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【第一部完結】剣より重い計算式(ロジック) ~異端の査定員エマ・ルミナスの監査報告~  作者: 二進
第2章:白亜の魔都と、偽りの防衛線

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第35話:非稼働時間の代償と、絹の衝撃

「――これより、勇者パーティ『アヴァロン』への徹底的な監査を開始します」


 その宣戦布告が、高速魔導飛行船『リヴァイアサン号』の特等客室に響き渡った、直後のことだった。

 エマ・ルミナスの頭の中で、極限まで張り詰めていた緊張の糸が、音を立ててプツリと切れた。


「……エマ?」


 隣に座っていたヴォルフが、その僅かな空気の変化――エマの瞳から強烈な知性の光が消え、焦点の合わない硝子玉へと変わる瞬間を逃さなかった。エマの手から真鍮の万年筆が力なく滑り落ち、高価なペルシャ絨毯の上に音もなく没した。彼女の身体は、糸の切れた操り人形のように、ゆっくりと重力に従って傾いていく。


「おい、しっかりしろ。……返事がない。おい、お嬢様!」


「……ヴォルフさん、エマさんが! 急に真っ白になって……!」


 アリアの悲鳴に近い声が上がる中、ヴォルフは慣れた手つきでエマの細い肩を支え、膝裏に太い腕を差し入れた。彼女の肌は、先ほど財務卿を論破していた時の熱が嘘のように、氷のごとく冷え切っている。呼吸は極端に浅く、意識は完全に深い底へと沈んでいた。極度の低血糖と魔力枯渇による、肉体の強制的な昏睡状態だ。


「……ハァ。やっぱりこうなったか。監査官殿、騒ぐな。死んじゃいねえよ。こいつの脳味噌が、肉体の限界を無視して、無理やり回転数を上げすぎただけだ」


 ヴォルフはエマを横抱きにすると、彼女のあまりに軽すぎる体重に、改めて苦い表情を浮かべた。シュタールからの激務、財務卿との命懸けの盤外戦術、そして先ほどまで行っていた国家規模の経済破壊戦略の立案。その全ての過酷な計算の代償は、この細い少女の乏しい生命エネルギーを削り取ることで、強引に支払われていたのだ。


「……アリア。こいつを寝かせる。着替えは任せていいか。ビアンカが用意した客室があるはずだ」


「え、ええ。分かったわ……案内する」


 ヴォルフに促され、アリアは震える足取りでエマを導いた。用意された最高級のスイートルーム。そこは、地下の監査室やシュタールの質素な官舎とは無縁の、過剰なまでの富の集積地だった。ヴォルフが部屋の外で見張りに立ち、アリアは一人、昏睡状態にあるエマの着替えを手伝うことになった。


 純白の監査官制服を脱がせた際、アリアは思わず息を呑み、絶句した。

 エマの身体は、まるで栄養の全てを知性と神経に吸い取られたかのように細く、痛々しかった。そしてその白磁のような背中には、先ほど本部の魔導管から引き出した「過剰な魔力」を強引に制御した際の火傷の痕跡が、真っ赤に浮かび上がっていたのだ。


「……なんて無茶をするの。こんな折れそうな身体で、あんな化け物みたいな財務卿と渡り合っていたなんて」


 アリアは、ビアンカが用意した最高級シルクの寝着をエマに着せる。その滑らかな布地が、エマの疲弊しきった肌を優しく包む。ベッドに横たわったエマは、眼鏡を外されると、ようやく「辺境の死神」という鉄の仮面を脱いだ。そこにあるのは、ただ深く傷つき、全ての体力を使い果たした一人の少女の、無防備な寝顔だった。


     * * *


 それから、どれほどの時間が経過しただろうか。

 エマの意識は、底のない暗い海から、ゆっくりと浮上を始めた。だが、その目覚めは決して快適なものではなかった。


「……不快、です。……この、異常な摩擦係数の低さは……一体何ですか」


 掠れた声が、静かな寝室に響く。枕元で椅子に座ったまま居眠りをしていたアリアが、弾かれたように顔を上げた。


「エマさん! 気がついたの!?」


「……アリアさん。報告を。現在時刻、および本船の現在位置を、コンマ以下の単位まで正確に述べてください」


「起きていきなりそれ!? まだ気がついたばかりでしょ、大人しくしてなさいってば!」


 エマは上体を起こそうとしたが、鉛のように重い肉体がそれを峻拒した。視界がグラリと揺れる。眼鏡がないため、周囲の豪華な調度品が、ピントの合わないガラクタの山のように霞んで見えた。頭の芯が、鈍器で殴られたように激しく痛む。


「……ヴォルフ、を。それから、高濃度の糖分を。脳のブドウ糖濃度が、論理的思考を維持するための最低数値を完全に下回っています。このままでは、意識を保てません」


 その言葉と同時に、部屋の扉が音もなく開いた。ヴォルフが、銀のトレイを片手に現れる。


「ほらよ、お嬢様。…… 3時間半 の死んだような眠りを経て、ようやく復旧か。ビアンカの厨房から掠めてきた王都特製の魔導エクレアだ。 1個 の原価を聞いたら、またお前の心臓が跳ね上がるだろうから教えねえがな」


