第47話:三流芝居の舞台裏と、1,200ゴールドの「奇跡」
王都ルミナリス郊外、東の廃村。
かつては街道沿いの宿場町として、旅人の喧騒と馬車の轍に彩られていたその場所は、今や崩れ落ちた石壁と、冬の湿った風に揺れる枯れ草が支配する、文字通りの墓標と化していた。
深夜22時30分。
エマ・ルミナスは、漆黒の外套に身を包み、廃村を見下ろす北側の丘の影で息を潜めていた。
隣には、不機嫌そうに大剣の石突を凍った地面に突き立てたヴォルフ。そして闇に完全に同化し、音もなく偵察を終えて戻ってきた情報屋ルカの姿がある。
「……まもなく、開始時刻ですね」
エマは冷え切った指先で銀縁眼鏡のブリッジを押し上げ、冷徹な瞳で眼下の広場を観察した。
静寂が支配すべき廃村の中央広場には、不自然なほど煌々と、複数の魔導ランプの灯りが揺れている。
それは闇を照らすためではなく、そこに立つ「主役」をより劇的に、より神々しく演出するための――あまりに露骨で、過剰な舞台装置だった。
「……あんな無駄な光量を維持するだけで、魔石の消費量は一時間あたり30ゴールドを下りません。神殿の広報予算は、夜空を無意味に焼くために計上されているのですか。熱効率を考えれば、極めて低質な資金運用と言わざるを得ません」
「文句を言うな、お嬢様。……で、ルカ。獲物の様子はどうだ」
ヴォルフの問いに、ルカが肩をすくめて応える。その表情には、同業者としての、あるいは「本物」を知る者としての深い軽蔑が滲んでいた。
「最高に笑えるよ。檻の中の『双頭の熊』は、文字通りの『肉の塊』だ。牙はあらかじめ全部抜かれ、爪は根本から焼き切られてる。おまけに、致死量寸前の睡眠薬を打たれて、いびきさえかいてない。……あんな動かない標的を剣で刺すのが『英雄の仕事』だってんだから、王都の住民も舐められたもんだね」
「……1,200ゴールド。それが、彼らが用意した『奇跡』の取得原価です」
エマは懐から、ルカが高級宿のゴミ箱から拾い集めた、インクの滲んだ領収書の束をピンセットでつまみ出した。
そこには、王都の裏市場で決済された、あまりにも低廉な金額が記されている。
一村を壊滅させるはずのランクB魔獣が、勇者アレクサンダーが一晩で消費する高級ワインの三割にも満たない原価で調達されている。
これが、勇者という『優良資産』の市場価値を不当に維持するための、神殿による粉飾決算の正体だった。
* * *
深夜23時。
広場を囲むように、神殿から派遣されたお抱えの記録官たちが数名、震える手で羊皮紙を構え、固唾を呑んで「舞台」を見守り始めた。
彼らの仕事は、目の前の真実をありのままに記すことではない。
神殿が望む『奇跡』を、一文字の狂いもなく美文化し、明日の朝刊のトップを飾るための、国民への甘い毒となる『脚本』を完成させることにあった。
広場の中央で、白銀の甲冑を月光に反射させ、芝居がかった大きな動作で大剣を構えているのは、勇者アレクサンダーだった。
「……案ずるな。この王都を脅かす凶獣は、我が聖剣が浄化する! 民の涙は、私がすべて拭い去ってみせよう!」
アレクサンダーの、腹の底から響くような――しかし、どこまでも魂の籠もっていない発声が、廃村の石壁に反響する。
彼は仰々しく檻の扉を開けさせ、薬で泥のように眠る魔獣の前へと、一歩、また一歩とゆっくり歩み寄った。
本来なら、オルトロス・ベアは二つの頭で周囲を常に警戒し、死角のない攻撃を仕掛けてくる凶暴な個体だ。だが、目の前のそれは、勇者が鎧の音を派手に響かせて近づいても、ピクリとも動かない。
アレクサンダーが剣を振り上げる。
その顔には、絶対的な勝利を確信した、安っぽい喜劇役者のような悦悦とした表情が浮かんでいた。
記録官のペンが走り、魔導ランプが「奇跡の瞬間」を美しく記録するために最大光度へと引き上げられた、その時だった。
「――カットです。これ以上の無駄な実演は、ギルドの監査規定に基づき、『不適切な支出』として処理します」
夜の帳を切り裂くような、硬質で、冷ややかな声。
白銀の鎧に身を包んだ「主役」の背後から、漆黒の外套を纏ったエマ・ルミナスが、泥に汚れた革靴の音を正確に響かせて歩み出た。
