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【第一部完結】剣より重い計算式(ロジック) ~異端の査定員エマ・ルミナスの監査報告~  作者: 二進
第4章:不渡りの王国

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第76話:国家清算会議の開幕と、極上の糖分補給

 王宮の地下深く、数代前の王が秘密裏に築かせたという特別保管室。厚い石壁に囲まれたその空間は、冷たい湿気と、古びた羊皮紙の放つ微かな饐えた臭いに満ちていた。


 ルーファスが、自らの特権をすべて放棄し、王室資産の委譲を認める『王室・貴族権益の完全抹消および資産譲渡合意書』の最終頁に署名を終えた。羽ペンの先が硬い羊皮紙を削る微かな音だけが室内に響き、エマがその重い契約書を、長年使い込まれた革鞄の中へと慎重に収めた――その直後だった。


 ふらり、と。

 これまで鉄の規律を保ち、寸分の乱れも見せなかったエマの身体が、不自然に揺らいだ。


 ルーファスが異変に気づき、椅子から身を乗り出した時には、エマの指先から力が抜け、愛用の万年筆が床に転がっていた。ポロリと落ちた万年筆が、石床の上で乾いた音を立てて転がる。


 彼女の灰青色の瞳からは知性の光が急速に失われ、血の気の引いた顔面は、湿った壁の石材よりも白くなっていた。膝の力が抜け、糸の切れた操り人形のように崩れ落ちそうになる彼女の身体を、背後に控えていた大男――ヴォルフが、淀みのない動作で抱き留めた。まるで、こうなることを最初から予測していたかのような、手慣れた動きだった。


「ど、どうした!? 毒でも盛られていたのか、それとも……!」


 血相を変えて立ち上がるルーファスを、ヴォルフは片手で、制止するように遮った。その表情には焦りも動揺もない。あるのは、故障した機械を眺める職人のような、冷めた諦観だけだった。


「心配すんな、元・王太子殿下。こいつはただの『ガス欠』だ」


 ヴォルフはエマの細い身体を軽々と抱え上げ、近くの椅子に無造作に座らせた。


「一国をぶっ潰すなんていうイカれた算盤を、この数時間、脳みそだけで弾き続けてりゃ、当然こうなる。……こいつは元から、呆れるほど虚弱なんだよ。自分の心臓を動かすエネルギーまで計算に回しちまう、不器用なガキだ」


 ヴォルフは黒いコートの懐から、油紙に包まれた細長い焼き菓子を取り出した。たっぷりのチョコレートでコーティングされ、中にはこれでもかと濃厚な砂糖のクリームが詰め込まれた、王都でも一、二を争うほど甘い特濃エクレアだ。

 彼はそれを、意識の混濁しているエマの口元に強引に押し当てた。


「ほら、お嬢様。口を開けろ。これ以上、血中の糖分が足りなくなったら、本当に死ぬぞ。……計算の途中で死体になられても、俺の仕事は増える一方なんだよ」


「…………むぐ」


 エマは、虚ろな瞳のまま、本能だけでその塊に噛みついた。

 甘味を味わう余裕などない。渇ききった土が水を吸い込むように、ただ必死に咀嚼し、嚥下し、血の中に無理やり活力を流し込んでいく。口の端にチョコレートやクリームがつこうが、彼女はそれを拭う暇さえ惜しんで、自分の内側にある「空っぽの金庫」を埋める作業に没頭した。


 そのあまりに無防備で、しかし生きることに執着するような剥き出しの姿に、ルーファスは唖然として言葉を失った。数分前まで、一国の王太子に「すべてを捨てろ」と冷徹に宣告していたあの恐ろしい査定員が、今はただの、飢えた小動物のように必死に甘味を頬張る不器用な人間にしか見えなかった。


「……彼女は、機械や化け物ではないのだな」


「当たり前だ。小鳥以下の体力しかねえくせに、数字のことになると命の危険も忘れて計算しちまう、ただの人間のガキだよ。……だからこそ、俺が背中を守ってやらなきゃならねえ」


 ヴォルフは乱暴な口調ながらも、エマの背中を支える手には確かな実務上の信頼と、隠しきれない慈しみが籠もっていた。

 やがて、エクレアを一本丸ごと平らげたエマが、深く、重い吐息を一つ吐き出した。瞬きを数回繰り返し、灰青色の瞳に再び鋭い知性の光が灯る。


「……失礼いたしました、ルーファス様。極度の脳内演算により、一時的な糖分の《《完全な枯渇状態》》に陥っておりました。……もう大丈夫です。供給は完了しました」


「いや、無理はしなくていい。その……口元に、まだ菓子が」


「ん」


 ヴォルフが懐から出したハンカチで、エマの口元を無造作に拭う。エマはされるがままになりながら、ルカが淹れてくれた温かい紅茶で喉を潤し、ふぅ、と小さく息をついて姿勢を正した。その瞬間、彼女は再び、一分の隙もない「査定員」へと戻っていた。


 その時。部屋の奥にある、隠蔽された石扉が、重々しい金属音を立てて開いた。

 現れたのは、豪奢なドレスを少しだけ着崩し、妖艶な笑みの中に冷徹な捕食者の瞳を宿した絶世の美女――『投資家』のビアンカ。そして、抱えきれないほどの丸まった図面を抱え、鼻を鳴らす偏屈そうな老人――魔導工学の権威、バルカ名誉教授だった。


