した。その瞳には、恐怖を塗りつぶすような、見ていられないほど痛々しい切実な光が宿っている。
「うん。2-Aに隠れてもらってる。無事だったよ……今のところは」
「そうか……よかった、本当によかった……!」
大樹は、膝から力が抜けたように再び椅子に沈み込んだ。震える手で顔を覆い、何度も深く、嗚咽に近い呼吸を繰り返す。
白井先生の死で一度は折れかけた彼の心が、有栖の生存という一点だけで、かろうじて繋ぎ止められているのが分かった。
「……いったん別行動にするぞ。、」
しばらくして顔を上げた大樹の瞳には、無理やり自分を奮い立たせるような鋭さが戻っていた。
「俺は鍵を持って体育館に行く。
巴たちの……いや、なんでもねぇ。とにかくあそこには何かがあるはずだ。ユーリ、お前は有栖を保護して調理室に向かえ。あそこは構造上、隠し扉を作る隙間がない。……いいな?」
「わかった……。」
立ち上がろうとした僕の肩を、大樹が不意に強く掴んだ。その口元が、場違いにわずかだけ緩む。
「あと……ワンチャン、有栖に告白でもしてみろよ。吊り橋効果ってやつだ。案外いけるかもしれんぞ。死ぬ前に、やりたいことはやっとけ。」
「なっ!? なんてこと言うんだよっ……!」
僕が声を上げそうになると、大樹は真剣な、どこか寂しげな顔で僕を見た。
「……じゃあな。告白、忘れるなよ」
大樹は僕の手から体育館の鍵をひったくるように取ると、廊下の闇へと消えていった。
その直後だった。
「おいおい待てよ! 逃げるんじゃねぇ、小柄な体型を利用してんじゃねぇ……ッ!」
ドタバタと廊下に響く足音。音楽室の方からだ。胸が凍り付く。
恐る恐る角から覗き込むと、そこには仁王立ちする殺人鬼と、壁際に追い詰められ、肩で息をする本来なら2-Aにいるはずの有栖の姿があった。
「一発殴らせろ!」
苛立ちを隠さず、獣のような声で怒鳴りつける殺人鬼。その手にある大鎌には、まだ新しい肉片がこびりついている。
対する有栖は、恐怖に瞳を凍りつかせながらも、掠れた声で言い放つ。
「……死んでしまうから無理よ。そんなの、当たり前でしょう?」
その瞬間、有栖の体が小刻みに震え出すのを見た殺人鬼の眉間に微かな陰が差した。だが、殺人鬼はすぐにそれを打ち消すように顔を歪め、地面に唾を吐き捨てた。
「……チッ、相変わらず非力だし体力ねぇなお前。避けるだけは一丁前かよ。俺の攻撃を股下くぐってかわすなんて……生意気なんだよ。」
「……っ」
「……今回は見逃してやる!
おい、そこの陰キャクソガキ! さっさとこいつを連れて行け! 気配が消えるまでここにいてやるよッ!!」
殺人鬼はそう叫ぶと、大鎌を肩に担ぎ、僕たちに背を向けてその場にドカッと胡坐をかいた。
数えない。
10秒の猶予を与える遊戯さえ放棄して、あいつは僕たちを、ゴミでも払うような手つきで追い払った。
攻略対象が意思を持ち、ルールを私物化している。その事実の不気味さが、背筋をじりじりと這い上がってくる。
10秒待たずに殺すこともできれば、10秒待たずに逃がすこともできる。
白井先生の時は、隠し扉を使ってカウントなしに惨殺した。なのに、有栖に対しては10秒数えることさえせず、背中を向けて見逃している。
結局、僕たちはあいつの手のひらの上で、その日の気分次第で生かされているだけの家畜に過ぎないのか。
「っ……わかった! 行こう、有栖!」
「ユーリくん……うんっ!」
僕は飛び出し、震える有栖の手を引く。
震える彼女の手を引く僕の指先は、氷のように冷え切っていた。
殺人鬼の背中から放たれるおぞましいほどの沈黙が、
ルールを信じていた僕を、嘲笑っているような気がしてならなかった。
背後で、殺人鬼が低く、地の底から漏れるような声で独り言を吐くのが聞こえた。
「……今度は、離すんじゃねぇぞ。」
その言葉の意味を考える余裕なんてなかった。
僕は彼女を連れ、赤い月に支配された闇の中を、狂ったように駆け抜けた。
物資がある調理室の準備室へ滑り込み、重い扉の鍵を閉めた瞬間、有栖はその場に膝から崩れ落ちた。
「はぁっ……はぁっ……。」
彼女は自分の肩を抱きしめ、吐き出すような呼吸を繰り返していた。
「……怖かった……。」
窓から差し込む赤い月光が、彼女の頬を伝う涙を黒く塗り替えていく。
「……有栖。もう、大丈夫だ。僕が守る。絶対に、君をあんな目に遭わせない。」
巴と流星を見捨てて生き残った僕が、今、目の前の少女を救うことに全てを懸けようとしている。
「……本当に? 捨てないで……くれる?」と、有栖の細い指が、僕の手をぎゅっと握り返す。
その頼りない冷えた温度が、今の僕にはひどく恐ろしかった。
「ああ、約束だ。命に代えても。」
有栖は震えながらも、一瞬だけ、消え入りそうなほど微かな笑みを浮かべた。
巴と流星を見捨て、あの残酷な肉の匂いから逃げ出した僕が今、目の前の少女を救うことに全てを懸けようとしている。
脳の片隅では、この決意すら、自分の罪悪感を薄めるための罪滅ぼしではないかと冷たく囁く声が聞こえた。
有栖を守りたいという僕の真心に、どろりとした黒い感情が混ざり込んでいく。けれど、僕はそれを無視して、彼女の冷え切った手を強く握りしめた。
赤い月光を浴びた彼女は、今にも霧の中に溶けてしまいそうなほど美しく、そして…この世のものとは思えないほど、危うかった。
目の前の光を見て、僕は…気づかなかったんだ。
ホラーゲームにおいて今回やってはいけないことをしたということを…。




