第45話:倒産処理と、見えざる連帯保証人
白亜の王宮、その地下深く。
国家の真の心臓部であった巨大な魔導炉が完全に沈黙したその空間には、耳鳴りがするほどの重く冷たい静寂が降り積もっていた。
先ほどまで空間を満たしていた過剰な熱気と、搾取された生命力が燃やされた際の焦げた匂いがゆっくりと薄れ、代わりに地下特有の冷たく湿った石の匂いが場を支配していく。
「……私の、 20 年 が。この国を完璧に統治してきた、美しい計算式が……」
崩れ落ちた財務卿ヴァレリウスは、光を失った操作盤の前に膝をつき、うわ言のように同じ言葉を呟き続けていた。
かつて彼が纏っていた絶対的な威光は、もはや見る影もない。現貨という裏付けを失い、最大の武力であった特務騎士たちに見捨てられた彼は、今や莫大な負債と法的責任を抱え込んだ、ただの惨めな老人に過ぎなかった。
「終わったな」
黒鉄の大剣を背負い直したヴォルフが、冷たく言い捨てる。
「どんなに偉そうな御託を並べても、金庫が空になれば《《すべては破綻する》》んだ。魔法だろうが権力だろうが、最後は一番生々しい『生活の金』に負ける。……それが、この世の絶対的なルールだからな」
その言葉を背に受けながら、エマ・ルミナスは床にへたり込んでいる特務騎士たちのリーダー――先ほど、家族の生活のために剣を捨て、主を見限った初老の男の元へ、コツ、コツ、と静かな足音を立てて歩み寄った。
エマの魔導式解析眼は冷却状態へと移行していたが、彼女の目には依然として、騎士たちの抱える絶望の深さが、確かな数値として見えていた。
「……査定員殿。我々は、これからどうなる」
初老の騎士は、純粋な疲労と恐怖の入り混じった声で問うた。 142 回 まで跳ね上がっていた彼の心拍数は、今や弱々しく打ち震えている。
「雇い主を見捨てた我々に、もはや騎士としての未来はないだろう。未払いの給料も、当然紙屑になる。……私個人が極刑に処されるのは構わない。だが、どうか、家族だけは……何の罪もない娘だけは、路頭に迷わせないでいただきたい。彼女の命を繋ぐだけの金が、我々にはもう残っていないのです」
それは、国家の闇を暴力で支えてきた悪党の言葉ではなく、ただその日のパンを稼ぐ父親としての、あまりにも悲痛な祈りだった。
エマは銀縁眼鏡のブリッジを 2 ミリ 押し上げ、感情の読めない灰青色の瞳を騎士に向けた。
「……貴方たちは、一つ計算違いをしています」
エマは真鍮の万年筆を抜き、報告書の一枚にサラサラと新たな数式を書き込み、それを初老の騎士へと差し出した。
「な、これは……?」
「先ほど差し押さえた、財務卿ヴァレリウスの隠し口座とダミー会社の資産目録です。……この組織は本日をもって完全に崩壊しましたが、清算された財産は、法律に基づき優先順位に従って債権者へ配当されます。そして、いかなる場合においても、労働者に対する未払い給与と退職金は、他のすべての負債よりも《《最優先で保護されるべき正当な権利》》です」
騎士が、震える手でその書類を受け取る。
そこには、彼ら特務騎士 12 名 全員の未払い給与と、解雇に伴う 25 パーセント の割増退職金が、 1 ゴールド の誤差もなく正確に計算され、支払いが保証される旨が記されていた。
「私は保険ギルドの監査官であり、査定員です」
エマの声は冷たかったが、そこには確かな『法』の温度があった。
「不正な利益は強制的な清算によって没収しますが、正当な労働の対価まで踏み倒すような、三流の略奪は行いません。……この書類を持って、地上の銀行窓口へ行きなさい。財務卿の個人資産から現金が補填され、明日には貴方たちの口座に全額が振り込まれるはずです」
「……あ、ああ……!」
初老の騎士の目から、大粒の涙が溢れ落ちた。
彼は石の床に額を擦り付けるようにして、深く、深く頭を下げた。他の騎士たちもまた、武器を捨てた手で顔を覆い、静かに咽び泣き始めた。
部屋の隅でその光景を見ていたアリアは、胸の奥が締め付けられるような衝撃を受けていた。
かつて彼女が聖女候補として学んだ奇跡や祈りでは、誰の腹も満たすことはできなかった。しかし目の前の華奢な少女は、魔法でも祈りでもなく、ただ冷徹に「数字を正す」ことによって、数十人の男たちの命と、その家族の明日の生活を救済してみせたのだ。
「……本当に、割に合わない生き方ね、貴女って」
アリアは小さく息を吐き、長年の呪縛から解き放たれたような、清々しい笑みを浮かべた。
* * *
数時間後。夜が明け、白亜の王都ルミナリスに冷たい朝日が差し込む頃。
王立中央銀行の窓口を占拠していた暴動は、嘘のように鎮火していた。
ギルド本部の監査総局長代行エレナが正規騎士団を率いて事態の収拾に動き、エマが作成した報告書に基づき、「財務卿ヴァレリウスの不正蓄財を全額没収し、直ちに銀行の金庫に充てる」という公式声明を発表したためだ。莫大な現金が補充されたと分かった瞬間、市民のパニックは急速に沈静化した。
「……しめて、 6,000,000 ゴールド 。元本にきっちり 20 パーセント の利息が乗っているわ。間違いなく精算を確認したわよ、エマ」
銀行から少し離れた、高級ホテルのスイートルーム。
ビアンカは、テーブルの上に積まれた小切手の束を細い指で弾きながら、静かに細い葉巻をくゆらせた。
