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【第一部完結】剣より重い計算式(ロジック) ~異端の査定員エマ・ルミナスの監査報告~  作者: 二進
第4章:不渡りの王国

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第80話:夜明けの旧排熱管と、番犬の免罪符

 王都ルミナリスの地下深く。

 かつて巨大な魔導炉から発生する高熱を逃がすために使われ、今は完全に放棄された『旧排熱管』の中を、3人 の影が、壁の染みと同化するように息を殺して進んでいた。


 堆積した黴の胞子と赤錆の粒子が、肺の奥を焼くような冷気と共に侵入し、鼻を突く。

 王太子ルーファスは、王族の証である金糸の衣服をすべて脱ぎ捨て、ビアンカが裏市場で調達した、何の変哲もない煤けた暗灰色の外套(クローク)を深く被っていた。


 極秘の潜入作戦だ。

 王都中が自分を《《反逆者》》として血眼になって捜索している今、少しでも目立つ真似をすれば、たちまち蜂の巣にされる。彼は口元を粗末な布で覆い、足元の泥水が跳ねる音階すら極力殺しながら、ただ前を歩く華奢な背中を、張り詰めた面持ちで見つめていた。


 エマ・ルミナス。

 彼女の腕に大切に抱えられているのは、昨夜、ルーファスが自らの権限で承認した何百枚もの『特権の強制返還命令書(アセット・リコール)』と、この国の破綻を数字で証明した分厚い『|王国総産出高予測報告書《グランド・決算書》』だ。


 ルーファスは、自らの震える右手を外套の下で強く握り込んだ。

 重厚な印璽を押し続けた痛みはまだ残っている。この痛みが、これから自分がこの国を一度殺し、そして再建するという、血の滲むような原価(コスト)の実感であった。


「……お嬢様。少し歩調が落ちてるぞ。泥に足を取られるな」


 先頭を歩く黒いロングレザーコートの大男――ヴォルフが、足音すら立てずに振り返り、極めて低い声で囁いた。


「問題ありません。……脳内の積算領域を足元の安全確認と隠密行動に 30%、残りの 70% を、これから始まる大議会での想定反論(エラー)への回答に割り当てています。極めて合理的な進行速度です」


 エマは泥水に足を取られながらも、無機質な声で答えた。その顔色は相変わらず紙のように白く、徹夜の計数による極度の疲労は明らかだったが、彼女の瞳の奥には 1mm の揺らぎも存在しない。


 ルーファスは周囲の暗闇を警戒しながら、エマの隣に身を寄せ、声を殺して問いかけた。


「エマ。そなたは恐ろしくないのか。私たちがこれから忍び込もうとしているのは、宰相ギルフォードが絶対の支配権を持つ大議会だ。何百人という貴族たちを相手に、たった 3人 で喧嘩を売ろうというのだぞ」


「恐れという感情は、不確定要素の多さから生じる不確実性(リスク)に起因した、計数上の不整合です。……私たちが手にした数字と法に、不確実な要素はありません」


 エマは銀縁眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、冷徹に言い切った。


「宰相が組み上げた『命の搾取』という違法な構造は、会計上、完全に論破可能です。あとは、この真実の数字を、誰にも気づかれずに彼らの足元へ物理的に叩きつけるだけです」


