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桜の生贄  作者: もち
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第9話 残滓のゆりかご

調理室全体を支配していた殺気は、重い扉を閉ざしたことで、よどんだ静寂へと姿を変えた。


 有栖は調理室全体を見回す。

 

 無機質なステンレスの調理台は、不自然なほどに磨き上げられ、窓から差し込む赤い月光を鈍く跳ね返している。棚には缶詰や乾パンが、まるで行儀よく並ぶ兵隊のように整然と置かれていた。

 

「……ここ、本当に学校なのかな。」

 

 有栖が、指先で棚の端をなぞりながら呟く。

 

「廃校にしては綺麗すぎるし、備蓄も……揃いすぎてる。

 まるで、私たちがここで飼育されてるみたい。電気も、ガスコンロも付かないのに…なんで冷蔵庫は機能してるんだろ。」

 

 僕はその言葉の先にある、おぞましい想像を飲み込んだ。

 

 生贄を新鮮なまま保つための、巨大な保冷庫。


 ここは殺されるのを待つ家畜が、飢えで肉質を落とさないように管理された檻なのだ。そして、絶望し死ぬことで観客を喜ばせる舞台でもある。


 殺人鬼が有栖を気まぐれに見逃したのも、僕たちがまだきっと食べ頃ではないからか、あるいはもっと絶望を熟成させてからの方が観客にとっては娯楽からかもしれない。


 そんな絶望を口にすれば、彼女の細い肩は今度こそ砕けてしまうだろう。僕は努めて穏やかな動作で、棚から一本のジュースを取り出し、彼女に手渡した。

 

「今は、これに甘えよう。体力を戻さないと、逃げることもできないから。」

 

「……ありがとう。」

 

 有栖は小さく頷き、震える指でプルタブを開けた。カシュッ、という乾いた音が、静まり返った室内にやけに大きく響く。

 

 カタリ。不意に、調理台の奥、光の届かない隅で硬質な音がした。

 

 有栖の身体がびくりと硬直する。そこには重い鍋の蓋が置かれており、それがまるで呼吸をするように、わずかに揺れていた。

 

 風など吹いていない。密閉された空間で、何かが内側から干渉しているのだ。

 

「……有栖、僕の後ろに。」

 

 僕は喉の渇きを堪え、一歩、また一歩と調理台の奥へと歩み寄った。床下から、誰かが冷たい吐息を吹きかけているような、粘りつく寒気が足元を撫でる。

 

 棚の背後、影に隠れるようにして、それは口を開けていた。

 

 床下へと続く石造りの階段。そこからは、鉄錆と、古びた血の匂いが混ざった生温かい風が、肺の奥を汚すように吹き上がってくる。

 

「……何、これ……階段?」

 

 有栖の声が震える。彼女は、白井先生が保健室の「これ」と同じ道を通った奴に殺されたことをまだ知らない。

 

「……そうだ。殺人鬼は廊下を通る必要なんてない。壁の裏や床下……この学校の血管を通って、どこへでも現れるんだ」

 

 その事実を口にした瞬間、自分の背筋にも鋭い悪寒が走った。逃げ場など、最初からどこにもなかったのだ。


 幸い、有栖には聞こえていなかった。

 

 その時、静寂を切り裂いて扉が勢いよく開かれた。

 

「おい……っ、ユーリ! 無事か!」

 

 飛び込んできたのは、大樹だった。

 

 その姿に、僕は息を呑む。


 端正だった彼の顔は土埃と汗にまみれ、肩は激しく上下している。


 シャツの袖には新しい返り血のような染みが飛び散り、剥き出しの腕には何かにしがみついたような擦り傷がいくつも刻まれていた。

 

 彼は扉に背を預けて鍵を閉めると、そのままずるずると床にへたり込み、肺を酷使するような荒い呼吸を繰り返す。

 

「大樹……!何があったんだよ、その怪我……!」

 

「……ああ、気にするな。体育館の方を調べてたら、例のあいつと鉢合わせそうになってな。死に物狂いでダクトを這いずり回って、ようやく撒いてきたところだ。」

 

