第48話:聖者の暗号と、不透明な聖別金
王都ルミナリス郊外、東の廃村。
エマ・ルミナスが冷酷に突きつけた「1,200ゴールド」という取得原価。その無機質な数字が、勇者アレクサンダーが数ヶ月かけて築き上げてきた『聖なる戦い』という名の資産価値を、一瞬にしてスクラップへと変えた直後のことだった。
広場を包んでいた魔導ランプの光が、不自然なほど冷たく波打った。
廃屋の影から現れた一人の女性。神殿広報官、カトリーヌ。
彼女が優雅に石畳を踏みしめるたび、周囲の空気が粘り気を帯び、エマが構築した「理性の法廷」が、神殿が支配する別のルールへと強制的に書き換えられていく。
「……ふふ、あははは! 素晴らしいわ、ギルドの査定員さん。これほどまでに《《理性的》》な、作り話を聞かされるなんて!」
カトリーヌは銀鈴を転がすような笑い声を響かせながら、エマの手元にある領収書を、まるで路傍の汚物でも見るかのような眼差しで一瞥した。
「カトリーヌ様、聞いてください! この女、私の、神殿の神聖なる儀式を汚泥に塗れた数字で汚し……!」
喚き散らすアレクサンダーを、カトリーヌは視線すら向けずに手で制した。
彼女の関心は、目の前で漆黒の外套を纏い、毅然と立つ灰青色の瞳の会計士にのみ向けられていた。
現在時刻、深夜23時15分。
「カトリーヌ広報官。……数字は作り話ではありません。この領収書は、王都の裏市場で決済された事実の写しです。神殿がこの安物の魔獣を『奇跡の対象』として仕入れた事実は、不適切な予算運用、ひいては信者に対する重大な不誠実報告に当たります」
エマの声は、廃村の夜気よりも冷たく響く。
しかし、カトリーヌの笑みは微塵も崩れない。それどころか、憐れむような表情を浮かべてエマとの距離を詰めた。
「エマ・ルミナスさん。貴方は一つ、致命的な計算違いをしていますわ。……神殿において、価値を決めるのは帳簿ではありません。それは『信仰』であり、神の代弁者である私たちの『脚本』ですの」
カトリーヌが、長く美しい指先でパチンと音を鳴らした。
その瞬間、広場の四隅に控えていた神殿騎士たちが一斉に大盾を構え、魔導杖を地面に突き立てる。
「……あ。魔力の波形が、物理的な斥力へと変換されている……?」
エマの脳内演算が、けたたましい警鐘を鳴らす。
騎士たちの杖から放たれた透き通った淡い光の障壁が、エマとヴォルフを強引に広場の外へと押し戻し始めたのだ。
「ここから先は、神殿が管理する『不可侵領域』……《《聖域》》です。王国の法も、ギルドの監査権も、この光の内側には一歩たりとも立ち入ることはできませんわ」
「不可侵領域……。法的な監査権を、物理的な結界で上書きするというのですか。それは明白な監査拒絶です! ギルドの基本規約、第12条第3項によれば――」
「規約? ああ、そんな薄汚れた紙切れに何の意味があるのかしら。ここでは私たちの言葉こそが唯一の真実。アレクサンダーの剣が魔獣を討てば、それが1,200ゴールドであろうと1,200万ゴールドであろうと、民衆は涙し、神殿に祈りを捧げる。……貴方の数字は、この神聖な奇跡を前にはただの『ノイズ』に成り下がるのですわ」
カトリーヌが冷酷に宣告すると同時、障壁は巨大な光の壁となり、エマたちの目の前で廃村の中央広場を完全に隔離した。
どれほど正しい数式を導き出しても、権力という名の「ブラックボックス」がそれを無効と定義してしまえば、監査は成立しない。
物理的な拒絶という、会計士の人生で最も原始的で、最も厄介な「エラー」。それがエマの計算を、最悪の形で強制終了させた。
* * *
外では、いつの間にか冷たい雨が降り始めていた。
王都の冬の雨は、不純物をすべて削ぎ落とすような刺すような冷たさで、エマたちの外套を容赦なく濡らし、ただでさえ少ない体温を奪っていく。
現在時刻、午前1時30分。
廃村から王都へと戻る泥道。
二日間の昏睡明けであるエマの体力はとうに限界を迎えており、今はヴォルフの広い背中に負ぶわれる形で、辛うじて移動を続けていた。ルカは背後で神殿騎士の追撃を警戒し、闇に溶けながらしんがりを務めている。
エマの指先は、悔しさからか、それとも極限の演算を強制終了させられた反動か、小刻みに震えている。
銀縁眼鏡の奥の瞳は、雨粒に濡れながらも、先ほどカトリーヌが展開した「拒絶の壁」を焼き付けるように見つめたままだった。
「……クソったれな壁だ。物理的にブチ壊す方が、よっぽど早かったんじゃねえか。お前が命を削って拾ってきた証拠が、あんな女の薄っぺらい言葉一つで踏み潰されて終わりだなんてな」
ヴォルフが吐き捨てるように言った。その琥珀色の瞳には、守るべき主の《《正しさ》》が無残に否定されたことへの苛立ちが滲んでいる。
「……いいえ、ヴォルフ。あれで十分です。神殿が監査を拒絶し、『不可侵領域』という極端な手段に打って出たこと自体が、彼らの帳簿に致命的な汚損があることの証明。……あのような不透明な箱の存在を、私は決して許しません」
エマの声は掠れ、息も絶え絶えだったが、その芯には決して折れない知性の炎が灯っていた。
一三歳の冬、父エドワード・ルミナスを理不尽に奪ったあの「不条理な決算」の記憶が、今この冷たい雨音の中で鮮明に蘇る。
「カトリーヌが聖域の壁に逃げ込んだのなら……その壁の内側を、直接暴きに行くだけです。外からの監査が阻まれるなら、次は内部から計上を行います。……数字が届かない場所など、この世界には存在しないことを、私が証明してみせます」
雨脚は強まり、王都の街並みを灰色に塗り潰していく。
敗北の泥を啜りながらも、一行は地下の隠れ家へと急いだ。
■査定員エマの業務日誌:今回の用語解説
【不可侵領域(聖域)】
法律や監査の目が届かない、特定の権威によって保護された「ブラックボックス」です。
カトリーヌはこの概念を盾に、自身の帳簿に対するあらゆる追求を物理的にシャットアウトしました。どんなに正しい数式であっても、代入する場所そのものを封鎖されては答えを出せません。……極めて非合理的で、卑怯な経営戦略です。
【不透明な資産】
帳簿上には記載されていない、あるいは実態が隠蔽された資産のことです。
カトリーヌが聖域の壁で守ろうとしたものは、単なる秘密ではなく、法的な追及を免れるために外出しされた「汚れた資産」の集合体です。これを発見・計上するためには、通常の監査プロセスではない「侵入」という強硬な手段が必要となります。
【ミスステイトメント】
1,200ゴールドの魔獣を「奇跡」として発表する行為は、寄付金を募る組織として致命的な不実表示に当たります。これはもはや会計上のエラーではなく、社会的な信頼を担保に取った詐欺行為に他なりません。




