幕間4:休日の計算式と、ぼったくりの付加価値
王都ルミナリスの地下深く、投資家ビアンカの隠れ家。
防音魔法が施されたゲストルームの天蓋付きベッドで、エマ・ルミナスはゆっくりと灰青色の瞳を開いた。
視界のピントが合うまでに、ひどく時間がかかった。
極限の演算を終えた後の、燃えカスのようなどこか気怠い感覚が全身の筋肉にこびりついている。
天井に吊るされた豪奢なシャンデリアの輝きが、酷使した網膜をちかちかと刺激した。
「……現在時刻の開示を要求します。私の体内時計の、誤差修正が必要です」
エマが乾いた唇を開いて呟くと、ベッドの脇で愛剣の手入れをしていたヴォルフが、呆れたように長いため息をついた。
「午後 2 時 ちょうどだ。……お嬢様、お前丸 2 日間 も死んだように眠りこけてたんだぞ。呼吸が浅すぎて、 3 回 ほど生きてるか確認しちまったぜ。まあ、これだけ寝りゃあ少しは顔色もマシになるかと思ったが、相変わらず真っ白だな」
「 《《 48 時間 の強制休業》》 。……王宮地下で限界を超えて前借りした体力という名の『負債』を考えれば、妥当な返済期間ですね」
エマは分厚い毛布を押し除け、立ち上がろうとした。
しかし、二日間まったく動かしていなかった大腿四頭筋が極度のエネルギー不足を訴え、生まれたての子鹿のように膝が笑う。
ガクンと冷たい床に崩れ落ちそうになった瞬間、ヴォルフが首根っこを掴んでヒョイと持ち上げ、そのままリビングの豪奢なソファへと乱暴に「運搬」した。
「歩く前に燃料を入れろ、ポンコツ査定員。頭の数字が整っても、身体が動かなきゃ意味がねえだろうが。……ビアンカが、お前のためにとんでもねえ差し入れを用意して待ってるぜ」
リビングには、すでに芳醇な紅茶の香りが満ちていた。
黒いパンツスーツ姿のビアンカが、マホガニーのテーブルの向こう側で、長い脚を組みながら蠱惑的な笑みを浮かべている。
そして、彼女の目の前――テーブルの中央には、王室御用達の陶器に乗せられた、まるで宝石箱のような巨大なフルーツタルトが鎮座していた。
「おはよう、エマ。王都で一番予約が取れないパティスリー『ル・レーヴ』の特製タルトよ。国家を一つ不渡りに追い込んだお祝いとしては、少し可愛すぎたかしら?」
「……これは」
エマは銀縁眼鏡のブリッジを押し上げ、タルトを凝視した。
魔導解析眼は使っていない。だが、彼女の脳内で即座に職業病が発動した。
色鮮やかな果実とクリームが、一瞬にして冷徹な 原価の数値 へと置換されていく。
「…… 5 番街 の一等地における地代家賃、有名パティシエの拘束人件費、および鮮度を保つ魔法冷却庫の維持費。……トパーズ・チェリーの現在の市場価格が 100 グラム で 15 ゴールド 。小麦粉は先月の関税引き上げの影響を考慮して 1 キロ 4 ゴールド 。……バターの乳脂肪分から推測される原価、および焼き上げにかかる魔力燃料費……」
「おいエマ。食う前に数えるな」
ヴォルフのツッコミを完全に無視し、エマの灰青色の瞳が信じられないものを見るように細められた。
「……ビアンカさん。このタルトの販売価格は、推測ですが 5,000 ゴールド を下らないはずです。対して、純粋な材料費と加工費の合計は、高く見積もっても 600 ゴールド 。…… 《《 原価率 12 パーセント 以下 》》 。残りの 88 パーセント は『ブランド名』という実体のない付加価値です。……これは極めて悪質なぼったくりであり、経済的合理性が微塵もありません」
エマは真面目な顔で、タルトを指差して抗議した。
ビアンカは堪えきれないというように肩を揺らして笑い出し、ヴォルフは額を押さえて天を仰いだ。
「あのなあ……。要するに、ただのボッタクリって言いたいんだろうが、美味いものを食う時に原価を計算する奴があるか。作った職人の技術代だろうが」
「技術代を計上しても、利益率が高すぎます。この店の財務諸表を監査すれば、確実に 《《 脱税用の隠し口座 》》 が見つかるはずです」
ぶつぶつと文句を言い続けるエマの口に、ヴォルフが切り分けたタルトをフォークで強引に突っ込んだ。
「んぐっ……!? ……む、……もぐ、もぐ……」
「どうだ。 5,000 ゴールド の味は」
