幕間3:辺境の狂乱と、賢姉の資産保護
辺境の工業都市、シュタールの朝は、いつだって鉄の軋む音と排煙の重苦しい臭いで始まる。
空を覆う鈍色の雲から降り注ぐのは、煤混じりの湿った空気。
だが、今日のシュタール中央市場を支配していたのは、そんな日常の倦怠を吹き飛ばす、底知れぬ《《恐慌》》の熱気だった。
「――ふざけるな! 黒パン 1 個 が 《《 45 ゴールド 》》 だと!? 昨日の朝は 5 ゴールド だったじゃねえか! ぼったくるのも大概にしろ!」
「こっちだって好きで値上げしてるわけじゃねえ! 王都の中央銀行が支払いを停止したって号外が出たんだ! ギルドの発行した保証証書なんて、今はただの《《ゴミ同然の紙切れ》》なんだよ!」
怒り狂う工場労働者と、涙目でカウンターを叩き、怒鳴り返すパン屋の店主。
殺気立った群衆が、少しでも実体のある「現物」を求めて、泥にまみれた市場を右往左往している。
数字という信頼が崩壊した瞬間、平和だった街は瞬く間に剥き出しの野蛮へと変貌を遂げていた。
その光景を、灰色のポンチョを深く被った情報屋の少年――ルカは、路地裏の木箱の上にしゃがみ込みながら、冷めた目で眺めていた。
「……王都の銀行が機能停止。それに伴う極端な信用収縮と、急激な物価の高騰か。……あの堅物で無茶苦茶な査定員のお姉さん、とうとう《《国ごとぶっ壊しやがったな》》」
ルカは懐から、今朝配られたばかりの号外新聞を取り出した。
湿った紙面には、『王都大混乱! 財務卿失脚か!?』という巨大な見出しが踊っている。
記事の断片によれば、王都の現貨が完全に枯渇し、国家の心臓部である魔導炉が停止した影響で、勇者アレクサンダーの魔法すら不発に終わったという噂まで飛び交っているらしい。
ルカは、かつてエマが「数字に慈悲は含まれない」と言い放った時の、あの氷のように冷たい瞳を思い出していた。
「こりゃ、のんびりパンを齧ってる場合じゃないな。あの『死神』の背中を追っかけてる連中が、この街で大人しくしてるわけがない」
ルカは身を翻し、パニックに陥る群衆の波を、魚のように器用に縫う。
目指す先は、この混乱の元凶とも言える少女の「巣」――王立保険ギルド・シュタール支部だった。
* * *
シュタール支部の中は、外の市場以上の地獄絵図と化していた。
支部長オズワルドがエマによって連行され、事実上の「頭を失った蛇」と化したこの支部は、まさに崩壊寸前だった。
預金の引き出しと保険金の即時支払いを求める市民たちがロビーに殺到し、数少ない窓口の事務官たちが、枯れた声を絞り出して悲鳴を上げている。
だが、そんな阿鼻叫喚の 1 階 フロアを抜け、ルカが換気口のダクトからこっそりと忍び込んだ 2 階 の『主任査定員室』には、それらとは無縁の、信じられないほど優雅な香りが漂っていた。
「……あら、ルカ君。奇遇ね。ちょうど 《《 15 時 のお茶》》 を淹れたところよ。飲む?」
緩やかに波打つ赤毛をポニーテールにまとめた女――セラフィナは、ギルドの制服の胸元をだらしなく開けたまま、革張りのソファで最高級のダージリンティーを啜っていた。
窓の外からは「金を出せ!」という暴徒の怒号が響いているというのに、彼女のテーブルには、優雅な三段のケーキスタンドまで用意されている。
「……セラ姉さん。あんた、自分の職場が今まさに《《物理的に燃えそう》》だってわかってる?」
「ええ、もちろん。私の部下たちが、今まさに普段の 3 倍 のストレスを抱えながら、懸命に対応してくれているわ」
セラは悪びれもせず、陶器のような白い指先でマカロンを摘み上げ、その小さな端を上品に齧った。
「でも、今の私にできることは何もないのよ。権限を持っていたオズワルド支部長は不在。本部からの指示も通信網のダウンで途絶。……こういう時は、 《《 8 割 の力で休んで》》 、残りの 2 割 で『次の一手』を考えるのが、優秀な大人の働き方というものよ」
「……要するに、面倒ごとを全部部下に押し付けてサボってるだけだろ、それ」
「人聞きの悪い翻訳をしないでちょうだい。私はこれでも、情報を整理しているのよ」
ルカは呆れながらも、テーブルの上のスコーンを一つ失敬してかじりついた。バターの濃厚な香りが口の中に広がり、ようやく空腹が少しだけ紛れる。
