第41話:五百万の支払請求書と、偏屈な名誉教授
王都ルミナリスの地下深く。
張り巡らされた旧下水道のさらに奥、王国の公的な地図から完全に抹消された未登録区画を改装して作られたビアンカの『隠れ家』は、地上で荒れ狂う国家への反逆の喧騒が嘘のように、冷たい静寂と最高級の調度品に満ちていた。
壁面に埋め込まれた魔導ランプが、 450 ナノメートル 周期の無機質な青白い光を落とし、室内の陰影を鋭利な刃物のように切り出している。
シュッ、と。
薄暗い室内に、マッチを擦る微かな音が響いた。
豪奢なアンティークソファに深く腰掛けた女――王都の裏経済を牛耳る投資家、ビアンカは、仕立ての良い漆黒のパンツスーツに身を包み、細い葉巻に火を点けた。
紫煙がゆっくりと立ち昇り、彼女の感情の読めない漆黒の瞳を薄いヴェールで覆う。
彼女は一切の無駄な動作を排した手つきで、一枚の厚い羊皮紙をテーブルの対岸へ向けて無造作に滑らせた。
「……しめて、 5,000,000 ゴールド 。王都の防衛結界の管理権を偽りの名義経由で一時的に買い取り、強引に穴を開けた空間買収費の総額よ。詳細な内訳はそこに記してある。利息は日歩で計算させてもらうわ、エマ」
ひどく冷たく、純粋に数字の動きだけを追う事務的な声だった。
その桁外れの数値を耳にして、壁際で大剣にこびりついた魔力の残滓を布で拭いていたヴォルフが、派手にむせ返った。
「ご、五百万だと!? おい、ふざけるな。俺が一生監獄でタダ働きしても返せねえ額だぞ。辺境の村なら 3 つ は丸ごと買い叩けるじゃねえか」
「安心してください、ヴォルフ。これは私たち個人の負債ではなく、これからの事業に対する《《初期の投資》》です」
ふかふかのソファに深く沈み込み、首まで分厚い毛布に包まったエマ・ルミナスが、死人のような顔色のままホットミルクを啜って答えた。
魔導式解析眼を限界まで酷使した彼女の体温は 34.2 度 まで低下しており、現在はただの「極度に知能が高い雪だるま」のような状態になっている。カップを持つ白い指先は、 5 ヘルツ の微かな震えを帯びていた。
「財務卿ヴァレリウスの隠し資産を完全に差し押さえた暁には、元本に 20 パーセント の上乗せ益を乗せて返済します。……投資案件としては、極めて妥当な収益の見込みでしょう、ビアンカさん」
「……ふん。悪くない数字ね」
ビアンカは短く息を吐き、静かに葉巻の灰をクリスタルの灰皿に落とした。彼女の視線は、震える手でミルクを飲むエマに向けられている。
「感情は相場を鈍らせるけれど……貴女のその冷たくて正確な頭脳への投資だけは、どうにもやめられないわ。……で、そっちの監査官殿はどうしたのかしら」
ビアンカが目を向けた先では、アリアがすっかり生気を失い、出された最高級のビスケットにも手をつけていなかった。監査官として王都の法と秩序を守ってきた彼女にとって、現在の「 5,000,000 ゴールド の借金を背負った指名手配犯」という立場は、到底受け入れがたい《《計算上の不備》》だった。
「……終わったわ。私、秩序を守る側の人間だったのに。明日の新聞には私の顔が極悪人として載るのね……」
「アリアさん。過去の経歴への《《感傷》》は、 1 ゴールド の利益も生みません。今は未来の収益の配分に焦点を合わせてください」
エマがホットミルクのカップをコトリと置いた瞬間、彼女の視界が急速に狭まり、脳内演算が低血糖による停止を起こしかけた。それを見逃さず、ヴォルフが事務的な動作で彼女の口元へ手を伸ばす。彼は震えるエマの肩を大きな手で物理的に固定し、支柱のように支えた。
「補給だ。……最高級のバターを練り込んだビスケットだ。 5 秒 で咀嚼しろ」
「……感謝、します」
エマは無感情にビスケットを噛み砕き、強引に脳の燃料を補充した。ヴォルフの腕の熱が、冷え切ったエマの体温をわずかに押し上げる。それは愛着ではなく、精密機械を稼働させ続けるための、絶対的な維持管理の動作だった。
糖分が血流に乗って脳細胞へ届くまでの 1.4 秒 の空白。その直後、エマの瞳に再び青白い理知の光が戻る。
「……さて、本題はこれからです。ビアンカさん、例の『専門家』は」
エマが問いかけた、その時だった。
隠れ家の奥の重厚な扉が開き、白髪をボサボサに生やし、分厚い丸眼鏡をかけた小柄な老人が、杖を突きながらひどく不機嫌そうに現れた。
「やれやれ。静かな余生を送っていたというのに、とんでもない焦げ付き案件どもに呼び出されたものだ」
「……お久しぶりです、バルカ名誉教授」
エマは毛布に包まったまま、 15 度 の正確な角度で頭を下げた。バルカ。かつて王立魔導アカデミーで教鞭を執り、魔導物理学の権威でありながら学界を追放された異端の天才。そして何より、エマの亡き父の恩師でもある男だ。
「お前は本当に、親父さんにそっくりだな、エマ。理屈っぽくて、計算高くて、自分の命の収支計算だけがひどく雑だ。……あの広場で勇者の代理を《《債務不履行》》させたのはお前たちだろう。王都中が大騒ぎだぞ」
