第62話:英雄の仕入れ値と、降り注ぐ真実
王都ルミナリスの中心、数万の民衆を飲み込んだ『大聖誕祭』の特設広場は、狂気にも似た熱狂の渦にあった。
「おおおッ! アレクサンダー様だ! 勇者様が、我々を救ってくださるぞ!」
「見ろ、あの恐ろしい魔獣を! 王都の結界をすり抜けてきたという凶悪なワイバーンだ!」
広場の中央。
結界魔法で隔離された空間で、白銀の鎧を纏った勇者アレクサンダーが、聖剣を天高く掲げていた。
彼の視線の先には、太い鎖に繋がれた1頭の巨大なワイバーン。
恐ろしげに咆哮を上げているが、はるか上空の雲海に潜む『高速魔導飛行船』の甲板から見下ろすエマ・ルミナスの瞳には、その実態が極めて無惨な「数値」として映し出されていた。
(……牙の欠損率、78%。翼の被膜の劣化度合いから推測するに、年齢は優に60歳を超えた老齢個体。骨密度の低下は著しく、自力での飛行すら不可能なはずの劣悪な状態。……そして、あの威嚇の咆哮)
エマは、飛行船に吹き荒れる風の中で、スレート・グレーの制服の乱れすら気にせず、冷徹に眼下の数式を読み解いていく。
ワイバーンの首元には、毛並みに隠されるように小型の音響魔導具が仕込まれていた。老いた魔獣の弱々しい鳴き声は、その魔導具の変換式を通ることで、人為的に凄まじい轟鳴へと増幅されていたのだ。
だが、極彩色に輝く過剰な魔法の光と、巧みな舞台演出に酔いしれた群衆には、それが「絶望的な脅威」にしか見えていなかった。
「恐れるな、民よ! 我が聖剣の光がある限り、この王都の平和は永遠に守られる!」
アレクサンダーが芝居がかった身振りで宣言し、限界まで魔力を込めた聖剣が眩い光を放つ。
群衆の歓声が最高潮に達し、勇者がまさに老いたワイバーンへトドメの一撃を振り下ろそうとした、その瞬間だった。
キィィィィィンッ――!!
突如、広場に設置されていた数十台の拡声器から、鼓膜を劈くような激しい雑音が鳴り響いた。
予期せぬ不快音に群衆が耳を塞ぎ、アレクサンダーの剣の軌道がピタリと止まる。
静まり返った広場に、氷のように冷たく、一切の感情を含まない「事務的な声」が降り注いだ。
『――勇者アレクサンダー。貴方の放つその魔法の光、魔力変換効率が極めて劣悪ですね。視覚的な派手さを優先するあまり、実質的な殺傷能力は本来の12%にまで低下している。残りの88%は、ただ民衆の目を眩ませるための「照明代」という原価として浪費されています』
「な、なんだ!? 誰だッ!」
アレクサンダーが周囲を睨みつけるが、声の主は地上にはいなかった。
王都を覆う分厚い雲海が巨大な質量によって割られ、漆黒の船体が姿を現す。王都の防衛網を完全に無視して上空に停滞した飛行船の突端。エマ・ルミナスは拡声器を片手に、銀縁眼鏡を中指で冷たく押し上げた。
『そして、そこに繋がれているワイバーン。……その老齢個体の仕入れ値、3,000ゴールド。随分と安上がりな奇跡ですね』
「な……ッ、何だあの船は!?」
「空賊か!? いや、女が何か言っているぞ……仕入れ値?」
混乱する群衆と、想定外の事態に硬直する勇者パーティ『アヴァロン』の面々。
エマは横に立つ黒衣の男、ヴォルフへと短く業務命令を下した。
「……ヴォルフ。情報の棚卸しを開始します。《《全量投下》》」
「了解だ。……そら、英雄様への特大の『請求書』のお通りだぜ!」
ヴォルフがレバーを引くと同時に、飛行船の底面ハッチが開放された。
空から降ってきたのは、何十万枚という、圧倒的な質量の『紙の束』だった。
分厚い紙の束は落下しながら空中で解かれ、猛烈な「吹雪」となって、広場にいる数万の民衆の頭上へとバサバサと降り注ぎ始めた。
「な、なんだこれは!? 領収書……? なになに、『老齢ワイバーン1頭、代金3,000ゴールド。購入者・アヴァロン英雄慈愛財団』……?」
紙切れを手に取った市民たちの顔から、次々と血の気が引いていく。
空から降ってきたのは、勇者たちが闇業者と交わした魔獣の購入履歴、演出用魔導具の発注書、そして数え切れないほどの高級宿屋や歓楽街でのツケ――そのすべての原本を精巧に複製した、物的証拠だった。
「ひ、卑劣な! 魔族の罠だ! 騙されるな!」
アレクサンダーが顔を真っ赤にして叫ぶ。
「俺たちが今まで、どれだけの血を流してこの国を守ってきたと思っている! この俺の剣が、どれほどの脅威を切り裂いてきたか――!」
『ええ、存じています。貴方たちが流したという血の量なら、私の手元の帳簿に1ゴールドの狂いもなく記載されていますから』
エマの声が、勇者の激昂を氷の刃で切り裂くように上書きした。