「……ビアンカ様に、バルカ教授まで。貴方たちが、なぜここに……?」


「お揃いですね。……では、時間がありませんので、即座に本題に入りましょう」


 完全に実務家の顔を取り戻したエマが、立ち上がって白板の前に立った。


「これより、宰相の血に塗れた算盤を叩き壊し、この国を正しい帳簿へ書き換えるための――《《国家清算会議》》を開会いたします」


 エマの宣言に、その場にいる全員の空気が一変した。

 エマは白板に、王都を覆う巨大な「障壁」の図を描いた。


「現行の魔導炉は、帝国に対する『見栄(看板)』のために、無駄な魔力を垂れ流し続けています。足りない燃料を国民の寿命、つまり 8% の命という劇薬で補うことで成立している、最悪の欠陥品です。寿命の使用を止めれば、この炉は即座に停止します。……バルカ教授。寿命を使わない『代替の魔導インフラ』の設計図は、完成していますか?」


「ふん。わしを誰だと思っている。わしの設計した『次世代型魔導炉』に換装すれば、人の命などという不純な燃料を使わずとも、真っ当な資源だけで長期的に国を回していけるわ。ただし、そのためには王都を覆う煌びやかな障壁を捨て、実用本位の泥臭い《《局所防衛網セグメント・シールド》》へと切り替えねばならんがな。王族の威光も、帝国への虚勢も、一銭の価値も残らん鉄の蓋になるぞ」


「素晴らしい歩留まりです。国民の命を焼く『看板』に、資産価値はありません。切り捨てましょう」


 エマは即答し、迷わず視線をビアンカへと移した。


「ビアンカ様。没収を予定している『宰相派貴族の資産』ですが、宰相が気づく前に現金化できなければ、ただの紙切れになります。手配は?」


「任せてもちょうだい。明日、大議会が開会されるのと同時に、私が裏で動かしているすべての商会を使って、宰相派の貴族たちが持つ『利権』や『土地』を一斉に空売り(ショート)してやるわ。彼らが演壇で夢を語っている間に、その資産価値を紙切れ同然まで暴落させ、差額をすべて、帝国への支払い用口座、そして新しい魔導炉への換装費用にすり替えてあげる。……あのアホな貴族たちの脂肪、一滴残らず絞り取ってあげるわ」


 ルーファスは、組み上げられていく『新・事業計画書』の緻密さと、その非情なまでの効率性に戦慄した。彼らがやろうとしているのは革命ではない。国家という名の、破綻した巨大企業の事業再生(リストラクチャリング)なのだ。


「殿下。明日の大議会。宰相ギルフォードが、貴族たちを前に『さらなる権利の拡大』を約束するその演壇に乗り込み……この『国家の破産宣言』を、彼らの顔に叩きつけてください。私が、殿下の隣で、宰相の二十年間にわたる帳簿の不備を完全に論破いたします」


「待ってくれ、エマ」


 ルーファスは、未だ拭いきれない疑問を鋭く指摘した。


「そもそも、冷徹な宰相がなぜ『大議会』などというまどろっこしいものを開くのだ? 彼の権力なら貴族など力で抑え込めるはずだ。それに、議事堂は近衛騎士団の精鋭数百名で固められ、入場には魔力認証まである。我々が正面から乗り込めるわけがない」


「殿下、あれは民主的な会議じゃないわ」


 ビアンカが、扇子の影でくすりと笑った。


「帝国という怖い債権者に『我が国は今日も貴族がドレスを着て集まるほど豊かですよ』とアピールするための、豪華な粉飾決算報告(お遊戯会)よ。宰相はあの場を使って、国の信用を無理やり維持し、貴族たちを共犯者として飼い殺しているの」


「だからこそ、そこを叩き潰すのです」


 エマが冷徹に告げた。

 

「彼が最も美しく飾り立てた嘘の舞台で、次期経営者である殿下が『破産(真実)』を突きつければ、国内の統制システムは完全に崩壊します。……侵入経路なら問題ありません」


「ふん。あの議事堂のゲートを 40年前 に設計したのはこのわしだ。開発者わしだけが知っている『隠し通路』を使えば、認証など素通りできるわい。図面はすべて頭の中にある」


「目的と経路は確定しました。しかし、ただ乗り込むだけでは犬死にです。宰相の論理は、数字で殴らなければ死にません」


 エマは白板に貼られた膨大な白紙の束を指し示した。そこには、彼女が辺境シュタールの煤けた机で書き溜めてきた、王国の真の「負債」が並んでいる。


「……これより夜明けまでの数時間で、宰相の論理を完全に粉砕し、物理的な魔導炉の移行を成功させるための『完璧な準備』を整えます。


……徹夜になりますよ、殿下。私たちの勝利条件は、相手を倒すことではありません。『数字の帳尻を合わせること』にあるのですから」


 知恵と数字だけを武器にした、国家という名の巨大なシステムの解体準備が、いよいよ本格的に幕を開ける。

 決戦の朝まで、残された時間はあとわずかだった。


■元・査定員エマの業務日誌:今回の用語解説


空売り(ショート・セル)

 投資家ビアンカが用いた金融手法。手元にない資産(今回は宰相派貴族の利権や土地)を「価格が暴落する」と見越して先に売り抜け、実際に暴落した後に安値で買い戻すことで、その差額を儲ける手口。貴族たちが気づいた時には、彼らの資産価値は底を打ち、現金はすべてビアンカの手によって「新体制への投資金」へと変わっています。


局所防衛網(セグメント・シールド)

 バルカ教授が考案した、効率重視の代替インフラ。王都全体を無駄に煌びやかに覆う「看板(神聖防壁)」を廃止し、防衛が必要な居住区や重要拠点のみを個別セグメントに防護する。魔力消費を極限まで抑えることができ、国民の寿命を燃料にする必要が完全になくなります。



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