幕間7:沈黙の玉座と、鳥籠の王太子
白亜の王宮。その最も空に近い最上層に位置する、王太子専用の豪奢な執務室。
壁一面を覆う巨大なガラス窓からは、王都ルミナリスの全景を見渡すことができた。だが、現在のその景色は、暴徒と化した市民たちの松明の光と、衛兵たちの怒号が入り混じる、混沌とした地獄絵図へと変貌していた。
「……勇者アレクサンダーが、失脚した」
窓枠に手をかけ、眼下の惨状を見下ろしていた王太子ルーファス( 22歳 )は、信じられないものを見るように、乾いた声で呟いた。
「神の奇跡だと謳われ、王国の象徴として民衆を熱狂させていたあの『英雄』が、たった 1人 のギルド査定員によって、ただの負債まみれの詐欺師として社会から抹殺された。……これが、現実なのか」
ルーファスは、金糸で刺繍された王族の豪奢なマントを強く握りしめた。
広場から響いてきたあの少女の宣告――勇者が吸い上げた利益の《《 92パーセント 》》が、宰相へと還流されていたという衝撃的な数字が、今も耳から離れない。
「ルーファス殿下。窓辺からお離れください。下層民どもが暴徒化しております。万が一、流れ矢や魔法が飛んでくれば危険です」
背後から、氷のように感情の抜け落ちた声が響いた。
振り返ると、部屋の入り口に、宰相府から派遣された筆頭侍従長が立っていた。その目は、主君であるルーファスに対する敬意など微塵もなく、ただの「管理対象」を見るような無機質なものだった。
「……危険だと? この王宮には、あの『宰相』が構築した絶対的な魔導防衛結界が張られているのだろう。下層民の魔法など、傷 1つ つけられるはずがない」
「ええ。ですが、宰相閣下より『殿下の安全を最優先に確保せよ』と厳命されております。どうか、奥の寝室へお戻りください」
侍従長の言葉は「お願い」の形をとっていたが、その実態は完全な「命令」であった。ルーファスは奥歯を強く噛み締めた。
「……宰相閣下、か。父上(国王)が彼に全権を委任して以来、この王宮で私の言葉は何一つ通らなくなった。私の発行する運営資金案はすべて宰相府で破棄され、私の側近はすべて彼の手の者に変えられた。……私は、この豪奢な鳥籠に飼われているだけの、ただのお飾りだ」
「滅相もございません。殿下は、次代のルミナリス王国を背負って立つ、最も尊き血筋でいらっしゃいます」
「口先だけの忠義などいらない! ……答えろ。あの勇者すらも、宰相の財布を肥やすための『集金装置』に過ぎなかった。それは、本当なのか!?」
ルーファスが声を荒らげても、侍従長は表情一つ変えなかった。
「……宰相閣下は、常に国家にとっての『最適解』を導き出しておられます。一部の不良債権を切り捨てることで、全体の 92パーセント を生かす。それは、王族である殿下には不可能な、冷酷で美しい計算式です」
「ッ……!」
「殿下はただ、玉座という名の安全圏で、美しい夢を見ておられればよいのです。……血に塗れた算盤を弾くのは、我ら実務に携わる者の役目ですから」
侍従長が一礼し、部屋の外へ退出していく。
重厚な扉が閉められ、外から「ガチャリ」と、物理的な鍵がかけられる音が響いた。
ルーファスは、誰もいなくなった静まり返る部屋の中で、力なく膝をついた。
「……父上が目を背け、私が放置し続けた結果がこれだ。この国はすでに、王家ではなく、あの男の算盤の上に乗っているだけではないか……」
彼には、自由に動かせる「資本」も、自らの手足となって動く「権限」も、何一つ残されていなかった。孤立無援。政治的にも経済的にも息の根を止められた自分に、何ができるというのか。
「 8パーセント の不良債権を切り捨てる……? 民の命を、そんな冷酷な計算式で……ッ」
絶望の淵で、冷たい大理石の床に拳を叩きつけた。
だが、その痛みが、鳥籠に閉じ込められた王太子の目に、微かな抗いの火を灯した。
「……誰かが、この狂った国の帳簿を正さなければならない。下層民への精気配分と、食糧の支援案。私が……私が、宰相の論理を覆す『対案』を出す……!」
フラフラと立ち上がり、彼は執務机に向かった。
今の彼に残された武器は、ペンと紙しかなかった。それがどれほど無力で、残酷な算盤の前では何の価値も持たない「理想」に過ぎないとしても、今はただ、それに縋るしか決裁の道は残されていなかった。
白紙の羊皮紙を引き寄せ、震える手でインク壺にペンを浸す。
それが、実権を持たない王太子の、あまりにも悲壮な《《三日三晩の抵抗》》の始まりであった。
■査定員エマの業務日誌:今回の用語解説
【お飾り】
王太子ルーファスは、血筋という看板だけを持ち、実質的な決裁権(資産を動かす権利)を宰相にすべて奪われている状態です。これでは監査の責任も取れません。彼を『真の運営責任者』として機能させるためには、外部からの強引な資本注入(私たちの介入)による、組織の抜本的な改革が必要不可欠です。
【無力な対案】
彼がこれから三日三晩かけて作成する支援案は、財源の裏付けがないため、宰相府に 1秒 で棄却される運命にあります。しかし、彼が一度「自らの無力さ」を極限まで痛感することこそが、後に私が提出する「すべてを奪う冷酷な再建案」に彼が署名するための、不可欠な心理的減価償却となります。




