第70話:官報の片隅の人員整理と、1ゴールドの隠し符牒
「勇者アレクサンダーと『アヴァロン財団』の件は、適切に強制決算されました。……さて、休んでいる暇はありませんね。次なる監査への準備と、今回の経費精算を済ませてしまいましょう」
王都の地下深く、投資家ビアンカの隠れ家。
丸 2日間の意識の凍結からようやく目覚め、莫大な原価たる琥珀糖で限界まで冷え切った脳に火を入れたエマ・ルミナスは、テーブルの前に座り、革鞄から分厚い綴じ込み帳を取り出していた。
「……あのな、お嬢様」
壁に寄りかかり、大剣を布で拭いていたヴォルフが、呆れたように低く息を吐いた。
「勇者ってのは国の象徴だ。その象徴を社会的にぶっ殺した直後に、堂々と『経費払え』って国に請求書送りつける馬鹿がどこにいる。だいたい、あの元聖女はどうした? アレクサンダーと一緒に地獄行きか?」
「アリアは財団の不当利得を証明する被害者であり、同時に重要な物的証拠です」
エマは真鍮の万年筆の蓋を外し、漆黒のインク瓶にペン先を浸しながら淡々と答えた。
「今はギルド直轄の保護施設で、過去の不透明な寄付金の流れについて証言してもらっています。彼女の再評価、すなわち再度の監査には、まだしばらく時間がかかるでしょう。ですから今は、私たちの稼働費と武器の維持管理費を、きっちり宰相府から引き出すのが先決です」
エマが万年筆のペン先を、経費請求書の紙面に滑らせようとした、その時だった。
「……えっと、エマ。たぶんその請求書、出しても受け取ってもらえないと思う」
気まずそうに声をかけたのは、情報屋の少年ルカだった。
彼はポンチョの懐から、わら半紙のような安っぽい紙で束ねられた、文字ばかりがびっしりと並ぶ退屈な小冊子を取り出し、テーブルの上に置いた。
『ルミナリス王国・政府官報』。
それは、王宮が決定した新しい法律や行政の変更事項を市民に知らせるための、極めて地味で公的な文書だった。
「官報? 行政区画の変更でもあったのですか?」
エマは万年筆の手を止め、怪訝そうにその冊子を引き寄せる。
「……『行政再編の部・第 4ページ』の、一番下の隅っこを見てよ」
ルカに言われるがまま、エマはそのページを開いた。
そこには、他の退屈な河川工事の認可や関税の変更事項などに紛れて、目立たない小さな文字でたった 3行の決定事項が印字されていた。
『行政改革法案・第 4条に基づき、国家予算削減の最適化のため、王立保険ギルド内【特務監査部門】を本日付けで廃止とする。これに伴い、特務査定員の権限、ならびに同部門の専用口座はすべて凍結される――宰盟府』
「…………ッ」
エマの指先が、ピタリと止まった。
「ちょっと、どういうことよそれ」
横から官報を覗き込んだセラが、顔を引きつらせる。
「特務監査部門の廃止……? 権限と口座の凍結って……」
「言葉の通りよ、セラ」
長椅子でワイングラスを傾けていたビアンカが、全く笑っていない冷たい目で言った。
「エマの所属部署は、たった今『法律』によって合法的に消滅したの。口座が凍結された以上、ギルドからの給与も経費も 1ゴールドも引き出せない。……それどころか、権限を剥奪された彼女が、今後どこかの帳簿を監査しようとすれば、それはただの民間人による不法侵入になるわ」
暗殺者も放たれない。指名手配の紙すら撒かれない。
ただ、退屈な官報の片隅に「部署を無くす」と書き込まれただけで、エマから仕事も、権限も、口座も、すべてが奪い取られたのだ。
「素晴らしい。法案一文字で部署ごと消し飛ばす方が、圧倒的に原価がかからない。……敵ながら見事な組織の再編成です」
エマは、意味を成さなくなった経費請求書の上に、万年筆を静かに置いた。
「感心してる場合じゃねえだろ」
ヴォルフが低く唸る。
