第86話:燃費最悪の恐怖と、査定員の反撃
大議事堂を支配する赤黒い魔力の波は、ただの光や熱ではなかった。それは物理的な質量と、ねっとりとした死の気配を伴って、空間そのものを圧迫していた。
宰相ギルフォードの足元から噴き上がるその暴力的な力の前では、どれほど莫大な富を持っていようと、どれほど高貴な血筋であろうと無力だった。
冷たい大理石の床に這いつくばる数百人の貴族たちは、息をすることも忘れ、ただ己の命乞いをするためにガタガタと無様に震え上がっている。
「見たか、平民の娘よ! 《《これが国家だ》》!」
ギルフォードの顔には、もはや冷徹な政治家の面影はない。絶対的な権力と暴力で他者を屈服させる、暴君の悦びがべったりと張り付いていた。
「倫理や綺麗事など、剥き出しの暴力の前では何の意味も持たん! 私が管理するこの『命の搾取回路』だけが圧倒的な防壁を生み出し、明日国境を越えてくる帝国軍の蹂躙から貴様らを生かすことができるのだ! 私の血塗られた算盤だけが、この国を明日へ繋ぐ絶対の真理なのだ!」
狂乱の風が吹き荒れる中、黒衣の大男ヴォルフが油断なく大剣の柄に手をかけ、エマ・ルミナスの前に庇うように立ち塞がる。
「エマ、こいつは少しばかり厄介だぞ。魔力の総量が異常だ。……剣で叩き斬るには、泥の沼を無理やり泳ぐような不快な重さがある」
ヴォルフの琥珀色の瞳が、かつてない警戒の色を帯びていた。
だが、彼に背中を守られたエマは、微塵も動じていなかった。
吹き荒れる突風にスレート・グレーの制服を翻しながら、彼女の顔には恐怖も、あるいは怒りすらも浮かんでいない。
ただ、彼女の灰青色の瞳――『魔導式解析眼』の奥では、青白い演算回路が猛烈な勢いで明滅を続けていた。
先ほど、ヴォルフから無理やり血中に叩き込まれた軍用レーションの暴力的な糖分が、彼女の脳細胞を限界突破のオーバークロック状態へと引き上げている。
彼女の瞳は、宰相が放つ恐るべき魔力を「恐怖の象徴」としてではなく、ただの《《入力と出力のデータ》》として無機質にスキャンし続けていた。
「……驚くほど、不格好な数式ですね」
エマの低く、氷のように冷たい声が、轟音の議場に不思議なほどクリアに響き渡った。
「何だと?」
ギルフォードが眉を顰め、エマを睨み下ろす。
エマは真鍮の万年筆を指先で回し、虚空に何かを書き込むような、極めて事務的な仕草を見せた。
「先日、勇者アレクサンダーの不正を暴き、彼を社会的に上場廃止に追い込んだ時のことです。……彼が広場で最後に放った大魔法は、無駄に派手で、熱と光ばかりを周囲に撒き散らす、極めて中身のないものでした」
エマの脳裏に、王都の広場で暴走した勇者の姿がフラッシュバックする。
あの時、勇者の剣から放たれた魔力は、数万の群衆を焼き尽くすほどの凄まじい熱量を持っていた。だが、エマの解析眼から見れば、それはただエネルギーが暴発しているだけの、非常に脆い構造だった。
「私はずっと疑問に思っていたのです。いくら民衆を騙すための『見栄え』を重視したとはいえ、なぜあれほどまでに『変換効率の悪い術式』を使っていたのかと。……彼個人の、魔法使いとしての技術的な能力不足だと思っていましたが、どうやら違ったようですね」
エマの視線が、ギルフォードから、その足元の地下深く――命を燃やす巨大な魔導炉へと向けられる。
「彼が使っていた魔法の燃費が悪かったのは、大元の供給源であるこの王宮地下の魔導炉自体が、ひどく旧式で、燃費が最悪な《《欠陥品》》だったからです。……勇者はただ、その粗悪なエネルギーを受け取る末端のコンセントに過ぎなかった」
「……貴様、何を口走っている?」
「《《数字》》の話です、前・宰相閣下」
エマは銀縁眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、感情を完全に排した声で宣告した。
「現在、地下の魔導炉から吸い上げられている人的資本(命)の総熱量、およそ 100,000 。それに対し、貴方が今、この議場を制圧し、上空の防壁を維持するために展開している魔力障壁の実質的な強度は……わずか 2,500 」
その数字が意味するものを、エマは冷酷に突きつける。
「地下から引き上げた膨大な命のエネルギーが、地上のシステムへ変換される過程で、凄まじい量の『熱』と『余剰ノイズ』として漏れ出している。……計算するまでもありませんね。貴方が絶対だと誇るその生命抽出システムの魔力変換効率は……たったの《《 2.5 パーセント 》》です」