『レッド・オークの血糊、防腐処理済み。3本分で、単価150ゴールド。……随分と安っぽい血ですね。さらに、王都近郊での討伐記録と、貴方たちが懇意にしている闇業者への送金履歴を照合した結果、過去3年間の討伐対象の82%が事前に購入された養殖の魔獣であったことが統計的に証明されています。相関性は99.8%。もはや、致命的な不備と呼ぶべき事態です』
「で、でたらめを言うなッ! 俺がいなければ、この王都はとうの昔に魔獣に滅ぼされていたんだぞ!」
『傲慢な仮定と、杜撰な嘘ですね。では、その「もしも」の試算式と、本日の催しの原価を提示しましょう』
エマは一切の同情を交えずに、手元の束から1枚の書類を引き抜いた。
『貴方たちアヴァロンが国民から集めた予算、年間およそ2,000,000ゴールド。対して、貴方たちが真の意味で防衛に費やした実費は、全体のわずか4%に過ぎません。残りの96%――すなわち1,920,000ゴールドはどこへ消えたのか。……答えは、皆様の手の中にある紙切れの通りです』
『さらに本日の催事。ワイバーン代3,000ゴールド、音響増幅魔導具の貸出料が500ゴールド。広場を照らす演出魔法の触媒費が1,200ゴールド。合計4,700ゴールド。……貴方たちはたった4,700ゴールドの原価で、市民から集めた2,000,000ゴールドを正当化しようとしている』
エマの言葉に合わせて、市民の1人が震える声で手元の紙を読み上げた。
「……西区の高級娼館の貸切費用、一晩で20,000ゴールド。……特注の装飾用マント製作費、8,000ゴールド……。ぜ、全部、俺たちの寄付金から……?」
「ワイバーンの仕入れ値よりも、娼館の貸し切り代の方が高いじゃないか……!」
「俺たちが命を懸けているんだ、その程度の対価は当然だろうッ!」
アレクサンダーはついに開き直り、剣を振り回して群衆を威圧しようとした。
『貴方たちが討伐したと主張する魔獣の死骸、そのすべてが素材として闇市場で転売されています。市民から防衛税を搾取し、自作自演の討伐で名声を得て、さらにその死骸を売って二重に利益を得る。完全な自作自演の収益構造ですね。利益率に換算すれば驚異の850%。監査対象としては極めて杜撰であり、隠蔽する知能すら感じられません』
「黙れ、黙れ、黙れッ! 俺は神に選ばれた勇者だ! 多少の裏金がなんだ、俺の存在そのものがこの王国の抑止力なんだぞ!」
アレクサンダーの悲痛な絶叫にも、エマの表情は1mmも動かない。
『神に選ばれたのではなく、財務卿の帳簿に選ばれただけでしょう。貴方の存在による抑止力と、貴方がもたらした搾取による経済的損失を比較演算しました。……結果は明白です。貴方が存在し続ける限り、この王国の経済水準は毎年2.5%ずつ低下し、市民の平均寿命は0.8年ずつ縮んでいく。貴方は防衛の要ではなく、国家という仕組みに寄生し、宿主を食い殺す致命的な欠陥です。……存在価値は、《《マイナス》》です』
エマの声が、一段と低く、絶対零度の冷気を孕んだ。
『他者の命と生活を費用として使い潰す者に、この世界の利益を語る資格はありません。1ゴールドの不純物を許容する仕組みは、いずれ1,000,000ゴールドの負債を抱えて崩壊する。貴方たちはこの王国の資産を食いつぶす、最悪の不良債権です』
足元に降り積もる生々しいインクの染みと、上空から浴びせられる正確無比な数字の暴力が、勇者が放っていたどんな魔法の光よりも強烈に、市民たちの目を覚まさせていく。
広場を包んでいた熱狂は、今や完全な絶望と、騙されていたことへの怒りへと反転しつつあった。
エマは上空から、崩壊していく「英雄という名の虚飾」を、ただの数字の羅列を見るような瞳で見つめていた。
『空中に光で描かれた奇跡など、魔力を絶てば消えます。……ですが、皆様の手の中にあるインクの染みは《《決して消えません》》。それが、貴方たちの血税が化けた英雄の真実です』
エマは手元の拡声器の出力を最大にし、王都の隅々にまで届くよう冷徹に宣告した。
『これより、勇者パーティ「アヴァロン」に対する、公開精算を開始します。……1ゴールドの不備も、私は見逃しません。』
■査定員エマの業務日誌:今回の用語解説
【不備の累積】
当初は3,000ゴールドの魔獣仕入れという小さな嘘に過ぎませんでしたが、それを隠蔽するための演出費や口止め料が雪だるま式に膨れ上がり、最終的に国家予算を揺るがす規模へと肥大化した状態。組織における初期段階の監査がいかに重要であるかを示す好例です。
【実地監査】
帳簿上の数字が、実際の現場(今回の場合は討伐現場や購入ルート)と合致しているかを物理的に確認する作業。エマは飛行船からの情報散布という極めて広域かつ強引な手法で、これを全市民に対して同時に執行しました。




