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【第一部完結】剣より重い計算式(ロジック) ~異端の査定員エマ・ルミナスの監査報告~  作者: 二進
第4章:不渡りの王国

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第71話:紙の墓場と、美しすぎる事業計画書

 王宮の広大な敷地の最外郭、陽の光すら届かない地下深くに、その場所は存在していた。


 王立公文書館・分館。

 通称:《《紙の墓場》》


 国政の中枢から弾かれ、誰の目にも触れることのなくなった過去の決議案、破棄寸前の稟議書、そして歴史の闇に葬られた不都合な記録の数々が堆積する、言葉通りの墓標である。


 魔導式の空調など及ばない石造りの地下書庫は、数百年分にも及ぶ湿気と古いインクの臭いに満ちていた。

 太陽の熱から完全に切り離されたその空間は、呼吸をするだけで肺の奥が焼けるように痛む、底冷えのする静寂に支配されている。


「……第9ブロック、第0列は、さらに下層です。階段の勾配が15度急峻になります。足元の摩擦係数の低下に注意し、コンマ5秒先の着地予測を誤らないでください」


 臨時筆耕の腕章を左腕に巻いたエマ・ルミナスは、一切の感情を交えずにそう告げると、手に持ったカンテラの小さな灯りを頼りに、果てしなく続く螺旋階段を下っていく。


 王立保険ギルドの査定員という公的な地位を、宰相ギルフォードの『部署の統廃合』という極めて事務的な手段によって剥奪された直後だというのに、彼女の背中に悲壮感は微塵もなかった。


 1ゴールドの端数を操作し、エマ・ルミナスという個人の社会的な権限を完全に透明化した宰相の手腕。

 それは敵ながら見事な強制決算(クロージング)業務であると、エマは冷徹に評価していた。

 所属という因子の定義が外れたのなら、物理的に潜入し、事実を直接監査(アセスメント)すればいい。エマにとってこの状況は、絶望でも逃亡でもなく、ただ「次の監査対象の座標が変わった」という事実の再計算に過ぎなかった。


 しかし、肉体という器の限界は、論理では補完しきれない。

 数日間に及ぶ不眠不休の演算処理により、エマの細い足元は確実に機能を低下させていた。

 階段の一段、わずか20センチメートルの落差を処理するための筋力すら、今の彼女には贅沢な資質となっていた。


 カンテラの光が大きく揺れる。

 石の階段の表面に張った結露に靴底の保持力を奪われ、エマの体が物理法則に従って前方へ傾いた。


「っと」


 冷たい石の角に額を打ちつけ、位置エネルギーを運動エネルギーへ変換しながら階段を転げ落ちる寸前。

 背後から伸びてきた分厚い手が、エマの着ているブラウスの襟首を無造作に掴み、強引に後方へと引き戻した。

 首が締まる危うい力加減で宙吊りにされ、エマの足が空を掻く。


 背後に立つのは、無造作に跳ねた黒髪と鋭い琥珀色の瞳を持つ男、ヴォルフである。


 彼はエマの危機に対して気の利いた言葉をかけるでもなく、ただの荷物を下ろすようにエマを階段の踊り場に着地させた。

 そして、自分が羽織っていた黒のロングレザーコートを脱ぎ捨てると、まだ姿勢を立て直していないエマの頭から、その重い革の塊をバサリと容赦なく被せた。


「……何のつもりですか、ヴォルフ。視界が塞がって身動きが取れません。業務効率が著しく低下します」


「お前、今自分がどんだけ冷たくなってるか分かってんのか。さっき襟首を引いた時、死体かと思うくらい体温がなかったぞ。お前がここで凍りついて動かなくなったら、俺が担いで帰る手間が増える」


 ヴォルフは左腕の甲手を無機質に鳴らし、忌々しそうに舌打ちをしながら、コートの中でモゴモゴと動くエマの頭を上からポンと叩いた。

 背中には、彼を象徴する黒鉄の大剣が太いベルトで固定されている。


「意地だけで動いてるポンコツ計算機が、これ以上冷えて致命的な計算ミスでも出されても困るんだよ。ただでさえここは、お前の嫌いな非効率の塊みたいな寒さだ。……ほら、袖を通せ。歩くぞ」


 押し付けられたコートは、エマの華奢なサイズの倍はある。

 分厚い魔獣の革で作られたそれは、物理的に重く、微かに鉄と血の匂いがした。しかし同時に、裏地にはヴォルフの体温という確かな熱がたっぷりと残っていた。


 凍りついていたエマの指先に、じわじわと血の巡りが戻ってくる。

 エマはそれ以上抗議することなく、ずり落ちそうになる長すぎる袖を不格好に捲り上げながら、事務的な声で答えた。


「……重くて歩きづらいですが、極めて合理的な体温維持ですね。維持費用(コスト)として計上し、後でまとめて王国に請求しておきます」


「お前、本当にどんな状況でもブレねえな……」


 呆れ果てたヴォルフの重い溜息を背に受けながら、分厚い革の塊に包まれたエマは、再びカンテラを掲げて階段を下りていく。


 やがて、目的の階層に辿り着いた。

 天井まで届く巨大な本棚が、墓標のように何十列も立ち並ぶ空間。その奥深く、『第6番棚』の前に、カンテラとは違う黄色いランプの明かりが灯っていた。


 埃まみれの暗がりの中で待っていたのは、立派な髭を蓄えた一人の老人だった。

 公文書館総裁、マルキ侯爵。

 本来ならば平民の筆耕など一生口を利くこともできない雲の上の大貴族だが、彼はこの広大な紙の墓場を管理する、ただ一人の番人でもあった。


「……時間通りだな。査定員……いや、今はただの『通りすがりの筆耕』殿、と言うべきか」


 侯爵は、ブカブカのコートを着込んで現れたエマの姿を一瞥し、静かに、そしてひどく懐かしむように目を細めた。


「エドワードの娘か。……父親と同じ、ひどく理屈っぽくて、妥協という言葉を知らない生意気な目をしている。あいつも昔、同じようにその眼鏡の奥から、私を値踏みするように睨んできたものだ」


