第74話:送達された対抗決議案と、次期経営者の狼狽
王宮の最上層。天を突くほどに高い位置にある、王太子専用の豪奢な執務室。
壁一面を占める巨大な窓からは、王都ルミナリスの全景が見渡せる。
かつては宝石を散りばめたようだと称えられたその夜景も、今や暴徒の掲げる松明の火が点々と蠢き、不気味な赤色に染まった地獄絵図へと変貌していた。
「……また、棄却か。検討の余地すらないというのか」
王太子ルーファスは、机に放り出された数枚の羊皮紙を、憎しみを込めて睨みつけた。
彼が三日三晩、一睡もせずに書き上げた『下層民への精気配分と食糧支援案』。その書類の端には、まるで虫でも叩き潰したかのような無機質な印が押されている。
――《《棄却》》
たった二文字。宰相府を通じたその冷酷な宣告は、ルーファスが振り絞った理想のすべてを一瞬でゴミへと変えた。
「8パーセントの不良債権を切り捨てて、92パーセントを維持する。……それがこの国の唯一の正解だと、あの男は言った。計算に合わない慈悲は、国家を死に追いやる毒でしかないと」
ルーファスは自らの髪を乱暴に掻き毟り、机に突っ伏した。
あの日、侍従長が語った宰相ギルフォードの論理は、残酷なまでに完璧だった。
天然の魔力資源を持たないこの国が、帝国からの魔力輸入を維持し、王都の障壁を存続させるには、国民の「寿命」という名の資産を、統計的に容認できる限界値――「8パーセント」まで徴収し、借金の利子に充てるしかない。
「理想か、心中か。……私には、選ぶ権利さえないというのか」
理想を語るルーファスには、その代わりの財源がどこにもなかった。
王族としての誇りも、国民への愛も、算盤を弾く右手の前では無力な不備に過ぎない。
実質的な決定権を何一つ持たない自分は、ただ宰相が弾き出した「血に塗れた算盤」の上で、綺麗な服を着て微笑んでいるだけの、高価な看板に過ぎないのだ。
その時。重厚なオーク材の扉が、事務的な、しかしどこか意志を感じさせるリズムでノックされた。
「……誰だ。夜通しの監視なら、もう十分だと言ったはずだ」
「王立公文書館分館、マルキでございます。先月分の廃棄書類の最終確認印をいただきに参りました」
扉が開き、古びた燕尾服を着た白髪の老紳士が、書類の束を抱えて恭しく一礼した。
マルキ侯爵。かつては王宮の中枢で腕を振るった重臣だが、宰相の冷徹な効率化に馴染めず、今では地下の「紙の墓場」の管理人に左遷された男。
廊下に立つ宰相の近衛兵たちも、窓際部署の老人の事務手続きなど気にも留めず、素通しにしたのだろう。
「……マルキ侯か。ご苦労。だが、私の印など、ただのインクの無駄だろう。国を動かす数字はすべて、あちらの執務室で決まっているのだから」
「左様でございますね。しかし、手続きは手続き。形式を重んじるのが、この国の数少ない誇りでございますゆえ。……失礼して、こちらに並べさせていただきます」
マルキ侯爵は一歩踏み込み、机の空いたスペースに次々と書類を置いていく。
その最中、老侯爵はルーファスの視界を遮るように身を乗り出し、一番上にあった一枚の古い羊皮紙を指先でトントンと叩いた。
その瞬間、老侯爵の目に、事務官のそれではない鋭い政治家の光が宿った。
「殿下。……うちの分館に新しく入った臨時の筆耕係が、殿下の3年前の稟議書を勝手に監査いたしましてな。……少々、刺激の強い《《朱筆》》が入っております」
「……朱筆だと? 私の過去の失策を笑いに来たのか」
「いいえ。……もし殿下に、王冠を売り払う覚悟がおありでないのなら、そのまま暖炉に放り込んで焼却なさってください。……書類は、読む者に覚悟がなければただの重荷でしかありませんから」
それだけを言い残し、マルキ侯爵は再び恭しく一礼して去っていった。
その背中は、静かだが何か巨大な賭けに打って出た男の緊張感を孕んでいた。
* * *
一人残されたルーファスは、訝しげにその羊皮紙を手に取った。
広げた瞬間に飛び込んできたのは、目に刺さるような鮮やかな赤インクの奔流だった。
かつて自分が書き、1秒で棄却されたはずの『魔法依存からの脱却案』。そこには、対話の余地すら拒絶する、極めて事務的かつ高圧的な「監査指摘」が並んでいた。
【監査指摘事項:魔法依存からの脱却案】
第12項「魔法の段階的縮小と救済措置」:不備
帝国に対する債務履行が考慮されていません。
当国の魔力資源は皆無であり、調達のための原価の全額を外部負債に依存しています。
本提案が実施された場合、90日以内に支払能力を喪失し、国家破産(障壁の消滅)に至る試算となります。
一切の容赦のない直線が引かれ、その下には、現行の国家運営の実態を暴く残酷な数式が淡々と記述されていた。
【現行:国家運営の仕組み解析】
1.魔力調達:帝国からの輸入依存
2.資源補填:国民の8パーセントから徴収した寿命
3.維持目的:統治機構の存続、および利息の支払い
監査意見:
貴方たちが享受している繁栄は、帝国に健全な返済能力を擬装し、債権回収を猶予させるための虚飾に過ぎません。
