第66話:偶像の不渡りと、暴走する英雄資産
アリアの静かで、しかし残酷なほど正確な「祈りの翻訳」は止まらなかった。
「聖典・第5章12節。……『悪しき竜は、白き光の剣にて平伏す』」
胸の前で両手を組んだアリアは、かつて自分が暗号化を強要されたその一文を、透き通るような声で広場に響かせる。
「――解読結果。『大聖誕祭用・老齢ワイバーン購入費、並びに口封じのための裏業者暗殺費用。合計8,500ゴールド』」
「やめて……もうやめてくれッ!」
僧侶は両手で耳を塞ぎ、石畳に頭を擦り付けた。彼らが絶対の盾としていた教会の権威は、元内部関係者であるアリアの告発によって完全に崩壊した。神聖な祈りの言葉が、ただの殺人と横領の領収書へと変換されていく様に、広場を埋め尽くす数万の民衆は、ただ声もなく戦慄していた。
だが、元聖女の追及は、彼らに息継ぎの暇すら与えなかった。
「聖典・第2章14節。『慈悲の泉は枯れず、病める者を癒やさん』」
誰もが知る、貧しい者へ祈りを捧げる時の最も美しい一節。アリアは、その慈愛に満ちた言葉を紡いだ直後、冷たい氷のような事実を突きつける。
「――解読結果。『東区の疫病対策補助金、全額横領。勇者専用の特注馬車の内装費、および王室直轄賭博場への裏口入金へと流用。合計420,000ゴールド』」
「あ……」
群衆の中から、掠れた声が漏れた。それは、昨年の冬に東区で流行した熱病で、薬を買えずに家族を失った者の悲鳴だった。
「聖典・第7章4節。『神の盾は堅牢なり。悪しき者の牙を砕かん』」
アリアの容赦のない翻訳が、広場に降り注ぐ。
「――解読結果。『王都防衛用の結界魔石、粗悪品へのすり替えによる差額利益。180,000ゴールド。勇者アレクサンダー個人の第3の愛人への別荘購入費として計上』」
「やめてぉぉぉッ!! 聖女の口から、それ以上神を冒涜するな!」
魔法使いが狂乱して叫ぶが、アリアは若草色の瞳に深い哀しみを湛えたまま、静かに首を振った。
「神を冒涜し、祈りを汚れ仕事の隠れ蓑にしたのは貴方たちです。……この帳簿に記されているのは、貴方たちが『英雄』という名の下に踏みにじってきた、数え切れない命の清算書です」
アリアの言葉が広場に落ちた瞬間。民衆を縛り付けていた信仰という名の呪縛が、完全に解け落ちた。
それは、やがて確かな熱を帯び始める。騙されていたことへの怒り。自らの信仰心と、なけなしの生活費、誠実な祈り、そして愛する者の命すらも食い物にされていたという、決して許すことのできない憎悪。
「……ふざけるな」
群衆の中から、誰かが石を投げた。それは、広場の中央で呆然と立ち尽くす勇者アレクサンダーの、白銀の鎧にカツンと虚しい音を立てて弾かれた。
「ふざけるな泥棒ッ! 疫病の薬代を返せ!」
「俺の娘は、あんたを信じて祈りながら死んだんだぞ! お前なんか英雄じゃない、ただの人殺しだ!」
次々と飛んでくる石と、罵声の嵐。つい数十分前まで、自分を神の如く崇め、歓声を上げていた数万の民衆が、今や一斉に殺意の牙を剥いて自分を囲んでいる。
アレクサンダーは、飛んできた泥が頬に当たるのを感じながら、わなわなと唇を震わせた。
「お、お前ら……誰に向かって石を投げている……! 俺だぞ! この国を守り続けてきた、勇者アレクサンダー様だぞッ!」
彼は血走った目で群衆を睨みつけ、聖剣を無茶苦茶に振り回した。
「俺がいなければ、お前らなどとっくに魔族に殺されていたんだ! 多少の金をごまかしたくらいで何だ! 俺がこの国に与えた安心に比べれば、愛人への宝石代など安い費用だろうがッ!」
完全に追い詰められた人間特有の、身勝手で醜悪な開き直り。自分は特別な存在であり、愚民を庇ってやっているのだから、いくら搾取しても許されるはずだという、腐りきった特権意識。
だが、その浅薄な自己正当化の論理は、上空の飛行船から見下ろすエマ・ルミナスにとって、最も処理が容易な単純な数式に過ぎなかった。
『――貴方の言う安心は、需要の自作自演です』
エマの無機質な声が、アレクサンダーの怒号を氷のように冷たく上書きする。