 その言葉に、ルーファスは外套の下で微かに笑みをこぼした。

 剣も魔法も使えない、ただの王立保険ギルドの査定員。だが、彼女が抱える書類の束は、国軍の武力よりも重く、絶対的な説得力を持っていた。


 だが、その静かな潜入行動は、突如として冷酷な金属音によって遮られた。


「……止まれ。嫌な臭いがする」


 ヴォルフが低く唸り、歩みを止めた。同時に、彼が背中に負った黒鉄の大剣の柄に手をかける。

 その直後だった。


 旧排熱管の奥、暗闇の向こう側から、チリチリと空気を焦がすような魔力の光がいくつも灯った。

 青白い魔導ランプの光に照らし出されたのは、通路を完全に塞ぐように立ち並ぶ、漆黒の甲冑に身を包んだ重武装の騎士たちだ。


「……チッ。宰相直属の特務騎士団か」


 ルーファスが舌打ちし、壁の陰に身を隠そうとする。その数は 20名。狭い地下道で、これだけの数の精鋭を相手にするのは、どれほど腕の立つ剣士でも容易ではない。


「無駄ですよ。……ネズミが紛れ込んだと思えば。いくらボロ布を被って息を殺そうと、その歩き方の癖や体格で分かりますよ、ルーファス殿下」


 部隊の先頭に立つ特務騎士の隊長が、兜の奥から冷たい視線を向けた。彼らは、最初からこの隠し通路の存在を知り、網を張っていたのだ。


「宰相閣下より、殿下は『病の床にある国王陛下を差し置き、国を売り渡そうとした反逆者』として捕縛するよう命じられております。……大人しく投降なさい。さもなくば、その泥に塗れた命ごと、ここで処分せねばなりません」


 特務騎士たちが一斉に槍を構え、剣を抜く。

 重厚な殺気が、狭い通路の空気を凍りつかせた。


 だが、その圧倒的な死の壁を前にしても、エマの表情は微塵も動かなかった。

 彼女はただ手元の懐中時計を取り出し、カチリと蓋を開けて時刻を確認した。


「……現在時刻、午前 8時15分。議会の開会まで、残り 45分。これ以上の隠密行動の破綻と遅延は、全工程に悪影響を及ぼします」


 エマは時計を懐に収めると、ヴォルフの背中に向かって、極めて事務的な、氷のような声で指示を出した。


「ヴォルフ。強行突破に移行します。ただし、彼らの除却を禁じます」


「……あ?」


 大剣を抜こうとしていたヴォルフが、間抜けな声を出して振り返った。ルーファスもまた、信じられないものを見るようにエマを凝視する。


「正気か、エマ! 相手は武装した精鋭だぞ。殺す気でやらねば、こちらが殺される!」


「正気です、殿下」


 エマは眼鏡の奥の灰青色の瞳を鋭く細め、特務騎士たちをまるで帳簿の上の数字のように見据えた。


「彼らは宰相の嘘に騙されているだけの、いわば被害者(不良資産)です。そして何より、明日の朝からこの国を泥臭く立て直すために必要な、極めて優秀な将来の働き手(人的資本)でもあります」


「人的、資本……?」


「ええ。ここで彼らの命を奪えば、それはそのまま王国の労働力不足という新たな負債(マイナス)に直結します。……私の積算に、これ以上の不必要な支払いは必要ありません」


 エマは真鍮の万年筆を指先で回し、冷徹な査定員の顔で言い放った。


「彼らの命という資産(アセット)を保全しつつ、抵抗する仕組みのみを物理的に停止させなさい。関節の破壊、脳震盪による意識の刈り取り。……活動停止のみを許可します」


 その言葉に、特務騎士たちは一瞬呆然とし、直後に激しい怒りで顔を歪ませた。


「たかがギルドの査定員風情が、我々を舐めるなァッ!」


 怒号と共に、数人の騎士が殺意を剥き出しにして殺到してくる。

 だが、ヴォルフは呆れたように首をポキリと鳴らすと、口の端を獰猛に吊り上げた。


「……へっ。うちの査定員殿の帳簿は、相変わらず血が通ってねえことで。手加減して 20人 なんて、酷な段取りだぜ」


 ドゴォォォォンッ!!