「お世辞は結構です。父は感情で動くような三流ではありませんでしたから」


 エマは侯爵の前に進み出ると、銀縁眼鏡のブリッジを中指で冷たく押し上げた。


「……官報を使った端数の調整、お見事でした。あなたのおかげで、宰相の監視網から外れた幽霊としてここに潜り込むことができました。さあ、見せてください。6年前、父エドワードが必要費用(コスト)として計上され、この国から消されなければならなかった理由……あの完璧な宰相が隠し持つ、システムの致命的な不備(エラー)を」


 エマの真っ直ぐな要求に、侯爵の顔から懐かしむような笑みが消えた。

 代わりに浮かび上がったのは、長年抱え込み続けてきた途方もない疲労と、拭い去れない恐怖の入り混じった、重苦しい表情だった。


「……綻び、か」


 マルキ侯爵は手元のランタンの灯りを棚の奥へ向けた。

 そこには、他の書類とは明らかに扱いが違う、幾重にも厳重な物理封印と魔術的な鍵が施された、分厚い革張りのバインダーが一つだけ置かれていた。


「だがエマ。お前の父エドワードは、この帳簿を見て、どこにも綻びがないことに絶望したのだ。私には数字のことは分からんが……あいつもまた、最高の計数官だった。その男が、数式を前にして血を吐くような顔で立ち尽くし、これを《《悪魔の数式》》と呼んだのだ」


 侯爵の乾いた手が、棚からバインダーを引き抜く。

 ずしりとした質量とともに、エマの手にそれが手渡された。


 表紙には、色褪せた金文字で『勇者システムおよび魔導炉設立決議案・最終試算表』と記されている。

 20年前。まだ若き日のギルフォードが書き上げ、この国の根幹を決定づけた、絶対的な事業計画書だ。


 エマは重い革のコートに包まれながら、静かに、しかし確かな緊張感を持ってそのバインダーの留め金を外し、ページを開いた。


 目に飛び込んできたのは、ずらりと並んだ膨大な数字の羅列。

 エマの視線が、紙面の上を滑るように走り抜ける。収入の部、支出の部、魔導炉の維持管理費、勇者システムへの投資額、および回収の見込み利益。


 それは、収入と支出のバランスが完璧に一致した、芸術的なまでに美しい黒字の帳簿だった。

 計算ミス一つなく、予算の無駄遣いも一切ない。

 国家規模の巨大な事業計画において、人間の強欲さや不測の事態という名の変数が全く存在しない帳簿など、現実には絶対にあり得ない。

 これほどまでに完璧な数字が並んでいること自体が、査定員にとっては最大の異常、不備(エラー)を告げる警鐘だった。


「……やはり。インクの配列そのものに、極めて高度な認識阻害の魔導式が編み込まれています」


 エマは紙面から顔を上げず、低く冷たい声で断言した。


「ただの隠蔽術式ではありません。数字の辻褄を脳に直接錯覚させる、悪辣な視線誘導です。これでは、どんなに優秀な計数官が何十人で検算しようとも、脳が勝手に正しい数字が書かれていると錯覚させられてしまう。父が絶望したのは、数字に負けたからではなく、この帳簿が《《読ませる気のない代物》》だったからです」


 だからこそ、物理的な計算では辿り着けない。

 強引に暗号の網目を引きちぎり、その下にある本当の数字を視るための、暴力的なまでの演算能力が必要になる。


 エマは銀縁眼鏡をかけたまま、静かに深く息を吸い込み、一度だけゆっくりと瞬きをした。


「……何をする気だ、エマ」


「視せていただきましょう。あなたが20年かけて隠した、国家の真の決算報告書を。」


 侯爵の制止の声も耳に入らない。

 エマの灰青色の瞳の奥で、青白い名もなき数式が明滅を始めた。


 色彩を排し、事象を純粋な魔力の流動と数式へと還元する。

 魔導式解析眼(トレース・アイ)が、冷たい青い光を放ちながら、20年前の嘘を暴くための高深度演算を開始した。



■元・査定員エマの業務日誌:今回の用語解説


【美しすぎる帳簿】

我々査定員が監査(アセスメント)において最も警戒すべき対象です。人間が運用する以上、いかなる事業にも必ず無駄や予測不能な経費が発生します。それが一切存在せず、収入と支出が完全に一致した数字が並んでいる場合、それは設計者の有能さを示すものではありません。「根本的な大嘘を隠すために、数字全体を上から偽装している」という、極めて悪辣な証拠に他ならないのです。


魔導式解析眼(トレース・アイ)

6年前、ルミナス侯爵邸が炎上した際、極限の絶望による自己崩壊を防ぐために、私の精神が獲得した未知の防衛機構です。視界から色彩という不要な情報を剥落させ、すべての事象を魔力の流動と冷たい数式へと強制的に変換します。対象に編み込まれた術式を解体し「真の数字」を視認できますが、脳への負荷が激しく、長時間の稼働には高カロリーの糖分補給という物理的な保守点検が不可欠となります。


強制決算(クロージング)

組織の機能や役職、あるいは個人の社会的な権限を強制的に終わらせ、精算すること。宰相ギルフォードは、エマの所属部署を法案一つで抹消するという、極めて事務的に洗練された手法でこれを執行しました。


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