第84話:正面扉の来訪者と、価値なき権利書
重々しい黒檀の観音開き扉が、大議事堂の鼓膜を打つような轟音と共に開け放たれた。
泥まみれで演壇に立つエマや王太子へ注がれていた数百人の貴族たちの視線が、一斉に後方へと弾かれる。
大議事堂の豪奢な赤絨毯の上を、三つの人影が悠然と歩いてくる。
先頭を行くのは、豪奢な議場にはおよそ不釣り合いな、動きやすい灰色のポンチョを揺らす少年。王国の裏路地と情報網を牛耳るスラム情報屋のルカだ。
その左には、漆黒のパンツスーツを隙なく着こなし、冷徹な美貌に絶対的な自信を湛えた王都の裏経済を支配する投資家――ビアンカ。
そして右には、スレート・グレーの王立保険ギルド制服を肩に羽織り、右目の鑑定用モノクルを妖しく光らせる赤毛の女性――主任査定員、セラフィナが続いていた。
特務騎士の目を掻き潜るため、地下の汚水溜まりを這いずってきたエマや王太子とは対照的に、正面扉から堂々と足を踏み入れた彼女たちの装いには、一滴の泥はねすら存在していない。
「き、貴様ら! ここは神聖なる大議会だぞ! 衛兵、なぜこのような部外者を正面から通したのだ!」
我に返った宰相派の貴族が激昂し、顔を真っ赤にして扉の向こうの回廊を指差した。そこには本来、王宮最強を誇るはずの特務騎士たちが数十人も配備され、蟻の子一匹通さない鉄壁の警備を敷いていたはずだった。
セラは赤いポニーテールを指先で弄び、呆れたように、それでいてひどく楽しげにクスクスと笑い声を漏らした。
「ああ、外の騎士さんたち? 今頃みんな、自分の『給料袋』が空っぽになっていないか、血相を変えて確認しに走っていったわよ」
「な……何を言っている!?」
「教えてあげたのよ。『たった今、王太子殿下が国家の蔵が空っぽであることを宣言したわ。つまり、君たちに明日から払える金貨は一枚も残っていないわよ』ってね」
セラはひらひらと、手元にあった羊皮紙の束を振ってみせた。そこには、王立保険ギルド総本部の重々しい刻印が押された「特別監査状」が輝いている。
指名手配犯として裏口を潜るしかなかったエマとは違い、彼女はギルド上層部の不正を『合法的に』握り潰し、適切に処理することで強烈な貸しを作っている、現役の執行官だ。
その絶対的な公式権限と、「給料未払い」という非情な事実を突きつけられた騎士たち。忠誠心よりも明日のパン代と家族の生活が大事な彼らにとって、もはや重い槍を構えて道を塞ぐ理由はどこにもなかったのだ。
「それに、失業した騎士さんたちの再就職先なら、こちらのビアンカさんが、以前の三倍の給金で手配してくださるそうよ? お金の切れ目は忠誠の切れ目。……彼ら、とても聞き分けが良かったわ」
絶句する貴族たちを見下ろし、今度はビアンカが、漆黒のヒールの音を大理石の床に響かせて一歩前に出た。彼女の底冷えするような黒い瞳は、議場に集まった貴族たちを『人間』としてではなく、『償還期限の切れた不良債権』を見るように冷酷に値踏みしている。
「さて、貴族の皆様。貴方たちが後生大事に抱え、振りかざしているその『特権の権利書』について、少しばかり現実の授業をして差し上げましょう」
「き、貴様ら、何度吠えようが無駄だ! 我々の特権は国家に保証された絶対の財産……!」
「その権利書を『借金のカタ』にして、貴方たちの見栄と贅沢のために莫大な資金を貸し付けていたのは、他でもない私の商会よ。……ルカ。王都の通信網(魔導回線)はどうなっている?」
ビアンカの問いに、情報屋の少年がニヤリと笑って指を鳴らした。
「完璧だよ。俺が王都中の通信魔導具の周波数をジャックして、昨晩から『一時的な大規模障害』を流しておいたんだ。……おかげで、あんたたちの権利書が裏市場で一斉に売り飛ばされてるなんて情報、誰の耳にも届かなかっただろ?」
「通信の、遮断だと……?」
「あんたたちが商会に預けていた、その『特権の権利書』。ビアンカさんは、国が破綻する直前――つまり、まだ誰もその価値を疑っていなかった昨晩のうちに、他国の好事家や裏の商人に、全部純金で売り払ったのさ」
ルカが床にバサリと叩きつけたのは、昨晩行われた裏取引の膨大な記録の束だった。
エマの計算によって「破綻」という未来の確定情報を得ていた彼女たちは、パニックが起きる前に貴族たちの財産をすべて換金し、自分たちの利益として吸い上げていたのだ。
「そ……そんな馬鹿な! 他人の権利を勝手に売却するなど、ただの盗賊の仕業だ!」
貴族たちが一斉に怒りの矛先を向ける。しかし、セラはモノクルをクイッと押し上げ、とどめの宣告を下した。