 大樹は震える手で顔の汗を拭い、ようやく僕らの傍らにいる有栖に視線を向けた。

 

「……有栖。……よかった、お前も無事だったんだな。」

 

 有栖は大樹のあまりに凄惨な様子に、言葉を失って立ち尽くしている。


 「大樹…あれみて。」大樹は僕が指差した闇の階段を見つめ、苦々しく吐き捨てるように言った。

 

「やはりな……ここにもあったか。保健室の床下も、これと同じだった。」

 

「……え?」

 

 有栖が怪訝そうに声を漏らす。


 大樹は一瞬、言い淀むように僕と目を合わせたが、隠し通せる状況ではないと悟ったのか、重く低い声で続けた。

 

「有栖、驚かないで聞いてくれ。いや…聞いても叫んだりとかしないでくれ。

 ……殺されてた。保健室にいたはずの白井先生が、この階段と同じ、床下の隠し通路を通ってきた殺人鬼に…。」

 

「……先生が?」

 

 有栖の顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。

 

 彼女にとって、白井先生は数少ない大人の守護者だったはずだ。その希望が、今、大樹の残酷な報告によって断たれた。

 

「……だから、俺たちは背後の壁すら信用できねぇってことだ。殺人鬼は影の中を、蛇みたいに這ってどこへでも来る。

はあ…くそ…体育館見に行くつもりが追われるし、複雑な暗号は俺にはわからん…。」

 

 大樹は鞄からペットボトルの水を強引に引き出し、ゴクゴクと喉を鳴らしながら飲む。

 

「ほら、お前達も何か飲んで、食べて、落ち着け。パニックが一番寿命を縮める。

 ……少し休んだら、移動するぞ。ここも、もう安全じゃない。」

 

 大樹の手は、まだ微かに震えていた。

 

 強靭な彼でさえ、ここまでの恐怖を味わってきたのだ。僕は差し出された水を一口飲み、喉に張り付くような鉄の味を押し流した。


 大樹の手は、まだ微かに震えていた。強靭な彼でさえ、これまでの恐怖を味わってきたのだ。


 ふと、そのボトルのキャップに赤黒い指紋が残っているのが見えた。

 

 大樹はそれを汚れだとでも思っているのか、自分の服で乱暴に拭い、無理に作った笑顔で有栖にカロリーメイト差し出す。


 先ほどまで死体の欠片を整えていた名残だ。僕はそれを見て息を飲む。

 

 だが、彼は立ち上がり、決意を固めるように言った。

 

「……もう休んでる場合じゃない。体育館に行こう。広い分だけ逃げ道もあるし、物資もあるはずだ。

 もし他に生存者がいるなら、あそこに集まっている可能性が高い…と思いたいがあの殺人鬼相手だ。7割以上は死んでるだろうな。」


 大樹の言葉は力強いが、この窮地の中、前向きに振る舞うことで、ようやく正気を繋ぎ止めているのが分かった。

 

「……でも。」

 

 僕は言葉を詰まらせる。


 体育館方向から聞こえた巴の凄惨な悲鳴が、今も耳の奥にこびりついて離れない。

 

 けれど、有栖がそっと僕の袖をつまんだ。

 

「……一緒に行こう。離れたら、きっともう二度と会えない気がするから。」


 彼女は死ぬとは言わなかった。

 

 ただ会えないと言った。その震える声に、僕は強く頷くしかなかった。


 僕たちは、備蓄された餌を胃に流し込み、再び廊下へと足を踏み出した。

 

 背後で調理室の扉が閉まる音。それは、次の演出イベントが始まる合図のように、僕の耳に響いた。


 僕たちは、自分たちが観客ではなく、血を流して死ぬことでしか価値を証明できない役者キャストかあるいは生贄であることを、嫌というほど分からされていた。


「行こう、体育館へ。」と大樹。僕と有栖は頷くと大樹の後ろについて行った。


 

 

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