「……悔しいですが、非常に美味しいです。糖分の吸収効率が極めて高い。……良質な甘味が脳の底まで浸透し、私の不満という変数を強引にゼロに書き換えていきます……。計算が……甘味の暴力によって阻害されます……」
エマは不本意そうに眉を寄せながらも、両手でフォークを握りしめ、リスのように猛烈な勢いでタルトを咀嚼し始めた。
その幸せそうな、年相応の少女の顔を見て、ビアンカは優雅に紅茶を啜った。
「貴女のその『可愛げのなさ』は、もはや一つの才能ね。……でも、貴女の計算通り、王都の経済は今、このタルトのように甘くはないわよ」
「……財務卿失脚の影響ですね。市場の反応はどうなっていますか」
エマは 2 切れ目 のタルトを口に運びながら、すぐに査定員の顔に戻る。
「パニックよ。財務卿という巨大な財布が消えたことで、彼に群がっていたダミー会社や貴族たちの株が、一斉に暴落しているわ。特務騎士団の解体によって、王都の防衛関連銘柄も大暴落。私は昨日から空売りを仕掛けて、 《《 3,000,000 ゴールド 》》 ほど儲けさせてもらったけれど」
「流石です。他者の危機は最大の投資機会ですからね」
エマは紅茶で口の中の甘味を洗い流し、真鍮の万年筆を取り出して手元のナプキンに図式を描き始めた。
「魔導炉からの魔力供給と、裏金のルートが断たれた。これで最も困窮しているのは、間違いなく 《《 勇者パーティー『アヴァロン』 》》 です。彼らはこれまで、財務卿の莫大な資金を背景に、強大な魔獣を仕入れたり、大規模な魔法を乱発したりして『派手な奇跡』を演出してきました」
「……なるほどな。パトロンを失った英雄様が、人気を維持するために次にとる行動は一つか」
ヴォルフが腕を組み、不敵に笑う。エマは頷いた。
「ええ。これまでは巨大な飛竜などを倒していたかもしれませんが、今の彼にはその『仕入れ値』が払えません。近いうちに、王都近郊で『不自然なほど弱く、かつ見栄えのいい安物の魔獣』が都合よく現れ、彼がそれを倒すはずです。たとえば、毒を持たないが派手な色をした大型の爬虫類などに、凶暴化の薬を打って放つなどですね」
エマの万年筆が、ナプキンの上に不正な資金の流れを示す矢印を書き込んでいく。
「私たちは、その『自作自演の領収書』を拾い集めるのです。彼がどこで魔獣を買い、どこで接待費を使い込んでいるのか。魔法の撃ち合いではなく、 《《 帳簿の不一致 》》 で彼の信用をゼロに叩き落とします」
「みみっちい英雄だな。だが、お前がゴミ箱漁りなんて泥臭いことができるのか? 重い蓋を持ち上げるだけで息切れするくせに」
「私には無理です。ですが、私にはそのための 《《 専門の資産 》》 がいますから」
エマがそう言った直後。
隠れ家の重厚な扉から、ドンドンッ、と遠慮のないノックの音が響いた。
「――ちょっと! いつまで寝てるのよ、エマ! せっかくお姉さんが、田舎から最高のお土産を持ってきてあげたっていうのに!」
「エマ姉さん、開けてよ! セラ姉さんが道中の馬車で豪遊しすぎて、俺が立て替えた旅費の精算をしてほしいんだけど!」
扉の向こうから聞こえてきた、騒々しくも懐かしい二つの声。
エマは万年筆を置き、 3 日 ぶりに、ほんの僅かだけ口角を上げた。
「……どうやら、私の計算に狂いはなかったようですね。ヴォルフ、扉を開けてください。我がルミナス監査チームの、賑やかな 《《 追加資産 》》 の到着です」
■査定員エマの業務日誌:今回の用語解説
【 強制休業 】
生命活動を最低限に落とし、脳の疲労を回復させるための睡眠状態。私の場合は 48 時間 の連続休業となりましたが、これは王宮地下で限界を超えて前借りした体力という「負債」に対する正当な返済であり、決して怠惰ではありません。
【 付加価値 】
商品の原価に上乗せされる、ブランド力や技術料などの見えない価値。パティシエの技術を評価するにしても、原価率 12 パーセント は市場の健全な競争原理を歪める暴利です。とはいえ、私の脳細胞はこの暴力的な糖分供給を絶賛していましたが。
【 専門の資産 】
私には不可能な「大人の交渉」や「ゴミ箱漁り」を遂行できる、セラ先輩とルカのことです。彼らの到着により、私たちの監査能力は物理的にも情報的にも、飛躍的な相乗効果を生み出すことになります。