「おや。皆様は、先ほどのルーファス殿下のありがたい宣言をお聞き逃しですか? ……殿下は、国家の蔵が空っぽであることを宣言なさいました。つまり、皆様の権利を裏で支えていた『国家』という保証人は、たった今、法的に《《破産》》したのです」
「…………ッ!」
「ギルドの規約に基づき、価値が消滅した権利書は、もはや借金のカタにはなりません。皆様……今すぐ全額、現金で借金を返していただきますよ」
セラがにっこりと、極上の微笑みを浮かべた。
情報屋が情報の流れを止め、投資家が富を抜き去り、現役の査定員が法的なトドメを刺す。
これこそが、エマが泥まみれで現場を抑えている間に、彼女たちが地上で行っていた「大人たちの決算」だった。
「ひ、ひぃぃっ! 私の屋敷が、宝物庫が……ッ!」
沈黙していた議場が、一瞬にして阿鼻叫喚の地獄へと叩き落とされた。
数人の貴族が慌てて懐から通信用の魔導具を取り出し、自らの屋敷の資産管理人へと連絡を取り始める。しかし、そこから漏れ聞こえてきたのは、彼らの最後の一縷の望みを断ち切る絶望の悲鳴だった。
『だ、駄目です旦那様! 屋敷も、宝物庫も、馬車も、すべて今朝早くから商業ギルドの執行官によって借金のカタとして差し押さえられました! 我々は、全財産を失いました!』
「あ、ああ……あぁぁぁっ!?」
膝から崩れ落ちる者。ただの紙切れとなった証書を握りしめたまま白目を剥いて卒倒する者。あまりのショックに、己の髪をむしりながら奇声を上げる者。
先ほどまで「愛国心」や「防衛の義務」を声高に語り、己の正当性を主張していた高貴なる者たちの姿は、そこにはなかった。
彼らはただ、見栄と特権に依存し、身の丈に合わない借金をしてすべてを失った、哀れな負債者の群れへと成り下がっていた。
「お分かりですか、皆様」
狂乱のるつぼと化した議場を見下ろし、エマは氷のように冷たい声で宣告した。その声は決して大きくはなかったが、不思議と隅々にまで響き渡った。
「貴方たちが国を守る大義だと信じていたものは、ただの『賄賂』です。その賄賂が紙切れになった今、貴方たちを宰相の狂った防衛論に縛り付ける鎖は、どこにも存在しません。……これにて、宰相による『賄賂を通じた議会の支配』は完全に崩壊しました」
エマの宣言通り、もはや誰一人として、宰相ギルフォードの「全権委任」に賛成しようとする者はいなかった。
これで、議会という名の隠れ蓑は消え去った。宰相は、己の権力の基盤であった貴族たちという『共犯者』をすべて失い、完全に孤立したのだ。
「……素晴らしい手際だ」
だが。
すべてを失い、完全に孤立無援となったはずの演壇の上で。
王国宰相ギルフォードは、微塵も焦る様子もなく、むしろ感心したようにゆっくりと拍手をした。
「まさか、意図的に特権の信用を崩壊させ、この愚か者どもから富を剥ぎ取るとはな。……見事な手腕だ。為政者として、最大級の賛辞を贈ろう」
パニックに陥り、床を転げ回る貴族たちを一瞥すらせず、ギルフォードは冷酷に笑った。
「だが、勘違いをするな。私はこの者たちを信頼したことなど一度もない。彼らはただ、私の政策をスムーズに通すための、安価な『潤滑油』に過ぎなかったのだからな。……油が切れたのなら、私の口から直接、現実を語るまでのこと」
宰相の足元から、チリチリと空気を焦がすような、莫大な魔力の波動が立ち昇り始めた。
それは、賄賂という仮面を脱ぎ捨てた、国家の最高権力者としての純粋にして絶対的な暴力の気配だった。
「見栄を張るための飾りが消えた今、お前たちに真の現実を教えてやろう。……なぜ私が、8パーセントの命を燃やしてでも、この防壁を維持しなければならなかったのかをな」
宰相の漆黒の瞳が、エマを真っ直ぐに射抜く。
すべての虚飾が剥がれ落ちた議場で、元・査定員と冷徹なる支配者の、国家の存亡を懸けた『論理』が激突しようとしていた。
■元・査定員エマの業務日誌:用語解説
【事前売却】
ビアンカは国家の蔵が空っぽになる(特権証書の無価値化)ことをエマの計算によって事前に知っていたため、暴落する前の昨日のうちに、貴族たちから借金のカタとして預かっていた特権の権利を、事情を知らない裏の商人たちへ「純金」で売り払っていました。投資家による、えげつなくも合法的な資産回収です。
【即時一括返済】
借金のカタ(担保)の価値が消滅した場合、お金を貸している側は「信用がなくなったので、今すぐ全額現金で返してください」と要求できるギルドの規約です。セラ主任は国家破綻の宣言を合図にこのルールを適用し、貴族たちの財産を合法的に根こそぎ差し押さえました。




