第46話:英雄の「仕入れ値」と、ゴミ箱の領収書
王都ルミナリスの地下深く。
王国の公的な地図から完全に抹消された未登録区画に存在する、投資家ビアンカの『隠れ家』。
外界の喧騒から物理的に遮断されたゲストルームで、エマ・ルミナスは手元の純白のナプキンに真鍮の万年筆を走らせていた。
国家予算という巨大な財布を失い、資金の底を突いた勇者パーティー『アヴァロン』。彼らが暴落しそうな自分たちの価値を維持するために、次にどのような「安上がりな偽装工作」を行うか。
その予測モデルの数式を、一ゴールドの狂いもなく書き終えた、まさにその時だった。
――カタッ。
部屋の天井付近にある換気ダクトの格子が音もなく外れ、灰色のポンチョを着た小柄な影が、身軽な動作で室内に降り立った。
王都のスラムの裏道を知り尽くした情報屋の少年、ルカだ。
彼のポンチョからは、スラム特有の饐えた匂いと、それに不釣り合いな甘ったるい高級酒の残香が混ざり合って漂っていた。
「さすがお姉さん、見事な計算通りだよ。……はい、これ。言われた通り、勇者様たちが滞在してる高級宿屋の『裏口のゴミ箱』から、極上の証拠品を漁ってきたぜ」
ルカは疲れたように肩をすくめながらも、その瞳には大きな獲物を仕留めた猟犬のような鋭い光を宿していた。
「英雄様の裏の顔を探るってのは骨が折れたよ。宿屋の裏手には神殿の息がかかった警備兵が立ってたけど、あいつら、英雄様の酒のおこぼれでベロベロに酔っ払っててザルだった。……おまけに、宿屋の窓からは魔法使いと戦士が、経費の割り当てで醜く怒鳴り合ってる声まで聞こえてきたぜ。完全に、沈みかけの泥船だね」
「……資金枯渇を起こした組織の、典型的な末期症状ですね。ご苦労様でした、ルカ」
エマの労いの言葉と共に、ルカが鼻をつまみながらテーブルの上に広げたのは、ワインの染みや食べカスが付着した、くしゃくしゃの紙屑の山だった。
壁際で大剣の手入れをしていたヴォルフが、思わず顔をしかめて鼻を覆う。
「……おいおい、ゴミ箱をそのままひっくり返してきたのか。いくらなんでも不潔すぎるだろ。お嬢様の目の前で広げるようなもんじゃねえぞ」
「ゴミ箱は嘘をつかないからね。表の帳簿をいくら綺麗に飾ったって、人間が生活している以上、必ず『端数』が裏口から捨てられる。エマの受け売りだけどさ」
エマは一切の躊躇なく、懐から真っ白な手袋を取り出して細い指にはめる。
そして専用のピンセットを使い、その不潔な紙片を一片ずつ、丁寧に伸ばして机に並べていった。
エマの灰青色の眼には、それが汚物には映っていない。
それは、英雄たちの偉大な魔法の痕跡よりも雄弁に真実を語る、物理的証拠の山だった。
「……これは昨夜の、王都で最も格式高い高級サロン『黄金の杯』の領収書ですね。一晩の貸し切りルームチャージと、東方大陸産のヴィンテージワインの空き瓶代。しめて35,000ゴールド。……最大のパトロンを失ったというのに、彼らの浪費癖は全く抜けていないようですね」
エマは、ワインの染みで文字が滲んだ領収書を冷たく見つめた。
「来るべき破産の恐怖から目を逸らすために、酒に逃げているのか。あるいは、自分たちだけは特別だという傲慢から、生活水準を下げるという経営判断ができないのか。……いずれにせよ、救いようのない不良債権です」
エマの指先が、数字を追うごとに冷酷な計算機のように正確さを増していく。
やがて、彼女の手がピタリと止まった。
「……こっちの紙切れが、本命だろ?」
ルカが指差した先には、高級サロンの豪奢な領収書とは不釣り合いな、あまりにも粗悪でざらついた羊皮紙の切れ端があった。
王都の正規の商人が使うものではない。裏社会で違法な魔獣売買を行っているブローカー特有の、血と泥の匂いが染み付いた薄汚れた請求書だ。
エマはピンセットでそれをつまみ上げ、瞳に氷のような理性の光を宿して、そこに記された「取引の明細」を読み上げる。
