第81話:物流昇降機と、特務騎士の死角
王都ルミナリスの大議事堂、その地下。
幾重にも張り巡らされた排熱管がのたうつ暗い回廊は、もはや静寂とは無縁の戦場と化していた。
遥か後方、自分たちが通り抜けてきた連絡通路の向こう側からは、特務騎士たちが纏う黒鉄の鎧が擦れる不吉な金属音と、迎撃にあたっているセラの怒号が、湿った重い空気を伝って絶え間なく反響してきている。
特務騎士――宰相ギルフォードが私費を投じて育成し、法も倫理も超越した「掃除屋」と恐れられる精鋭どもだ。彼らが放つ探知魔法の残光が、網膜を焼くような不快な燐光となって壁を白く舐めている。
1秒 の遅滞、一歩の踏み出しの迷いが、そのまま「包囲」という名の死を意味する、極限の状況だった。
旧排熱管の隠し扉を、バルカ教授が持ち出した古い合鍵でこじ開け、一行が辿り着いたのは、大議事堂の第一階層へと続く、長く薄暗い螺旋階段の前だった。
その段数、目視で正確に 150段。
ひんやりとした石造りの階段は地下の湿気を吸い込み、表面にはぬらりとした苔や結露が浮いていて、極めて滑りやすくなっている。
階段の遥か上、堅牢な扉の向こう側からは、特務騎士たちの重い軍靴の音と、それとは対照的な、宰相ギルフォードの滑らかで自信に満ちた演説の声が、換気口を通じて微かに漏れ聞こえてきていた。
「……チッ、特務騎士の足音が近いな。お嬢様、殿下、急げ! この階段を駆け上がるぞ。上の回廊にはさらに数部隊が張っているだろうが、俺が 3分 で活動停止に追い込む。その間に、二人は――」
ヴォルフが背に負った黒鉄の大剣の柄を握り直し、一段目に足をかけた、その時だった。
「却下します。その階段は登りません」
エマ・ルミナスが、階段の手前でピタリと動きを止めた。
ランプの微かな光に照らされた彼女の横顔は、大理石の彫刻のように真っ白で、血の気が完全に失われている。額には脂汗が浮かび、呼吸は浅く、指先はひどく震えていた。
「お嬢様? どうした、また足がもつれたか。今は休んでる暇はねえんだぞ!」
「現在の私の残存資本を積算しました。この 150段 を自力で登り切り、さらに上層での混戦に付き合った場合、議場の扉を開け、宰相の前に立った瞬間に、私の意識は確実に途絶えます」
「はぁ!?」
ヴォルフが、張り詰めた緊張感を削ぐような間抜けな声を上げた。
背後からは、特務騎士たちの放った物理破壊魔法が壁を砕く、重い衝撃音が迫ってきている。一刻を争う土壇場で、この王立保険ギルド査定員は、事務的な報告書を読み上げるような口調で自らの肉体的な破綻を宣告したのだ。
「気合や根性で解決できる原価不足ではありません、殿下。先ほどの『王国総産出高』の算出で、私の知性を支える糖分は底をつきかけています。ここで不当な体力を浪費すれば、宰相の狡猾な嘘を暴くための知恵が、一滴も残らなくなります。……それは、この国を買い戻すための唯一の手元資金をドブに捨てるのと同じ、最悪の失策です」
「エマ、そなた……正気か。特務騎士はすぐそこだぞ! 登らぬならどうする!」
ルーファスが焦燥に駆られて叫ぶ。
だが、エマは冷静に、死角となっていた壁の隅――厚い埃と、積み上げられた朽ちた木箱に隠されていた、重厚な鉄格子の扉を指差した。
「……バルカ教授。案内、感謝します。ここが、貴方がおっしゃっていた帳簿外の隙間ですね?」
後ろから不機嫌そうに鼻を鳴らしたバルカ教授が前に出た。彼は、迫りくる特務騎士の足音を気にする様子もなく、石壁の継ぎ目に古い真鍮の鍵を差し込んだ。
「ふん。……いいか、よく聞け。あの派手な階段を登るのは、中抜きしか能のない役人どものやり方だ。この議事堂の基礎を組んだ 40年前、わしは工期を早めるために、自分たち職人だけが使う専用の『物流昇降機』を勝手に据え付けておいた」
教授が独特のコツでレバーを引き抜くように回した。石壁の向こう側で重厚な歯車が噛み合う、ズ、ズ、という地鳴りのような音が響き始める。
「今の特務騎士どもは、派手な探知魔法だの魔力認証だのを塗り重ねて満足しておる。だがな、石の中に埋め込まれた 40年前 のアナログな歯車までは、誰も把握しとらん。これは、この建物の図面にも載っていない、わしだけの隠し通路だ。……演壇の真裏にある議長控室へ直結しておる」
ガコン、と音を立てて現れたのは、油の臭いが染み付いた、狭く頑丈な鉄の箱だった。
特務騎士の警備が正規の工程に集中している今、この忘れ去られた昇降機こそが、敵の盲点を突く唯一の道だった。
「……バルカ教授。案内、感謝します。ここからは、私たちが引き受けます」