「お嬢様、お前はもう査定員じゃねえ。ただの無職の平民だ。法的に手足を縛られちまった以上、王宮の門に近づく権利すら失ったんだぞ」
「ええ、分かっています。宰相閣下は私を消したのではない。私の存在を計算外にしただけです。……ですが」
エマの灰青色の瞳が、官報のさらに隅、部署廃止に伴う『行政資産移管目録・端数調整の部』という極小の文字で埋め尽くされたページに注がれた。
「……変ですね。この目録、わずかに 1ゴールド未満の端数が浮いています。計算上の不備が、意図的に残されている」
* * *
「端数?」
覗き込んだセラが首を傾げる。
「ええ。この移管目録の、私の部署から公文書館へ送られた書類束の資産評価額を見てください。……上から順に、12.09 ゴールド、45.00 ゴールド、8.06 ゴールド」
エマの指先が、官報の極小の数字をなぞる。
「ギルフォード閣下は徹底した合理主義者です。1ゴールドにも満たない端数の計算は人件費の無駄として、全行政機関に対して《《整数への切り捨て》》を義務付けている。本来なら、ここは 12、45、8 となるはずです。……ですが、公文書館の受領印を押した総裁のマルキ侯爵は、意図的にこの小数点以下の端数を残して官報に載せた」
「小数点以下……『09』『00』『06』……? ただの小銭の誤差じゃねえか」
ヴォルフが眉をひそめる。
「閣下もそう判断したのでしょう。国全体の予算から見れば、0.15 ゴールドの誤差など調べる価値もない雑音です。彼が合理性の化身であるがゆえに、この切り捨てられた塵の中に意志が宿るなどとは考えもしなかった。……ですが、この端数を繋げた『906』という数字には、明確な意味があります」
エマの脳内で、父の記憶と公文書館の図面が合致する。
「6年前、父エドワードが監査未完了の書類にだけ付けていた隠し符牒。……そして同時に、公文書館の地下深くにある『第 9区・第 0列・第 6番棚』を示す物理座標です」
「……つまり、そこに恋文でも隠してあるってことか?」
「ええ。閣下は私を無職にすることで無力化したつもりでしょうが、同時に私は組織の監視からも完全に解放されました。今の私は、どこの帳簿にも載っていない透明人間です。……侯爵は、私がこの自由を手に入れる瞬間を待っていた」
エマは立ち上がり、特務査定員の制服の襟に留められた記章を外し、机の上に置いた。これが、公式な立場の終わり。そして、反撃の始まり。
「ビアンカさん。公文書館の廃棄資料の仕分けを行う、臨時筆耕の枠に空きはありませんか?」
「……ええ、ちょうど今朝、侯爵の使いから届いたわ。身元の保証もできないような、食い詰めた書き手を 1人、勝手口から回せってね」
ビアンカが、面白そうに唇を舐めた。
「公式な経路が閉ざされたのなら、非公式な裏道を歩むまでです。……行きましょう、ヴォルフ。今の私は、どこの帳簿にも載っていない、ただの書き手ですから」
エマは真鍮の万年筆を深く鞄へしまい、静かに告げた。
■ 元・査定員エマの業務日誌:今回の用語解説
【人員整理による解雇】
個人の不祥事を暴くのではなく、その部署が存在する根拠(法律)を書き換えて消滅させる、最も冷酷で合法的な排除方法。ルールを作る側の、一切の感情がこもっていない究極の事務処理です。
【重要性の原則(1ゴールド未満の切り捨て)】
監査において、全体に影響を与えない少額な誤差は調べるだけ費用の無駄として無視する合理的な規律。宰相ギルフォードのその正しさを逆手にとり、マルキ侯爵は官報の端数に不備を紛れ込ませました。
【強制決算の余波】
勇者という巨大な負債を切り捨てたことで、王国予算には一時的な余裕が生まれます。しかし、その浮いた資金の流向こそが、次なる監査の主戦場となります。