「妥当な取引でした。貴女の桁外れな資金投下がなければ、財務卿の物理的な護衛網を内側から崩壊させることは不可能でしたから」
エマは、ヴォルフから供給されたマカロンを、事務的なペースで咀嚼していた。アーモンドの脂質と精製された粗糖が、限界に達していた彼女の脳細胞を 12 パーセント ほど回復させていた。
「これで、貴女との間の『初期投資分』は完全に回収されたという認識で相違ありませんね?」
「ええ。でも、貴女のその恐ろしく正確な頭脳への投資は、これからも続けさせてもらうわ。……いつでも声を掛けなさい、私専属の優秀な査定員」
ビアンカは薄く、刃物のような笑みを浮かべると、余計な言葉は一切残さず、静かに部屋を立ち去っていった。
「さて、と。金庫番の親玉は失脚し、莫大な負債も返し終わった。これで王都の帳簿は綺麗になったってわけだ」
ヴォルフが窓枠に腰掛け、眼下の平和を取り戻した街並みを見下ろしながら首を鳴らす。
「長かったな、エマ。これでようやく、お前の親父さんの無念も晴れ――」
「いいえ。まだです」
エマの鋭い声が、室内の空気を一瞬で凍結させた。
振り向くと、彼女の傍らで、バルカ名誉教授がひどく重苦しい顔つきで一枚の羊皮紙を広げていた。それは、王宮地下の魔導炉から回収された『基本設計図』だった。
「……お前さんの言う通りだ、エマ」
バルカがボサボサの白髪を掻きむしり、呻くように言った。
「あの財務卿ヴァレリウスは、あくまで炉を運用していた現場の責任者に過ぎない。この国家規模の魔導炉の根幹構造……生命保険の魔力パスを悪用したこの悪魔的な数式は、一国の財務卿の手に負える理論じゃない。……見ろ、この『承認印』の跡を」
バルカの指先が、設計図の右下を指し示した。
そこには、財務卿の印を上書きするように、魔導インクが白く弾け飛んだような、不自然な円形の空白があった。
「……これは、ただの空欄ではありません。財務卿という国家の最高責任者すら『下位階層』として扱い、その署名を無効化してまで強制承認を下した《《上書き抹消》》の痕跡です」
エマの魔導式解析眼が、その「空白」に残留する、極めて微細な魔力の指向性を捉えた。
「本来、国の予算執行にこれ以上の『上』は存在しません。……ですが、この空白に残る波動は、この保険網そのものを組み上げた『設計主』にしか許されない、絶対的な権限の残滓です」
エマは、その白抜きの跡を透視するように、銀縁眼鏡の奥の瞳を細めた。
「ギルドの深淵に潜む者が、王国の最高決定権すらも私物化している可能性がある。……財務卿は、ただの窓口に過ぎませんでした。このシステムを国家の法として正当化し、運用を許可した『真のオーナー』が、厚い霧の向こうに隠れています」
「そいつが、親父さんを消した張本人か?」
ヴォルフの問いに、エマは答えず、魔導炉から伸びる無数の魔力回路の『送金先』を冷徹に睨みつけた。
「……今は、その影を追うための『実弾(証拠)』が足りません。ですが、この炉から吸い上げられた莫大な魔力の費消先は確定しました。財務卿が自らの命を削ってまで維持し、国民の寿命を燃やしてまで守ろうとした、最大級のバグ――」
エマは、地下の静寂の向こう、地上で今もなお「英雄」として謳われている者の影を見つめた。
「勇者アレクサンダー。 彼が『奇跡』という名の不当な利益(魔力)を消費し続けている限り、この国の帳簿は永久に合いません。……影の主へ辿り着くための、唯一のマネートレール。まずはその『盾』を解体する必要があります」
エマは真鍮の万年筆を握り締め、顔を上げた。
「次の査定対象を、勇者パーティー『アヴァロン』に設定します。……王国の偶像を、1ゴールドの価値もない《《紙屑》》へと精算させていただきます」
「ああ、わかってるよ。……お前が数える敵は、一人残らず俺が叩き伏せてやる。剣だろうが法律だろうが、お前のペンを折らせるわけにはいかねえからな」
止まっていた時計の針は、今、より巨大な不正の清算へと向かって加速を始めた。
■ 査定員エマの業務日誌:今回の用語解説
【最優先で保護されるべき権利】
組織が崩壊した際、経営者の負債よりも優先して支払われなければならない労働者の債権です。特務騎士たちの未払い給与がこれに該当します。悪事の首謀者を罰することは当然ですが、末端で働く者たちの正当な労働の対価まで没収することは、私の信じる計算式に反します。
【連帯保証人】
主債務者が支払い不能に陥った際、代わって全額を支払う義務を負う存在です。財務卿はあくまで運用の窓口に過ぎず、市民の生命保険を悪用したこの巨大な搾取システムを構築した『真の設計者』こそが、最終的な支払い義務を負うべき最大の対象となります。
【マカロン】
ヴォルフから供給された洋菓子です。アーモンドの脂質と粗糖が、私の限界に達した脳細胞の回復時間を短縮してくれます。味覚の評価も悪くありませんが、あくまで演算能力を維持するための燃料に過ぎません。
【生命保険の悪用】
生命保険は本来、不測の事態に備えて顧客の命の価値を金銭的に保障する契約です。しかし真の黒幕は、生存確認のために繋がれた魔力パスを利用し、顧客の命そのものを燃料として吸い上げていました。保険機構の根幹を揺るがす、決して許されざる重大な規約違反です。