『王都近郊における過去5年間の魔獣被害。その82%が、貴方たちアヴァロンが闇市場から買い付け、意図的に放った在庫であることが証明されています。貴方は平和を守っていたのではない。定期的に危機を演出することで、防衛税という名目の不当な上納金を国民から強請り取っていただけです』
「黙れ、黙れ、黙れェェェッ!!」
アレクサンダーは狂乱し、顔を天へ向けて絶叫した。もはや言葉による反論は不可能だった。広報官の涙も、魔法使いの証拠隠滅も、僧侶の権威も、すべて物理的・論理的に粉砕された。
彼に残されたカードは、ただ一つ。彼が勇者として祭り上げられた最大の理由――すなわち、規格外の暴力だけだ。
「……もういい。分かったよ。お前らが俺を不要だと言うなら……俺はもう、英雄でいてやる義理はないッ!」
アレクサンダーの瞳孔が、極度のストレスと怒りによって異常なまでに収縮する。彼が両手で構えた白銀の聖剣から、これまでの演出魔法とは次元の違う、赤黒く濁った高密度の魔力が噴き出し始めた。
「魔族の襲撃だ……!」
アレクサンダーは、まるで狂人のように笑い声を上げた。
「そうさ! 今日この大聖誕祭の広場に、恐るべき魔族の大軍勢が襲来した! 勇敢なるアレクサンダー様は必死に戦ったが、哀れな数万の市民たちは……空を飛ぶ魔族の船ごと、無残にも焼き尽くされてしまったッ!」
「なっ……!?」
「あいつ、俺たちごと広場を吹き飛ばす気か!」
群衆がパニックに陥り、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。
「全部燃やしてやる! 証拠も、生意気な小娘も、お前ら愚民共の命も、まとめて魔族のせりにしてやる! そして俺は、悲劇の勇者としてまたゼロから資金を集めてやるんだよォォッ!」
彼自身の莫大な魔力と、周囲の空間から強引に吸い上げたエネルギーが、聖剣の刀身に太陽のような超高熱の球体を形成していく。広場の酸素が一気に奪われ、石畳が熱に耐えきれずにパキパキとひび割れた。
上空の飛行船の甲板。猛烈な熱波を下から浴びながら、エマは銀縁眼鏡を中指で押し上げ、その異常な数値の跳ね上がりを冷徹に分析していた。
「……対象の魔力出力、推定120,000を突破。空間の温度が2秒ごとに5度ずつ上昇しています。極めて原始的な熱膨張による広域破壊。……論理的破綻を物理的な強硬抹消で清算しようとする、致命的な不備です」
エマは手元の拡声器を下ろし、眼下の広場の中央――逃げ惑う群衆の波に逆らうように、ただ一人、暴走する勇者に向かって歩みを進める黒い影へ向けて、短い業務命令を下した。
「――ヴォルフ。不良資産の強制清算を執行してください。……あの偽物の太陽を、1ゴールドの価値もない粗大ゴミへと減損処理します。監査結果の提供を開始してください」
「……了解だ、お嬢様」
熱風が吹き荒れる地上。ヴォルフは黒いロングレザーコートを激しく翻しながら、琥珀色の瞳を獰猛に細めた。背中から引き抜かれた漆黒の大剣が、主の意思に呼応するように、ズォン、と重い金属音を響かせる。
「いいぜ、英雄様。算数の時間は終わりだ。……ここからは、俺の物理学の授業に付き合ってもらうぜ。……最高の実地監査を見せてやるよ」
■査定員エマの業務日誌:今回の用語解説
【需要の自作自演】
自ら放った安物の魔獣を自ら討伐し、危機から救ってやったと恩を着せて莫大な防衛税を搾取する構造。実態は放火魔に消火器の代金を支払わされていたのと同義であり、国家の原価管理を根本から破壊する行為です。
【強制清算と不備の排除】
言葉による弁明や証拠の隠蔽が不可能になった際、不正者が選択する「盤面ごとすべてを破壊する」という暴挙。極めて非論理的ですが、物理的な殺傷力だけは高いため、専門の執行者による物理的な介入が必要となります。
【監査結果】
どれほど巨大な魔力であっても、その根拠となる正当性が失われれば、それは単なる暴徒の振るう凶器に過ぎません。ヴォルフの一撃は、アレクサンダーという存在がもはや無価値であることを確定させる、物理的な報告書となります。




