第69話:真の連結決算と、氷山の一角
王都の中心、太陽の広場から喧騒が消え去った。
数万の民衆は散り散りになり、広場にはただ、熱波でドロドロに溶け固まった石畳の惨状と、エマが空からばら撒いた「真実の領収書」の残骸だけが、冷たい風に吹かれてカサカサと虚しい音を立てていた。
特務監査局の黒い飛行船『リヴァイアサン号』から地上へと降り立ったエマ・ルミナスは、荒れ果てた広場の中央へ歩みを進める。
彼女は泥に塗れた1冊の黒革の手帳――先ほどアリアが告発に用いた神殿の裏帳簿と、その傍らに転がっていた、完全に魔力を失い炭化した聖剣の破片を、純白の手袋越しに静かに拾い上げた。
「……終わりましたね、エマ様」
背後から歩み寄ってきたアリアが、深く、長い息を吐き出した。
彼女の若草色の瞳には、長年彼女の精神を縛り付けていた神殿の呪縛から解放された、微かな安堵の色が浮かんでいる。衛兵たちに無様に引きずられていく勇者パーティの残党を見送りながら、彼女は静かに微笑んだ。
「勇者の偶像は完全に破壊され、神殿の裏金もすべて白日の下に晒されました。彼らの資産はギルドと国庫によって凍結され、二度と立ち上がることはできないでしょう。……これで、貴女のお父様の仇は」
「いいえ。まだ計算は合っていません、アリア」
エマの声は、復讐を成し遂げた者の熱など微塵も帯びていない、絶対零度の静けさだった。
彼女は懐から真鍮の万年筆を取り出すと、拾い上げた裏帳簿の最後の空白ページを開き、サラサラと乾いた音を立てて数字を書き込み始めた。
「アリア。貴女は神聖暗号を見事に翻訳し、彼らの支出を暴き出しました。ですが、監査において最も重要なのは、支出と収入を突き合わせることです」
「収入……防衛特別税と、神殿への寄付金のことですか?」
「はい。この帳簿に記された、勇者アレクサンダーの愛人への貢ぎ物、豪遊費、そして神殿の上層部による横領と賄賂。それらをすべて合算し、最大限の利息を乗せたとしても……その総額は12,000,000ゴールドに届きません。対して、過去10年間に国民から徴収された税と寄付金の総額は、推定150,000,000ゴールドです」
「……え?」
アリアの表情が、凍りついた。
エマの万年筆が、冷酷に割り算の答えを導き出す。
「彼らが豪遊して消費していた額は、国民から搾取した総額の、わずか8%に過ぎません。……致命的な不備です」
「な……待てよ、お嬢様」
護衛として周囲を警戒していたヴォルフが、眉をひそめて口を挟んだ。
ヴォルフの視線が、エマの手元の数字を鋭く射抜く。
「あの英雄様は、愛人に宝石を買い与えて、夜毎の宴会で散財して、俺たちごと広場を吹き飛ばそうとするくらい莫大な魔力を振り回してたんだろ。神殿の生臭坊主どもだって、裏で相当な甘い汁を吸ってたはずだぜ。それなのに、たったの8%だってのか?」
「ええ。アレクサンダーたちの浪費は、一般市民の感覚からすれば途方もない悪逆に見えます。しかし、マクロな国家経済の視点から計算すれば、彼らが横領していた額など、極めて安価な原価の範疇を出ません」
エマは銀縁眼鏡を中指で押し上げ、残りの数字を万年筆で丸く囲んだ。
「残り92%……金額にして、約138,000,000ゴールド。国家予算に匹敵するその天文学的な数字は、勇者の懐にも、神殿の金庫にも存在していません。最初から、跡形もなく消え去っているのです」
「……そんな、馬鹿な。それほどの巨額の資金が消えれば、国が傾くはず……」
「ええ、国は傾いています。だからこそ、先日中央銀行で取り付け騒ぎが起きた。……6年前。私の父、首席計数官エドワード・ルミナスは、この絶対的な数字の不一致、すなわち不備に気づき、そして殺されました」