「な……貴様、何者だ! 聖なる儀式の最中だぞ!」
アレクサンダーが狼狽し、持ち上げたばかりの重い剣先を不格好に震わせる。
エマは表情一つ変えず、記録官たちが呆然と立ち尽くす中、堂々と「舞台」の中央へと踏み込んだ。
彼女の灰青色の瞳は、勇者の白銀の鎧ではなく、その足元に転がっている「欠陥品」へと固定されている。
「ギルド公認会計士、エマ・ルミナス。……アレクサンダー様。貴方が今から切り刻もうとしているその資産は、取得原価1,200ゴールド。昨夜、王都の裏市場で決済された領収書の原本が、ここにあります」
エマが掲げた一枚の紙片。
そこに記された「1,200」という無機質な数字が、高価な魔導ランプの光に照らし出される。
「……1,200ゴールド? 何を、馬鹿なことを……! これは魔王の眷属、双頭の熊だぞ!」
「輸送費に500ゴールド。老齢で繁殖能力を失った個体の調達費に400ゴールド。そして、抵抗力を奪うための過剰な睡眠薬『ディープ・スリーパー』に300ゴールド。……合計1,200。これが、この魔獣の適正な市場価格です。王都の安全を守るための予算が、これほどまでに安価な『演出』に浪費されているとは。……この金額は、本来なら困窮する近隣村への支援金、およそ三ヶ月分に相当します」
エマの追及は、アレクサンダーの個人的な武勇ではなく、彼の背後に流れる「不透明な資金循環」へと向けられていた。
記録官たちの羽ペンが止まる。
真実という名の冷水が、神殿が用意した熱狂を瞬時に冷やしていく。
「勇者という名のブランド価値を維持するために、欠陥商品を仕入れ、奇跡と偽って国民に売却する。……これは会計上の不正を通り越し、国民に対する重大な背信行為です。アレクサンダー様、貴方の武勲は、もはや減価償却を終えた不良資産に等しい。……本日のこの演目、不合格とさせていただきます」
「貴様ぁ! 私の聖なる戦いを、そんな汚い数字で汚すな!」
激昂したアレクサンダーが、血走った目でエマに向かって剣先を突き出した。
しかし、その巨大な刃先は、エマの冷徹な瞳を微塵も揺らすことはできなかった。
「……数字は汚くありません。汚いのは、数字を誤魔化して己を飾り立てる、貴方のその帳簿です」
エマの宣告が広場に響き渡り、ヴォルフが柄に手を掛けた、その時。
不自然なほど静かだった廃村の空気が、突如として別の「重圧」を帯びて歪んだ。
エマの背筋に、氷のような戦慄が走る。
それは数字や法では説明のつかない、絶対的な「権威」という名の重力。
「……ふふ、あははは! 素晴らしいわ、ギルドの査定員さん。これほどまでに《《理性的》》な、作り話を聞かされるなんて!」
廃屋の影から現れたのは、銀鈴を転がすような、けれど致死量の毒を含んだ笑い声を響かせる一人の女性。
神殿広報官、カトリーヌ。
彼女の登場と共に、エマが築き上げた「理性の法廷」は、一瞬にして神殿が支配する別のルールへと塗り替えられようとしていた。
エマの計算機のような脳が、警鐘を鳴らし始める。目の前に現れたのは、数字で倒せる「三流の役者」ではない。数字そのものを無効化できる力を持った、「脚本の支配者」だった。
■査定員エマの業務日誌:今回の用語解説
【取得原価(仕入れ値)】
商品やサービスを販売するために、外部から購入した際の価格のことです。
英雄の価値は、本来、討伐した魔獣の希少性や危険度によって決まるべきものです。1,200ゴールドという低廉な価格で仕入れた魔獣を「命懸けの奇跡」として売る行為は、消費者(国民)に対する重大な背信行為です。自身の酒代よりも安い原価で名声を維持しようとする姿勢は、査定員として決して見逃せるものではありません。
【不良資産】
本来の価値を失い、利益を生み出すどころか損失を被る可能性の高い資産のことです。
牙や爪を抜かれ、薬漬けにされた「演出用の小道具」である魔獣を倒したところで、勇者アレクサンダーの「英雄」としての価値は一円も上がりません。むしろ、この不適切な実演が明るみに出れば、神殿全体の信頼を失墜させる巨大な不良資産へと変貌します。