 地下道に、大砲が炸裂したかのような轟音が響き渡った。

 ヴォルフは黒鉄の大剣を鞘に収めたまま、その強烈な質量と遠心力だけで、先頭の騎士の胴体を横薙ぎに打ち据えたのだ。


「が、ああっ!?」


 分厚い金属鎧がひしゃげ、騎士が石壁まで吹き飛び、そのまま白目を剥いて崩れ落ちる。


「馬鹿な……!? 剣を抜かずに、あの装甲を!」


「魔導回路を励起させろ! 一斉掃射で――」


 後方の騎士たちが慌てて魔力供給を繋ごうとするが、遅い。

 ヴォルフの動きは、野獣の暴力と、暗殺者の精密さを完璧に兼ね備えていた。


 彼は泥水を大きく蹴り上げて敵の視界を奪うと、瞬時に懐へ潜り込む。

 大剣の重い鞘で兜の側面を正確に叩き割って脳震盪を起こさせ、柄頭で膝の関節を粉砕し、強烈な蹴りで鳩尾を陥没させる。


 斬撃ではない。

 それは、ただ機械的に「敵の戦闘継続能力」だけを削り取っていく、冷酷な解体作業だった。


 バキリ、という骨の折れる不快な音が響くたびに、特務騎士が一人、また一人と泥水の中に沈んでいく。

 魔導の光が灯る前に、その腕がへし折られる。槍が突き出される前に、その足が砕かれる。


 血は一滴も流れていない。

 だが、そこにあるのは完全な蹂躙だった。


「……これが、辺境の死神の番犬」


 ルーファスは、あまりの光景に息を呑み、壁に背を預けたまま足の震えを必死に抑えていた。

 エマはただ黙って、泥水が跳ねない位置で静かにその処理を見守っている。


 わずか数分後。

 旧排熱管の通路には、 20名 の特務騎士全員が、誰一人命を落とすことなく、しかし完全に活動停止状態で呻き声を上げていた。


「……不備の排除(エラーのしゅうせい)、終わったぜ、お嬢様」


 ヴォルフが肩で息をしながら、大剣を背中に戻す。

 泥だらけになった彼の手には、特務騎士の隊長から奪い取った、大議事堂の地下へと続く隠し扉の鍵が握られていた。


「ご苦労様でした。想定所要工程から、マイナス 2分。極めて優秀な監査(アセスメント)です」


 エマは懐中時計を確認し、初めて微かに口元を綻ばせた。


「さあ、殿下。舞台への扉が開きました」


 エマが視線を向けた先。

 ヴォルフが重厚な鉄の扉に鍵を差し込み、ゆっくりと開け放つ。


 そこは、大議事堂の演壇の真裏に位置する、議員たちの控室へと続く階段だった。

 階段の上、分厚い壁の向こう側からは、大議場を包み込む万雷の拍手と、宰相ギルフォードが「王都の永遠の繁栄」を謳い上げる、滑らかで自信に満ちた演説の声が響いてきている。


「……彼らはまだ、自分たちの足元の帳簿がすでに燃え尽きていることに気づいていません」


 エマは、腕に抱えた真実の数字を強く抱き直した。


「行きましょう。嘘で塗り固められた強制決算(クロージング)の時間を、終わらせに」


 泥まみれの査定員と番犬、そして国を終わらせる印璽を持った王太子が、光の差し込む階段を、一段ずつ上り始めた。


■元・査定員エマの業務日誌:用語解説


人的資本(じんてきしほん)

 人間が持つ知識や労働力を、国や企業を生み出す「資本」として捉える経済的な考え方。エマは、特務騎士たちを単なる敵の駒としてではなく、過剰な魔力が失われた後の泥臭い国家再建において欠かせない「重要な働き手(資産)」として評価し、その命を保全しました。


不良資産(バッドアセット)

 本来なら利益を生むはずが、価値が下落したり、回収不能になったりして、逆に損失や負担をもたらす資産のこと。宰相の嘘に騙されて防衛の任に就いている騎士たちは、現状では「敵対する障害」ですが、エマはこれを一時的な不良資産とみなし、清算(活動停止)後の再利用を計画しています。


資産(アセット)不確実性(リスク)

 将来にわたり価値を生む資源と、それを脅かす不透明な変動要因。エマは感情的な「恐怖」を、不確実性がもたらす積算上の不備であると定義し、目の前の敵兵すらも保全すべき国家資産として扱いました。

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