「……なッ」
ギルフォードの表情に、初めて明確な動揺が走った。
床に平伏していた貴族たちも、その言葉の意味を理解できず、呆然と顔を上げる。
「残りの 97.5 パーセントの命は、国を守るための力にも、帝国を威圧するための見栄にもなっていない。ただシステムの穴から無駄に垂れ流され、虚空へ消えて、ドブに捨てられているだけです」
エマは一歩前へ踏み出し、万年筆の先で宰相を真っ直ぐに指し示した。
「……宰相閣下。貴方は『国を守るための合理的な犠牲だ』と声高に叫び、大局の算盤を弾いているふりをしていました。ですが、真実は違いますね。貴方の使っている魔導炉が、時代遅れの手抜き工事で作られた、ただの《《不良品》》なだけです」
痛烈な、技術的かつ算数的なダメ出し。
絶対的な恐怖の象徴であったはずの宰相の魔法が、一人の少女の計算式によって、ただの「燃費の悪い欠陥品」へと引きずり下ろされた瞬間だった。
「貴方は、自らの無能なシステム管理と、技術的な不備を放置した怠慢を、『帝国への抑止力』というもっともらしい大義名分で誤魔化していただけではないですか!」
「き、貴様ァ……ッ!!」
ギルフォードの顔が、屈辱と激怒によって怒鬼のように歪んだ。
自らの冷徹な大局の支配を「無能な不良品」と断じられたことは、彼にとって何よりも許しがたい侮辱だった。赤黒い魔力が、主の怒りに呼応してさらに荒れ狂う。
「知ったふうな口を叩くな、計算屋風情が! この命の抽出回路は、神殿が数百年かけて構築した『神聖魔法』の最高到達点だ! 人の命を魔力に変えるこれ以上に効率的な数式など、この世界のどこにも存在しない! 代替案も出せぬ分際で、偉そうに語るな!」
宰相の絶叫が、大理石の壁を震わせる。
だが、嵐のような魔力の圧力を受けながらも、エマは微塵も動じず、手元の黒革のバインダーをパタンと閉じた。
「……ええ、お断りします。私は監査機関の査定員です。私の仕事は、帳簿の不備を正確に指摘し、貴方のシステムに不渡りを宣告することまで」
エマが静かに横へ一歩退く。
「……正しい技術提案(代替案)を提示するのは、現場の《《専門家》》の仕事ですから」
その言葉を合図に。
暗闇に沈む議場の中、エマとヴォルフの背後から、一人の女性がゆっくりと前へ進み出た。
彼女は深く被っていた外套のフードを、両手で静かに脱ぎ捨てる。
「……神殿の最高到達点。笑わせないでよ、ギルフォード」
王都の冷たい月光の下に姿を現したのは、若草色の瞳に静かで、しかし確かな怒りを宿した、元聖女――アリアだった。
かつて神殿の奥深くで、偽りの祈りを強要され、人々の命が数字に変換されていく様を血の涙を流しながら見つめ続けてきた彼女。
その手には、神殿の地下金庫から持ち出した古びた『真の聖典』が握られている。
「そんな命を無駄遣いするだけの欠陥術式、神殿の書庫の奥で埃を被っていた『手抜き工事』の寄せ集めに過ぎないわ。……貴方たちは、本当の魔法というものを何も分かっていない」
アリアが静かに目を閉じ、胸の前で両手を組む。
それは、勇者パーティの僧侶がやっていたような虚飾に満ちたポーズではない。世界と向き合い、自らの魔力を紡ぎ出すための、純粋で美しい祈りの形だった。
「本物の『真っ当な祈り)』の効率がどれほどのものか。……元・内部監査官の私が、ここで証明してあげる」
エマの解析によって弱点を暴かれた宰相の「大局の正論」。
それを完全に粉砕するための、アリアによる「真っ当な魔法の証明」が、今、議場という最大の舞台で幕を開けようとしていた。
■元・査定員エマの業務日誌:用語解説
【魔力変換効率/2.5パーセント】
入力されたエネルギー(市民の命の総熱量)に対して、実際に役に立つ魔力(防壁や攻撃魔法)として出力された割合のこと。宰相が絶対だと誇っていたシステムは恐ろしく燃費が悪く、吸い上げた命のほとんどを「熱」や「ノイズ」として無駄に垂れ流しているだけの「欠陥品」でした。勇者の魔法が「無駄に派手だった」のも、この燃費の悪さが原因です。エマは解析眼を用いてこれを数値化し、宰相の「防衛に必要な犠牲だ」という大義名分を完全に論破しました。
【技術的負債/手抜き工事】
過去に採用した質の悪いシステムや手抜き工事が、後になって莫大な維持コスト(国民の犠牲)となって跳ね返ってくること。神殿が構築した「命の抽出回路」は、高度な魔法ではなく、ただ力任せに命をすり潰すだけの粗悪な術式でした。宰相は自らの怠慢を、大局的な政治論で誤魔化していたに過ぎません。