「で? 王都の『不渡り騒ぎ』……あれ、エマ姉さんの仕業だろ?」
「ええ、間違いなくあの子の仕業ね。財務卿の資金源を物理的に断つなんて、いかにもあの子らしい、可愛気のない盤外戦術だわ」
セラは楽しそうにクスクスと笑うと、ティーカップを置き、ゆっくりと立ち上がった。
その瞬間、彼女の瞳から「気怠い大人の女」の空気が霧散し、ギルドの裏側を知り尽くした「主任査定員」としての、鋭利な光が宿る。
「ルカ君。貴方に依頼があるわ。……これから、私と一緒に《《王都》》へ行きなさい」
「は? 王都へ? 今からあんな火薬庫みたいな場所に行くのかよ」
「ええ。エマが財務卿を倒したということは、次にあの子が狙うのは、間違いなく《《勇者パーティー『アヴァロン』》》よ。……でも、あの子は真面目すぎるから、王都の綺麗な帳簿しか見ていないはず」
セラはデスクの引き出しを乱暴に開け、そこから 1 冊 の分厚い、黒革の帳簿を取り出してテーブルに叩きつけた。
「オズワルドの隠し金庫から、どさくさに紛れて回収しておいたわ。……勇者たちが過去 5 年間 に、この辺境で消費した『不自然な接待費』と、安物の魔獣を仕入れた《《『裏業者の領収書』》》の束よ。あの子が勇者の首を絞めるための、最高のプレゼントになると思わない?」
ルカは思わず息を呑んだ。
それは、王国の守護者という絶対的な偶像を、ただの「借金まみれの詐欺師」へと引きずり下ろす、最悪の爆弾そのものだったからだ。
「……なるほどね。証拠は揃ってるってわけだ。でもセラ姉さん、王都までの旅費はどうするんだよ? 今、馬車の手配だけでも普段の 10 倍 の金を取られるぜ」
「あら、心配ご無用よ。私は今、このシュタール支部で《《最も権限を持つ人間》》なの。……つまり、支部の『緊急予算』を動かす権利があるのよ」
セラは蠱惑的なウインクをして見せると、部屋の奥にある重厚な金庫へと歩み寄った。
そして、自分の魔力印を躊躇いなく押し当て、本来なら厳格な三重の手続きが必要なはずの扉を、呼吸をするようにあっさりと開け放つ。
「さあ、ルカ君。手伝いなさい。この金塊と現金、とりあえず鞄に入るだけ詰め込んでちょうだい」
「……いやいやいや! 姉さん、それ《《ただの横領》》だろ! 犯罪だよ!」
ルカが慌てて止めるが、セラは鼻歌交じりに、黄金に輝く延べ棒を次々と大きめの革鞄へと放り込んでいく。
「失礼ね。これは暴徒からギルドの資産を守るための 《《 『一時的な資産保護』 》》 よ。主任査定員としての、極めて適法な判断に基づく防衛措置です」
「……エマ姉さんより、あんたの方がよっぽど悪党だよ……」
ルカは深くため息をつきながらも、指先に残るスコーンの屑を払い、手慣れた動作で現金の束を自分のポンチョの裏ポケットへと滑り込ませた。
こういう時の大人の「便利な言葉」に乗っかる方が、スラムで生きる孤児の生存戦略としては正しいのだ。
「フフッ、これで準備完了ね。エマの冷たい数式に、私たちが集めた 《《 泥臭い変数 》》 を足してあげましょう。……さあ、王都への出張よ。仕事は 2 割 、残りの 8 割 は、あの可愛げのない後輩の驚く顔を楽しむためのバカンスね」
混乱の極みにあるシュタール支部を尻目に、ギルドの賢姉とスラムの情報屋は、莫大な「保護資産」と勇者の「領収書」を抱え、意気揚々と王都行きの馬車に乗り込むのだった。
■ 主任査定員セラの(非公式)業務日誌:今回の用語解説
【 信用収縮 】
金融機関が貸し渋りを起こし、市場に出回るお金が極端に減ること。
王都で起きた不渡りの噂だけで、シュタールの黒パンの値段が 《《 9 倍 》》 に跳ね上がったわ。経済って、魔法よりもずっと人々の心理に素直に反応するのよ。
【 接待費と領収書 】
勇者アレクサンダーが「討伐の打ち上げ」と称して高級店で使い込んだ莫大な経費の記録。
英雄の伝説も、裏を返せばただの「無駄遣いの山」よ。エマの定規で、あの見栄っ張りな勇者の経費をどこまで削り落とすか、今から見物だわ。
【 一時的な資産保護 】
暴動などの緊急時に、資産の価値下落や略奪を防ぐために安全な場所へ資金を移すこと。
今回は「暴徒に奪われるくらいなら私が預かっておくわ」という、極めて個人的な解釈による《《金庫の持ち出し(物理)》》よ。エマが見たら確実に始末書を書かされるわね。