「私はただ、彼らの帳簿の不備を指摘しただけです」
「その指摘で国がひっくり返りそうなんだよ。……で? わざわざ裏社会のツテを使ってまで、この老いぼれに何を見せたいんだ」
バルカがソファの向かいに腰を下ろす。エマは傍らの鞄から、隔離書庫から命懸けで持ち出した『父の古い書簡』と、バルガス工房から回収した『人造魔石の分光波形データ』をテーブルに広げた。
「……教授。この 2 つ の魔力波長を、ミクロな単位で比較解析してください」
「ほう」
バルカは懐から年代物のルーペを取り出し、書類を覗き込んだ。数秒間、老人の鋭い目が文字と数式の上を猛烈な速度で滑る。室内には、ビアンカの葉巻が燃える音と、エマの 1 分間に 14 回 の細い呼吸音だけが流れた。
やがて教授は、ほう、と深く息を吐き出し、信じられないものを見るようにエマを見た。
「……お前、これの『意味』に気づいて私を呼んだのか」
「推測の域を出ません。だからこそ、最高権威による『証明』が必要です。……教授。模造聖剣に使われていた魔石の波長と、 6 年前、私の父が暗号化して遺した波長は……一致しましたか」
「一致した、なんてもんじゃない。……これは『進化系』だ」
バルカは乱暴に頭を掻きむしり、忌々しそうに舌打ちをした。
「いいか、エマ。模造聖剣に使われていたというこの魔石……人間の命を燃料にして《《命の洗浄》》をしたという胸糞の悪い代物だが、これはただの武器じゃない。この魔石は、周囲の空間から魔力を強制的に吸い上げ、さらに巨大な術式へと送り込む《《中継の核》》の役割を持っている」
「……どういうことだ、爺さん。あの偽物の剣は、ただの燃費の悪い大剣じゃなかったのか」
ヴォルフが身を乗り出す。バルカはテーブルの上に王都ルミナリスの精緻な地図を広げ、赤インクのペンで 12 箇所 の点を線で結んでいった。浮かび上がったのは、王都全体を幾何学的に覆い尽くす、巨大な術式の回廊だった。
「財務卿ヴァレリウスの狙いは、勇者なんていう安っぽい看板の維持じゃない。……彼は、この王都ルミナリスそのものを、 600,000 人 の市民の生命力をじわじわと吸い上げて稼働する『国家規模の巨大魔導炉』に改造しようとしているんだ。……お前の親父さんは、その予算の帳簿外の流用に気づいてしまったから、消されたんだよ」
絶望的な沈黙が地下室を包み込んだ。アリアは顔を覆って震え、ヴォルフは大剣の柄を、指が白くなるほど強く握りしめた。
だが、エマの反応は違った。彼女は毛布からすりと抜け出すと、ビスケットの糖分でわずかに血色の戻った唇に、氷のように冷たい笑みを浮かべた。
「……なるほど。 60 万人 の命を担保にした、壮大な《《命の洗浄》》というわけですか」
「おいエマ、笑い事じゃねえぞ。王都の連中が全員、生体電池にされるって話だぞ」
「笑い事ですよ、ヴォルフ。……財務卿は賢い経営者だと思っていましたが、評価を改めざるを得ません。彼は《《不確定変数》》の管理もできない、ただの無能です」
エマは真鍮の万年筆を手に取り、バルカが広げた地図の中心――財務卿がいる王宮の座標に、精算を示すバツ印を書き込んだ。
「国民という最大の固有の資産を食い潰して利益を出す事業に、未来はありません。そんなものは経済ではなく、ただの略奪です。……私は査定員として、彼のその非論理的な計算式を許すわけにはいかない」
エマは銀縁眼鏡の奥で、魔導式解析眼を静かに、しかし強烈に青白く発光させた。
「……さあ、反撃の再計算を始めましょう。相手が国家規模の粉飾決算を企てているのなら、私たちはこの国全体を巻き込んで、彼を強制的な清算に追い込むまでです」
■ 査定員エマの業務日誌:今回の用語解説
【支払請求書】
提供された役務や商品に対し、代金の支払いを求めるための文書です。ビアンカさんからの 5,000,000 ゴールド という請求は一見すると暴利ですが、国家を揺るがす監査のための必要経費と考えれば、資産形成の第一歩に過ぎません。
【《《中継の核》》】
魔力や情報を複数の経路へ中継し、その流れを制御する拠点のことです。模造聖剣は自らが主役だと錯覚させるための装置でしたが、財務卿のシステムの中では、単なる「末端の集音機」のような扱いに過ぎなかったというわけです。実に見苦しい設計です。
【《《不確定変数》》】
予測不可能な事態や損失の確率のことです。財務卿は私という変数を《《計算上の不備》》として処理したつもりでしょうが、 1 ゴールド の誤差も許さない私の執念が、彼の帳簿を完全に破綻させる決定打になることを、彼はまだ計算できていないようです。
【帳簿外の流用】
正規の会計報告に載せない形で、資産や負債を隠蔽・運用することです。財務卿は国民の生命力という最大の資産を、公的な報告書から隠して勝手に運用していました。これは国家規模の横領に他なりません。