エマは、父の形見である万年筆の冷たい真鍮の感触を確かめながら、王都の奥深く――宰相府がそびえ立つ王宮の方角を、氷のような瞳で見据えた。
「父は、死の間際に理解したのです。光り輝く勇者も、権威ある神殿も……この途方もない規模の不正から大衆の目を逸らすために配置された、ただの派手な看板に過ぎないということに」
エマの言葉が、冷たい風に乗って広場に響く。アリアが震える手で口元を覆い、ヴォルフがゆっくりと息を呑んだ。
「勇者と神殿の腐敗は、水面から顔を出しているだけの氷山の一角。……私が辺境からずっと追い続けてきた『数式の終着点』です」
エマは万年筆を動かし、帳簿の余白に、王都の地下を巡る巨大な魔力回路の図と、1つの巨大な終着点を描き出した。
「国民は、勇者のスキャンダルや神殿の腐敗に目を奪われ、そこで不正が完結していると思い込まされていました。しかし真実は違う。国民の命を燃料にして生み出された莫大な利益の92%は、すべて合法的なシステムの裏道を通り、たった1つの巨大な口座――この国の法とシステムを構築した男、宰相ギルフォードの資産へと不正に還流され続けているのです。
……国家の首席計数官であった父を家ごと焼き払い、それを正当な処理として隠蔽した真の黒幕。彼という絶対的な城壁を崩すためには、こうして外堀である『財務卿』や『勇者』から資金ルートを物理的に剥奪し、彼らの手首を直接繋ぎ合わせる必要がありました」
「……つまり、俺たちが今まで叩き潰してきた奴らは全員、一番デカい黒幕の財布を肥やすための、ただの集金装置だったってことか。あの勇者すら、ただの雇われの集金係に過ぎなかったと」
「ええ。勇者システムすらも、巨大な国税還流システムの一部――宰相ギルフォードが所有する、悪質な末端組織に過ぎません。彼が先ほど、アレクサンダーを数秒で損切りできたのは、それが彼にとって、維持し続ける原価に見合わない末端の歯車だったからです」
絶望的なスケールの大きさに、広場は沈黙に包まれた。
これまでの血みどろの戦いも、勇者を追い詰めた痛快な勝利も、すべては宰相という巨悪の手のひらの上での、些末な誤差の修正に過ぎなかったのだ。
だが、エマ・ルミナスの顔に絶望はない。
彼女は、父から託された真鍮の万年筆のキャップを、パチン、と硬質な音を立てて閉めた。
「ですが、元締めと末端が繋がっている以上、帳簿を辿れば必ず行き着きます。末端の決算は終わりました。次は、黒幕を含めたすべての負債をまとめる、真の連結決算の時間です」
エマは振り返り、自らの背中を守る絶対的な定数であるヴォルフと、新たな計算式の変数となったアリアに向けて、一切の感情を排した声で宣告した。
「最後の監査対象は、この国のルールを作った男です。……これより、王国宰相ギルフォードの最終監査へ移行します。全ての帳簿を整理し、最終報告書の準備を」
白亜の王都を覆う分厚い雲が割れ、一条の冷たい光が、エマの歩む先を静かに照らし出していた。
(第3章:勇者アヴァロンの経費精算 完)
■査定員エマの業務日誌:今回の用語解説
【氷山の一角(偽装組織による視線誘導)】
組織的な巨大な横領を行う際、あえて目立つ部署に派手な浪費を許容しておくことで、大衆の憎悪をそこに集中させる手法です。水面下に隠された真の横領システムは、こうしたノイズによって保護され、永遠に暴かれないまま稼働し続けます。
【連結決算と最終監査】
末端の組織単独の帳簿ではなく、集団全体のお金の流れをすべて1つにまとめて計算し直すことです。末端の集金機関をいくつ潰そうと、黒幕にダメージはありません。大元の金庫そのものをこじ開け、すべての矛盾を直撃させることが、巨大な不備を根本から破壊する唯一の手段となります。