 ヴォルフはエマの背中にクッションを素早く差し込み、手際よく彼女を座らせた。エマは震える手で眼鏡を装着し、差し出されたエクレアをひったくるように受け取った。

 一口、かじる。王都のパティシエが技術の粋を集めたその菓子は、エマの舌の上で濃厚なブドウ糖とバターの香りを爆発させた。暴力的な甘味が、ガス欠を起こしていた脳細胞を強引に叩き起こす。


「……糖分純度、 98パーセント 。及第点、です。損傷した神経の修復カロリーとして受理します」


「素直においしいって言えないのかよ……。まあいい、これでお前の『牙』は戻ったな」


 エマはエクレアを事務的に咀嚼しながら、ようやく人心地ついたように、周囲を覆う「最高級シルクのシーツ」を冷酷に睨みつけた。


「ヴォルフ。このシーツ、および寝着。即刻、麻か綿の安価なものへの交換を要求します。……滑りすぎます。私が寝返りを打つたびに、身体がベッドの中央という定位置を維持するために、腹筋と背筋に余計な負荷がかかっています。睡眠中の無駄なカロリー消費は、極めて非合理的です」


「贅沢な悩みを言ってんじゃねえ。……ま、そうやって数字の不満を言い始めたってことは、完全に通常営業に戻ったってことだな」


 ヴォルフは呆れたように肩をすくめたが、その琥珀色の瞳には隠しきれない安堵の色が滲んでいた。アリアは、その二人の異常なまでの日常を、驚きと共に眺めていた。


「……ねえ、エマさん。貴女、いつもこんな風に……限界まで自分を削って、それで『計算通り』なんて言っているの?」


「……削っているのではなく、手持ちの体力を最適に配分しているだけです、アリアさん」


 エマは最後の一口のエクレアを飲み込み、再び事務的な「死神」のトーンで答えた。


「私の肉体は、生まれつき極端に燃費が悪く、体力という資本に欠けています。ですが、知性と計算という武器は、使い方次第で無限の成果を上げることができる。先ほど、私は財務卿を相手に、自分の命を天秤に乗せました。結果、私たちはこうして生き残り、空を飛ぶ機動力と時間を手に入れた。生存確率の計算としては、大成功です」


「……命を、計算の道具にするなんて……」


「正しい計算に基づいた行動であれば、それは無謀な賭けではなく、勝算のある投資です。……アリアさん。貴女も、いつまでも『剥奪された監査官の地位』という、回収不能な過去の損失にこだわるのはやめなさい。今、貴女がすべきことは、現状を正確に把握し、次の行動を計算することです」


 エマは、ベッドの横に置かれていた、膨大な資料の山を指し示した。それはビアンカが船内に用意させていた、勇者アヴァロンにまつわる公式記録の写しだった。


「勇者アヴァロン。彼らを支えているのは、国民からの『寄付金』という名の、極めて不透明な資金源です。アリアさん。元聖女候補の貴女なら、その寄付金が神殿のどの口座を経由し、どのような名目で資金洗浄されているか……その汚泥の匂いを嗅ぎ分けられるはずです」


「……私に、それをやれっていうの?」


「いいえ。私と貴女で、彼らの嘘の帳簿を、物理的・経済的に粉々に粉砕するのです。それが、私たちが地上に降りた際に行う、最初の抜き打ち監査です」


 エマの声は、再び死神の冷徹さを取り戻していた。だが、その手にはまだ、エクレアのクリームが少しだけ付着しており、眼鏡の奥の瞳には、ほんのわずかな、しかし確かな「生」の疲労が残っている。


「……はぁ。本当に、 1秒 も休ませてくれないのね」


 アリアは深い溜息をついたが、その顔には不思議と、絶望の色はなかった。彼女はエマから手渡された、厚さ 10センチ はあろうかという膨大な資料の束を、覚悟を決めたように受け取った。


「分かったわよ。どうせ私は、もう戻る場所なんてないんだから。徹底的にやってあげるわ、その凄惨な精算とやらを」


「素晴らしい判断です」


 エマは満足げに頷くと、ヴォルフの方を見た。


「ヴォルフ。もう 1個 、エクレアを。これから始まるのは、一国の偶像を解体する極めて過酷な計算業務になります。推定 4,000キロカロリー の追加の糖分補給が必要です」


「へいへい。……食費が高くつく上司だぜ、全く」


 飛行船『リヴァイアサン号』は、偽りの英雄たちが待つ王都の裏側へ向けて、静かに降下を始めていた。雲海の端が金色に染まる。それは、王都ルミナリスという巨大な嘘が、ついに暴かれる日の始まりだった。


■ 査定員エマの業務日誌:今回の用語解説


【シルクの摩擦係数】

最高級の絹は肌触りが良い反面、摩擦が極端に低いため、就寝中の無意識の姿勢制御に余計な筋力とカロリーを消費させます。極度の低血糖から回復したばかりの私の肉体にとって、この無駄なエネルギー消費は命に関わる重大な不備です。安価な綿のシーツへの交換を強く推奨します。


埋没費用サンクコスト

すでに支払ってしまい、二度と回収することができない費用や時間のことです。アリアさんは失われた「正規の監査官」という地位に未練を残していましたが、過去の損失に囚われて現在の合理的な判断を誤ることは、会計学において最も避けるべき愚行です。


【追加の糖分補給】

国家の象徴である勇者パーティの資金洗浄ルートを暴き出すには、神殿の暗号解読を含め、常人なら脳が焼き切れるほどの並列演算が必要になります。最低でも特製エクレア 2個分 のカロリーを前借りしなければ、生きて地上へ降りることは不可能です。

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