第75話:死角の面会室と、偽りの毛皮
王宮の地下深く、幾重もの隠し扉と水路を抜けた先。
カビと古い紙の匂いが停滞する「特別保管室」の重厚な扉を、ルカが音もなく開け放った。
「連れてきたよ、お姉さん。《《最高級の不良債権》》だ」
部屋の中央。微かな魔導ランプの光に照らされて、1人の少女が座っていた。
スレート・グレーの制服を隙なく着こなした彼女は、机の上に広げた膨大な書類に万年筆を走らせている。
その背後には、闇に溶け込むような黒いコートを纏った大男、ヴォルフが彫像のように立ち尽くしていた。
泥まみれのルーファスが足を踏み入れた瞬間。
少女は万年筆を置き、静かに立ち上がった。
そして姿勢を正すと、王宮のどの文官よりも洗練された、一糸乱れぬ完璧な角度で深く一礼した。
「ルーファス殿下。お初にお目にかかります。私は元・ギルド公認計数官、兼、元・査定員のエマ・ルミナスと申します」
顔を上げた彼女の声は、極めて礼儀正しく、丁寧だった。
だが、そこには一切の感情の揺らぎがなく、ただ「決められた手続き」をこなしているだけの無機質な冷たさがあった。
「このようなカビ臭い地下室までご足労いただき、恐縮の極みに存じます。お召し物がひどく汚れておられますが、お怪我はございませんか」
「……君が、あの手紙の主か」
ルーファスは泥まみれの膝を折り、硬い木椅子に腰を下ろした。
懐から、あの朱筆で真っ赤に染まった羊皮紙を取り出し、震える手で机の上に置く。
「手紙は読んだ。宰相ギルフォードが、国民の 8パーセント から寿命を横領しているという事実は理解した。……だが、論理が矛盾している」
ルーファスは、縋るような目でエマを見つめた。
「なぜ、宰相はそんな真似をしてまで、我々王族や貴族に贅沢をさせ続けたのだ? 魔力が足りないのなら、なぜ正直に『もう払えない』と帝国に頭を下げなかった。夜会を取りやめ、華美な衣装を捨てていれば、犠牲になる国民はもっと減らせたはずではないか……!」
それは、彼が玉座でずっと抱えてきた己の無知に対する怒りだった。
エマは表情を変えず、ただ静かに頷いた。
「殿下の疑問は、極めて真っ当です。……では、少し視点を変えて、わかりやすい数字のお話をしましょう」
エマは手元の白紙に、万年筆でスラスラと「簡単な図」を描き始めた。
「殿下。ここに 100人の小さな村があるとします。村を怪物から守るため、隣国の屈強な傭兵を雇い続ける必要があり、その費用は年間 100ゴールドです。しかし、村には資源がなく、どう頑張っても年間 20ゴールドしか稼げません」
「……圧倒的な赤字だな」
「ええ、普通なら破綻です。傭兵は引き上げ、村は怪物に滅ぼされます。ですが、それよりも恐ろしいことがあります。もし隣国の傭兵が『この村にはもう金を払う能力がない』と気づいたら……彼らはどうすると思いますか?」
「……! まさか」
「はい。怪物から守るのをやめるどころか、傭兵自身が村を襲い、100人の村人全員を奴隷として売り飛ばすでしょう。それが、絶対的な力を持つ債権者たる帝国のやり方です」
エマの灰青色の瞳が、冷たくルーファスを射抜いた。
「だから、村の管理人は、隣国を騙すことにしました。彼は村長に『最高級の毛皮』を着せ、毎晩のように豪華な『宴会』を開かせたのです。それを見た傭兵は、『あの村は羽振りがいいから、いずれ借金を返せるだろう』と勘違いし、ツケで守り続けてくれます」
ルーファスの呼吸が浅くなる。その「毛皮」が何を意味しているのか、気づき始めていた。
「しかし、当然ですが、村長の毛皮代も宴会の費用もタダではありません。村の管理人は、裏でコッソリと、100人の村人のうち『8人』から精気を抜き、それを売り飛ばして、毛皮代と借金の利息を払い続けました。村人たちは守ってもらうための税だと思っていますが、その実態は、村長に《《『偽物の毛皮』を着せるため》》に命を削られていたのです」
「…………ッ」
ルーファスは両手で顔を覆った。
自分が着ているこの上質な服も、昨日食べた温かい肉も、すべては帝国という強欲な金貸しに「うちはまだ豊かだ」と嘘をつくための虚飾に過ぎなかった。
