第73話:棄却された理想と、不備の再利用
視界の端で明滅していたノイズが、ヴォルフによる物理的な冷却と糖分補給によってようやく消え去った。
エマ・ルミナスは、バインダーの最終ページに刻まれた「8パーセントを犠牲として切り捨て、92パーセントの繁栄を維持する」という、あまりにも完璧で残酷な数式を冷徹に見つめていた。
それは20年前、若き日のギルフォードがこの国に施した、絶対的な《《生存の論理》》である。
「……設計ミス、すなわち不備ではありません。これは、極限まで無駄を削ぎ落とした末の、《《資源の傾斜配分》》です」
エマの声は、乾燥した地下の空気に溶けるように冷たい。
彼女は銀縁眼鏡を指先で直し、隣で黒鉄の大剣を背負い直したヴォルフを見上げた。ヴォルフは無造作な黒髪を揺らし、琥珀色の瞳を棚の奥へと向けている。
「……ギルフォードという男は、この20年間、ただ1つの計算式でこの国を縛り続けてきた。父エドワードがこれに抗おうとしたのは、数字が間違っていたからではなく、その『解』が導き出す資産の損壊を、計数官として許容できなかったからに他なりません」
「だが、お前の親父さんはその『答え』を書き換えられなかった。……そうだろ、エマ」
ヴォルフの言葉に、エマは小さく頷いた。
父が原本の余白に遺した補正数式は、あと数行というところで断絶している。
8パーセントの消去を回避しながら、国家の魔力供給を維持するための代替資源。
あるいは、魔法に頼らずに国を回すための新たな経営資源。
その決定的な因子が、父の理論には欠落していた。
「父は優しすぎました。……損失を出さないという結論を先に置き、現実に存在しない資源を数式に代入しようとした。それは計数官としての、唯一の致命的な不備です」
エマは傍らに置かれた木箱へと歩み寄った。
マルキ侯爵が「焼却処分を命じられた廃棄物」と称した、王太子ルーファスによる数千枚の稟議書の残骸。
彼女は再び視覚情報を数式へと還元した。
色彩の消えた世界で、王太子の乱雑な筆致が、1つの意思の塊として可視化される。
そこには、1ゴールドの利益も生み出さない甘い理想が並んでいた。
『国民の笑顔を守るための減税案』
『魔導炉の出力を下げ、公平な配分を求める嘆願書』
どれもギルフォードの冷徹な数式の前では、1秒で棄却されるべき無価値なノイズだ。
しかし、エマの指先が、1枚の古い羊皮紙の上で止まった。
「……見つけました。父の数式を完結させるための、最後の因子を」
「……あ? その汚ねえ紙切れの山に、そんな大層なもんが埋まってたのか」
ヴォルフが覗き込んだ先には、王太子が「魔法の恩恵を縮小してでも、自給自足の農地を拡大すべきだ」と主張した、3年前の古い提案書があった。当然、貴族たちの利権を損なうその案は、受理されることなく「廃棄」の印が押されている。
「ヴォルフ。王太子ルーファス殿下は、数学的な知識は皆無ですが、1つだけギルフォード宰相が持ち合わせていない強力な資産をお持ちです」
「……そいつの根性か?」
「いいえ。……《《不利益を受け入れる覚悟》》です。魔法という名の不当な利得を捨て、全員で貧しくなるという選択肢。ギルフォードの計算式は繁栄を定数としたために、8パーセントの国民を損金算入するしかなくなった。ですが、王太子殿下は、最初から衰退という負債を許容しています」
エマは、王太子の稚拙な数式と、父の未完の補正数式を脳内で並列に配置した。2つのパズルの破片が、音を立てて合致する。
魔法を捨て、国民全員が泥に塗れて働き、20年分のツケを65年かけて全額返済する。
それは美しい英雄譚ではなく、あまりにも残酷で、しかし嘘のない《《国家再建計画》》の雛形だった。
「侯爵。この木箱に入ったすべての書類に対し、継続的な監査の執行を宣言します。これらはもはや廃棄物ではありません。……この国のシステムを根本から再構築し、宰相から主導権を奪還するための、我々の対抗資産です」
「……エマ、お前は本当に……あいつの娘だな」
マルキ侯爵は、呆れたように、しかし誇らしげに目を細めた。
エマは机に向かい、真鍮の万年筆を抜き放った。
彼女の細い指先が、驚異的な速度で王太子の乱筆を、完璧な報告書の形式へと翻訳していく。
黒いインクで事実を写し、その横に鮮やかな赤いインク――《《朱筆》》で、冷酷なまでの現実を書き加えていく。
『第12項の農地拡大案。感情論は不要ですが、国民1人あたり年間300日の強制労働を条件とすれば、外貨流出を4.2パーセント抑制可能です。』
『第24項の魔法廃止。現状の負債額を鑑みれば、これは慈悲ではなく、不渡りを回避するための強制決算として極めて有効です。』
エマのペン先から、王太子の甘い理想が、宰相の論理を崩すための対抗決議案へと研ぎ澄まされていく。
「……さて。この不快な正解を、王太子殿下に直接お届けしましょう」
エマは書き終えたばかりの書類を、公文書館の公式な封筒へと収めた。そこには、ルミナス家の紋章ではなく、ただの「公文書館・筆耕係」という無機質な肩書きの印を押す。
「殿下が真に不利益を引き受ける覚悟のある次期経営責任者であるなら、この報告書の裏にある勝機に気づくはずです。もし気づかれないのであれば、……その時は、別のアプローチを再計算するだけです」
「……厳しいねぇ、お嬢様。その次期国王様が、泣きながら地下まで走ってくるのが目に浮かぶぜ」
ヴォルフは不敵に笑い、エマが差し出した封筒を受け取った。
それは、国家という巨大なシステムの、最初の1ゴールドを奪い返すための招待状だった。
地下の静寂の中、エマは魔導ランプの灯りを落とした。
20年前の嘘を暴く時間は終わり、ここからは新しい帳簿を書き込むための反撃が始まる。
「……ヴォルフ。次の工程は、王太子殿下との直接的な折衝です。演算負荷が跳ね上がることが予想されますので、糖分の備蓄を現在の200パーセントに引き上げてください。……1秒の遅延も、許されませんから」
二人の影が、深い闇の奥へと消えていった。
■元・査定員エマの業務日誌:今回の用語解説
【監査と証拠保全】
後に行われる裁定や交渉のために、棄却された書類を法的に保護する手続きのことです。私は、王太子の嘆願書が、宰相の完璧な計算式を論破するための「唯一の法的資産」になると判断しました。
【強制決算と不利益の許容】
経営において、過去の負債を清算するために一時的な赤字や痛みを引き受けることです。王太子ルーファスが提案した「魔法の廃棄」は、国家の破綻を回避するための最も残酷で、かつ誠実な決算の手法です。




