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桜の生贄  作者: もち
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第7話 再会の時




 1-C教室の入り口。

 

 流星だった赤黒い肉塊が転がる足元から、僕たちは逃げるように廊下へ出た。

 

 巴を連れ去った殺人鬼が向かった体育館方面からは、いまだにべったりとした死の残響が這い寄ってくる。


 あの方角へ行けば、確実にあの殺人鬼が、まだ獲物の肉を刻んでいる最中に出くわすだろう。

 

「……今は、体育館に行くのは自殺行為だ。」

 

 大樹の声は低く、自分への怒りで震えていた。

 

「巴ちゃんの悲鳴……あそこには、まだあいつが居座ってる。今行けば、俺たちもまとめて殺されるだけだ。

 ……ここは、手分けすべきだと思う。」

 

 この地獄で、一人になる。

 

 呼吸が止まりそうになったが、大樹の返り血に染まった拳を見て、僕は無理やり頷いた。

 

「……大丈夫。行くよ。効率よく情報を集めないと、全員死ぬ。」

 

 その言葉を最後に、僕たちは左右の闇へと別れた。


 階段を一段下りるたびに、足の裏から冷気が這い上がってくる。校舎が吐き出すミシィッという軋み音が、背後で誰かが階段を上り始めた音のように聞こえて、僕は何度も振り返りそうになった。


 実際、職員室へ向かう道中、僕は何度も背後を振り返った。

 

 遠くで窓ガラスがガタガタと鳴る音や、自分の足音が廊下に反響するたび、心臓が口から飛び出しそうになる。

 

大樹という心の安定を失った自分は、これほどまでに無力だったのかと僕は手のひらを握りしめる。

 

 ようやく辿り着いた職員室の扉は、拍子抜けするほど簡単に開いた。

 

 掲示板の端、不自然に浮き上がった壁紙を剥がすと、銀色の埋め込み式金庫が顔を出した。犬、猫、鳥、馬のパネル。

 

 僕はそれを見て、機械的に指を動かした。巴たちが死んだ直後だというのに、脳は勝手に数字を弾き出している。

 

「猫1、鳥2、馬3、犬4。……はい、正解。」

 

 カチリと、あまりに手応えのない解放音。扉の中には、銀色の鍵と一緒に、一枚の小さな()()()が置かれていた。

 

「……診察券?桜田……有栖?」

 

 そこには、僕の想い人である彼女の名前と、()()()()()()()()の文字。

 

 日付は、この地獄が始まる一週間前で止まっている。

 

「……何だよ、これ。誰の仕業?悪趣味すぎる…。」

 

 銀色の視聴覚室の鍵だけを握りしめ……手のひらに食い込む鍵の感触が、まるで()()()()()()()という管理者の命令そのもののようで、吐き気がした。


 僕はしばらく診察券を見ていたが、やがてそれをポケットに入れた。


 特に理由はなかった、なのに……診察券の角が指に刺さる感触だけが、妙に現実味を帯びていて、手放すのが怖かったんだ。

 

 三階へ戻る階段を上がりきった時、廊下に引き摺られた粘り気のある血の跡に目が止まる。

 

 大樹の体格よりずっと大きな引きずり跡、その血溜まりの中に、銀歯が一つ、転がっていた。


 まだ生々しい歯茎の肉がこびりついたそれは、殺人鬼が獲物をどれほど乱暴に扱ったかを無言で示している。


「死体を運んでいる? 」その推測が脳に浮かんだ瞬間、僕は自分の指先が凍りつくのを感じた。パズルのピースを埋めるような感覚で、僕は人間の死を()()()()として処理し始めている。

 

 恐怖よりも先に、ゲーマーとしての疑問が脳を占拠する。

 

 次のパズルのピースを拾うような感覚で銀歯を見つめたその時、死の腐臭を塗りつぶすように、場違いなが(かおり)が鼻をくすぐる。

 

 蜂蜜のように甘く、凛とした百合の香り。

 

 音楽室の前、赤い月光を背負って、彼女は呆然と立ち尽くしていた。

 

「……桜田、有栖……?」

 

 彼女がゆっくりと振り返る。その瞬間、ポケットの中の診察券が、妙に重く感じられた。


 その瞳は焦点が合っておらず、まるで長い夢を見ているかのようだった。

 

「……ユーリ君?」

 

 鈴の音のような声。けれどその響きには、生身の人間が持つ熱が欠落していた。

 

 彼女と2-A教室に逃げ込み、扉を閉める。カーテンの隙間から差し込む赤い月光が、彼女の白い肌に朱を指していた。

 

「ずっと……暗闇の中で、ピアノの音だけが聞こえていたの。気づいたらここにいて、外はあんなに赤くて……。」

 

 彼女は窓の外を見つめたまま、力なく微笑んだ。

 

 何が起きているのか、自分がどんな絶望のふちに立たされているのか、彼女はまだ何も理解していない。


 ただ、処理しきれない恐怖のせいで、心が現実から切り離されているだけなのだ。

 

 その儚さに、僕の胸は不謹慎な熱を帯びた。

 

「月が、綺麗ですね。」

 

 無意識に唇から零れた。


 この地獄で口にするには、あまりに皮肉で、切実な言葉。…その言葉を口にした瞬間、僕の中で何かが決定的に壊れた音がした。

 

 巴の叫び、流星の肉が裂ける音、そして大樹の震える拳。それら全てをただのノイズとして切り捨て、僕は今、この血生臭い校舎の中で、甘ったるい恋の真似事をしている。

 

彼女を守るんじゃない。彼女を守っている自分という物語に、僕は逃げ込んでいるだけなんだ。

 

「ええ。本当に……全部が真っ赤ね。」

 

 彼女はただ、吸い込まれるような瞳で月を見つめていた。


 その無垢な横顔を見ていると、ポケットの『診察券』が妙に重く感じられる。

 

 彼女はこの場所のルールも、殺人鬼の快楽も、僕が犯した言葉の過ちも知らない。

 

 だからこそ、守らなければならない。彼女だけは、この穢れに染めてはいけない。

 

「僕、大樹を呼んでくる。絶対に、ここから動かないで。」

 

 僕は彼女の肩に誓うように手を置き、しばらくしてそっと手を離す。


 再び廊下へ出ると、背中に感じる彼女の視線が刃物のように冷たく突き刺さる気がした。

 

 もし彼女が、僕がこの診察券を隠し持っていると知ったら? もし、彼女の絶望の理由が、僕の知らない誰かにあるのだとしたら?

 

……いや、考えるな。今は、大樹を探さなきゃ。

 

僕は丸メガネを強く押し上げ、レンズの曇りを拭うことすら忘れて歩き出す。ポケットの中の診察券が、一歩ごとに僕の肉を削っていく。


 それは、偽物のヒーローに与えられた、唯一の罰のように思えた。


 それでも…「月が綺麗ですね」なんて、その言葉を口にした瞬間、僕は自分自身にゾッとしていたのだ。

 

巴たちの内臓がまだ温かいうちに、僕は、体温を失ったような彼女に愛を囁いた。


 同級生や巴と流星があんな無惨な死に方をした場所で、僕はまだ、愛の告白ごっこを演じる余裕があるのか、と。


 僕は僕を軽蔑する。


 この、吐き気がするほどの独りよがりの僕を。

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