そしてその代金は、自分が愛すると誓った国民の命で支払われていたのだ。
「倫理的な善悪は、私の管轄外です。……ですが」
エマは万年筆を置き、冷徹な元・査定員としての見解を告げた。
「会計学的に見ても、これは致命的な不備です。8人の村人を死なせて毛皮を買うより、彼らを健康なまま働かせ、畑を耕させた方が、長期的な村の生産性は遥かに高くなります。……宰相の算盤は、帝国への看板を守ることに固執するあまり、最も重要な人的資源をドブに捨てている。私は、この非効率な粉飾決算を許しません」
エマの言葉には、革命家のような熱も、慈愛もない。
ただ、「《《数字の不備》》」を絶対に許さないという、凄まじいまでの専門家の執念があった。
「殿下。この詐欺を終わらせれば、帝国は即座に『借金を一括で返せ』と迫ってきます。その時、国民の命の代わりに差し出せるものは……村長が着ている毛皮しかありません。」
エマは一枚の契約書――『王室・貴族権益の完全抹消および資産譲渡合意書』を、ルーファスの前に滑らせた。
「王家と全貴族の全財産を売り払い、帝国への借金を一括で清算する。これに署名すれば、貴方は明日から王太子ではなく、無一文の平民です。二度と贅沢はできませんし、国を動かす権限も失います」
「……自らの《《身一つ》》を原価として支払い、国民の命を買い戻す。その覚悟は、おありですか」
地下室に、重苦しい沈黙が降りた。
ルーファスは、目の前に置かれた万年筆と、自分の両手を見つめた。
これまでペンより重いものを持ったことのない、典型的な王族の手だ。だが、この手は、知らぬ間におびただしい数の血を啜っていたのだ。
「……私の王冠が、彼らの命を買い戻すための仕入れ値になるというのなら」
ルーファスは、一切の躊躇いを捨てて万年筆を握った。
「喜んで、《《すべて》》を差し出そう。……私はもう、誰の血で編まれた毛皮も着たくない」
迷いのない力強い筆致で、署名欄に『ルーファス』と書き込む。
それは次期国王としての署名ではなく、すべての重荷を背負う一人の男としての、国家予算の強制決算への同意だった。
エマはその署名を確認すると、インクを丁寧に乾かし、自らの鞄へと収めた。そして、今日初めて、極上の帳簿に出会った職人のような、微かな笑みを浮かべた。
「……契約は、確かに成立いたしました」
エマは再び立ち上がり、今度は対等な協力者として、深く一礼した。
「ルーファス様。貴方が下した『すべてを捨てる』というその尊いご決断を、私は専門家として、最大限に評価いたします。これより私は、貴方の専属管財人です。私が持つすべての論理を以て、貴方の決断を全力で支援させていただきます。国家規模の監査を完了させましょう」
「感謝する。……だが、エマ。私財を投げ打って借金を返せたとしても、精気供給が止まれば、王都の障壁は消滅してしまうのではないか?」
「おっしゃる通りです。覚悟を決めただけでは、国は回りません。宰相を解任し、寿命搾取を止めた後、いかにしてこの国を維持するか……議会を黙らせるための、強固な新・事業計画書が必要です」
エマは、薄暗い地下室の奥へと視線を向けた。
「8パーセント の命を削らずとも、知恵と技術で国を回すための専門家たちを、すでに手配してあります。……さあ、宰相の血に塗れた算盤を叩き壊すための、新しい『《《国家清算会議》》』を始めましょうか」
ルーファスの胸の奥で、かつてないほどの熱い感情が沸き上がっていた。
すべてを失ったはずなのに、彼の瞳は、玉座に座っていたどの瞬間よりも、強く、確かな光を宿していた。
■元・査定員エマの業務日誌:今回の用語解説
【強制決算と全資産清算】
負債を清算するために全資産を投げ打つ最終工程。ルーファスの署名は、過去の不当な利得を返還し、帳簿を正常化させるための不可逆な手続きとなります。
【監査の準備】
監査報告書という成果物を、最も有効な対象(この場合は王太子)へ引き渡し、反撃の火種とすること。エマは王太子の覚悟という名の変数を、自らの数式に組み込みました。
【監査の対象拡大】
勇者の不正という一点の不備から、国家運営の根幹である予算案そのものへと、監査のメスが深められていきます。