『――大型双頭熊(※牙抜き・爪切除済み)、および大型魔獣用睡眠薬一樽。……計1,200ゴールド』
『――納品先:王都郊外、東の廃村。明晩23時』
室内が、水を打ったように静まり返った。
暖炉の火の爆ぜる音だけが、不気味に響き渡る。
「……牙と爪をあらかじめ抜かれた見掛け倒しの熊と、大量の睡眠薬。……これが、彼らが明日の朝刊で華々しく語るであろう『命懸けの奇跡の討伐』の、真の《《仕入れ値》》です」
エマの声は、室内の温度を数度下げるほどに冷え切っていた。
「1,200ゴールドか。一晩の酒代のたった数分の一の予算で、英雄の肩書きが維持できる。……随分と、俺たちを舐め腐った投資だな。そんな安物のデカブツをなぶって、民衆の涙を誘うつもりかよ」
最前線で命を懸けて本物の魔獣と殺し合ってきたヴォルフが、呆れたように鼻を鳴らす。
オルトロス・ベアといえば、本来なら討伐に熟練の一個小隊が必要なランクBの危険魔獣だ。それをあらかじめ徹底的に無力化し、ただの「肉の塊」として斬り捨てる。戦士としての誇りすら捨て去ったその手口に、ルカもやれやれと肩をすくめた。
「英雄が強大な魔族を討ち漏らすよりも、ドブネズミのようなセコい《《横領》》をしている事実の方が、大衆の抱く偶像を確実に殺せます。……魔法の威力は数値化しにくいですが、領収書に書かれた数字に反論の余地はありません」
エマは請求書をテーブルに置き、冷徹な事実だけを淡々と述べた。
「一晩の快楽には35,000ゴールドを惜しげもなく支払いながら、自身の存在意義であるはずの『英雄の武勲』は、わずか1,200ゴールドで捏造する。……自身のブランド価値を維持するために、欠陥商品を仕入れ、それを命懸けの奇跡だと偽って民衆に売りつける。これは単なる見栄ではなく、国民の信仰心と税金を食い物にする、極めて悪質な粉飾決算です」
エマの手元で、真鍮の万年筆がカチリと冷たい音を立てて蓋を閉じる。
彼女は手元の懐中時計を開き、冷徹な死神のような顔で立ち上がった。
二日間の昏睡から目覚めたばかりの身体は、依然として死の淵を歩く者のような危うい透明感を湛えている。
それでも、彼女の背筋は定規で引いたように真っ直ぐに伸びていた。
「明晩23時、東の廃村へ向かいます。ヴォルフ、私を現地まで『担いで』運ぶための体力を温存しておいてください。現場までは徒歩で二時間の距離。私の貧弱な心肺機能では、途中で少なくとも二回は完全に機能停止する予定ですから」
「了解したよ。お前がその安っぽい領収書で英雄様の面皮を剥ぐまで、俺の肩は貸してやる」
ヴォルフは無造作に大剣を背負い、エマの背後に影のように控えた。
エマは、窓のない地下室の壁の向こう側――偽りの平和に酔いしれる王都の街並みを、冷たく見透かすように見据えた。
「彼らの三流芝居の舞台上で、その《《安すぎる原価》》を物理的に突きつけてやりましょう。……1ゴールドの狂いもない、真実の請求書として」
■査定員エマの業務日誌:今回の用語解説
【維持費用】
事業やシステムを維持するために、継続的に発生する費用のことです。
「勇者」というブランドは、強力な武器の修繕費、派手な魔法を使うための魔導触媒、そして民衆の支持を集めるための宣伝費など、莫大なランニングコストがかかる極めて燃費の悪いビジネスです。パトロンを失った彼らが、安価な自作自演に走るのは、経済学的に見て必然の帰結と言えます。
【物理的証拠(ゴミ箱の領収書)】
どれほど強大な魔法で真実を隠蔽しようとも、「カネを支払った」という物理的な決済記録(領収書)までは魔法で消すことはできません。
特に「ゴミ箱」は、人間の油断と生活の生々しい変数が最も無防備に捨てられる場所です。私にとって、燃えカスや紙屑の山は、どんな魔法の痕跡よりも雄弁に《《嘘の原価》》を語ってくれる最高の帳簿なのです。