8パーセントの寿命徴収を原価とした、粉飾による国家運営です。
「な……っ、なんだ、これは……ッ!?」
ルーファスは椅子から転げ落ちそうになるのを堪え、その紙を凝視した。
煌びやかな夜会も、美しい衣装も、すべては帝国を欺くための「宣伝費」。そしてその原価を捻出するために、宰相は国民の寿命を少しずつ、気づかれぬように、決まった歩留まりの中で魔力へ変換して納品し続けていたのだ。
赤いインクによる追記は、その粉飾を清算するための唯一の手段を提示していた。
【修正勧告:国家機能の適正化案】
寿命の不当徴収を停止し、帳簿上の犠牲(8パーセントの命)を帳消しにするための唯一の手続き。
【代替案:王家および全貴族の全資産清算】
・是正措置:寿命徴収の即日全廃。
・決済資金:王家・全貴族が有する全ての私有財産、領地、および統治権。
特記:
本案の執行には、貴方たちが今日まで享受してきた特権の完全な消滅を要します。
国民の命を買い戻すための原価は、貴方の王冠そのものです。
自らが無一文の平民に堕ち、その身のすべてを投げ打って負債を清算する覚悟があるか。
その一点のみ、貴方の回答を以て、本監査員は国家予算の強制決算に着手します。
「……王冠を、買い戻しの代価にしろ、というのか……」
ルーファスは絶句した。王家の財産をすべて吐き出し、ただの平民になる。それは、これまで彼が背負ってきた「次期国王」という自意識の完全な破壊を意味していた。
だが。彼の視線は、その書類から引き剥がせなかった。
残酷で、容赦がなくて、自分たち特権階級の誰も救われない、冷たい報告書。しかし、その赤い数式の中には、ギルフォードの帳簿に存在した《《犠牲》》の項目が、ただの一つも存在していなかった。
「……国民は誰も、殺さない。代わりに、我々がすべてを差し出す。……嘘のない、数式」
安全な場所で嘆くだけの、子供の時間は終わったのだ。
ルーファスは机から手紙を拾い上げ、執務室の奥にある隠し扉を開けた。
王宮の外壁の外まで一直線に続く、暗い隠し通路。正面の扉から出れば、間違いなく宰相の近衛兵に捕まり、二度と戻ることはできないだろう。
「……国民の命で織り上げられた布を、いつまで纏っているつもりだ、私は」
ルーファスは、王族の誇りである豪奢なマントをその場で脱ぎ捨てた。金糸で織られたその布が、今は8パーセントの国民の血で汚れているように見えた。彼は一切の迷いなく、埃まみれの隠し通路へと身を投じた。
* * *
1時間後。王宮の敷地の外れ。
貧民街へと続く薄暗い排水溝の鉄格子を、内側から激しい音を立ててこじ開け、泥まみれになりながら、ルーファスが夜の闇へと這い出した。
「よお、次期国王様。……いや、もう『ただのルーファスさん』って呼んだ方がいいのかな?」
雨が降り始めたドブ川のほとりで、場違いに軽薄な声が響いた。
見上げれば、灰色のポンチョを深く被った少年、ルカが、粗末な木箱の上に座って彼を見下ろしていた。
「お前が……手紙にあった、案内人か?」
「ただの情報屋……いや、今回の件ではエマの外部協力者さ。地下でアンタを待ってる極悪非道な査定員から、不良資産を安全に輸送するよう依頼されててね。……まさか本当に、自ら王冠を捨てて泥水の中へ這い出してくるとは思わなかったよ」
ルカは、初めて王太子に対して微かな敬意を見せるように、口の端を上げて笑った。
「殿下。アンタ、自分の価値が今、市場でどれくらい暴落したか分かってるか? 王宮を出た瞬間に、アンタはただの負債だ。……それでも行くのか?」
「……ああ。国民の命を買い戻すための《《代価》》として、私のすべてが必要なら、喜んで差し出そう。……案内してくれ、ルカ」
「いい返事だ。……あのお姉さんは、アンタのそのすべてを売り払う覚悟を計算式に組み込んで待ってるぜ。……行こうか。ここから先は、王宮の綺麗な理想は通用しない、泥まみれの《《裏帳簿の世界》》だ」
ルーファスは、朱筆で染まった手紙を懐に深くねじ込み、ルカの背中を追って、王都の底なしの闇へと足を踏み入れた。
国家という巨大な仕組みを根底から書き換えるための、最初の取引が、今始まろうとしていた。
■元・査定員エマの業務日誌:今回の用語解説
【提供と次期経営者の招致】
監査報告書という名の真実を、最も適切な相手へ引き渡す工程。今回のデリバリーの対象は、システムの受益者でありながら、その**原価**に絶望していた王太子です。彼を地下へ引きずり出すことは、次なる監査の必須条件でした。
【強制決算の提案】
王家という組織そのものを清算(解体)し、その資産を国民の命の補填に充てる手法。エマは王太子に対し、過去の不当な利得を身銭を切って返還するという、極めて事務的かつ残酷な損害賠償の手続きを突きつけました。
【致命的な不備の清算】
ギルフォードの計算式における最大の不備は、国民を「人間」ではなく「消耗品」として計上した点にあります。この数式を根底から破壊するためには、王族自身が「特権」という名の不当な利益を手放す以外に、帳尻を合わせる方法はありません。