マは鞄から、対になった二つの導報石を取り出した。鈍い光を放つその石の一つを教授へ手渡し、自らももう一方を握りしめる。
「双方向の共鳴を確認してください。教授、貴方が地下の第四区画に到着し、炉の切り換え準備が整ったら、この石へ合図を。……私も演壇から、決定的瞬間に火を落とすよう指示を送ります。 1秒 のズレも許されません」
「わかっておるわ。この石はわしが昔通した古い配管に共鳴するように細工してある。妨害術式など関係ない。……地下からわしの合図を待て。その拡声器で宰相の面の皮を剥ぎ取ってやるための、最高の舞台を用意してやる」
「当然です。……ヴォルフ、殿下。乗りましょう」
バルカが昇降機のレバーを固定し、一行を送り出すと、自身はさらに深い地下、魔導炉が唸りを上げる心臓部へと背を向けた。
鉄格子が閉まった瞬間、螺旋階段のふもとに特務騎士の先遣隊が姿を現したが、時すでに遅い。昇降機は石壁の裏側を、静かに上昇し始めていた。
狭い荷台の上、ヴォルフは無造作にエマの肩を引き寄せた。
彼は空いた手で、懐から出した高純度の琥珀糖を複数個、エマの口の中に強引に放り込んだ。暴力的なまでの甘さが、地下の冷気で冷え切っていたエマの舌の上で一気に溶け出す。
だが、エマは動揺を見せることなく、無表情のままその硬い結晶をガリリと噛み砕いた。それは食事ではなく、止まりかけた機材を無理やり動かすための、緊急の資産注入だった。
「……ヴォルフ。事前の断りなしに投入するのは控えてください。血糖値の急上昇は、脳の血管に――」
「黙って飲み込め。これからお前は、国一つ分の 20年間 の嘘を、たった一人でひっくり返すんだろ。階段はサボれたが、お前の腹はもう空っぽだ。……途中で倒れられたら、俺の剣が届ねえ場所がある。今は限界まで予備の原価を積んでおけ」
血液に乗って脳へと強制納品された糖分は、エマの灰青色の瞳に、冷徹で鮮明な知性の光を急速に呼び戻していく。
「……不当な過剰摂取ですが、この職務に必要な特別経費として認めましょう」
エマは口の中の甘さを飲み込み、銀縁眼鏡を指先で直すと、一切の感情を排した瞳で、昇降機の起動レバーを押し込んだ。
ガコンッ、という重い振動。
他人の命を燃やして供給された不当な魔力が、図らずも自分たちを真実へと運ぶ動力となる。皮肉な話だった。
壁一枚を隔てた向こう側では、まだ宰相が王都の完璧な防衛について、滑らかな声で演説を続けている。その熱狂を足元に聞きながら、エマは腕に抱えた分厚い計算書と、拡声器を強く抱きしめた。
(……宰相ギルフォード。貴方は、数字というものを、他人を支配し、己を肥え太らせるための道具だとしか思っていない)
エマの灰青色の瞳が、暗闇の中で静かな怒りを帯びて細められる。
(しかし、真の数字とは、ただの道具ではありません。それは、嘘を許さない世界の理です。……貴方が権力のために構築したこの構造すらも、今は私たちを貴方の真しろへと運ぶための、最短の道筋に過ぎないのですから)
数分後。
鈍い音と共に昇降機が停止した。
「……到着しました。資本の浪費は、最小限に抑えられています。積算能力も、正常です」
エマ・ルミナスは真鍮の万年筆を抜き放ち、乱れたスカートの裾を払いながら、静かに荷台から降り立った。
扉の隙間からは、眩いばかりの魔導ランプの光と、数百人の貴族たちの熱気が、熱波となって押し寄せてくる。
「さあ、殿下。強制決算の時間です。彼らの嘘を、終わらせましょう」
エマの合図と共に、ルーファスが重厚な扉に手をかける。
王都の心臓部。その最も守りの堅い場所へ、一滴の血も流さず、ただ一番効率的な裏道を選んだという冷徹な計数だけを引っ提げて、査定員と王太子が足を踏み入れた。
■元・査定員エマの業務日誌:用語解説
【特務騎士】
宰相直属の精鋭。正規の騎士団とは異なり、秘密裏に不都合な対象を排除するための武装集団。私にとっては、物理的な障害というよりは、作戦の工程時間を大幅に奪い、不確実性を増大させる負債として計上されています。
【琥珀糖の投与】
私にとって、ヴォルフが与える糖分は嗜好品ではなく、極限まで酷使された脳内積算を維持するための緊急の資本注入です。私は自らの肉体を職務を完遂させるための資産として捉えており、食事もそのための保守点検の一環です。
【決算】
一定期間の損益を確定させ、最終的な帳尻を合わせること。私は、宰相が 20年間 積み上げてきた粉飾(嘘)を終わらせることを、国家という巨大な事業の最終的な強制決算と定義しました。




