第34話:不渡りの王都と、逆張りの投資戦略
高度 3,000メートル 。漆黒の夜空を滑るように進む高速魔導飛行船『リヴァイアサン号』の船内は、先ほどまでの破壊と爆音の余韻が嘘のような、静謐なラグジュアリー空間だった。
重厚な防音魔法が施されたキャビンには、魔導エンジンの低音すら届かない。ふかふかのビロード張りのソファに深く沈み込み、エマ・ルミナスは小刻みに震える指先で、クリスタルグラスに注がれた「特濃ココア」を事務的に口に運んでいた。
「……ヴォルフ。このココア 1杯 の原価、いくらですか。……この粘度と魔力含有量……シュタール支部の事務員 1人 の月給に匹敵する計算になります」
「知るかよ。この船の調度品一つで、お前がいたカビ臭い資料室が建物ごと買い取れるってことくらいは、俺でも分かるがな」
ヴォルフはエマの隣に腰掛け、彼女の顔色が死人のような白さから、ようやく生身の血色へと戻っていくのを琥珀色の瞳で見守っていた。
先ほどの無茶な逃走劇と、財務卿との対峙による極度の緊張が、エマの華奢な肉体から膨大な糖分と体力を奪い去っていた。ヴォルフは彼女が限界を迎えて倒れる予兆を見逃さぬよう、すぐ横で強固な支柱として控えている。
その向かい側。椅子に深く腰掛け、幽霊のように放心しているのは、内部監査官のアリアだ。彼女は自分の短剣を、まるで血塗られた凶器でも見るような目で凝視していた。
「……私は、ヴァレリウス様に牙を剥いた。……私が幼い頃から信じてきた、王国の、正義の象徴を……裏切ったのよ」
「裏切りではありません。事実を正しく再計算しただけです、アリア監査官」
エマがココアのカップをソーサーに戻し、感情を極限まで削ぎ落とした、平坦な声で告げた。
「国家予算の 12パーセント もの巨額を、隠蔽と工作のために消費しなければ維持できない正義など、構造的に破綻しています。貴女は崩れゆく泥舟から、自らの良心という唯一の資産を守るために脱出したに過ぎません。……感情的な揺らぎを除去すれば、極めて合理的な生存本能です」
「……貴女、……こんな状況で、よくそんな冷たいことが言えるわね。……少しは震えたりしないの?」
「震える体力があるなら、追っ手を振り切るための次の経路計算に充てます。……それが私の、生き残るための唯一の武器ですから」
アリアが力なく、自嘲気味に笑う。
その時、船室の重厚なマホガニーの扉が開き、優雅な足音と共に一人の女性が現れた。
漆黒のパンツスーツに、鋭い知性を湛えた黒髪のショートボブ。投資家ビアンカは、今夜の王都爆破と財務卿への反逆など、日常の些細な取引の一つに過ぎないという余裕の笑みを浮かべていた。
「あら。救出の満足度はいかがかしら? エマ・ルミナス査定員。……それと、野良犬の執行者と、元・神殿の聖女様」
「……ビアンカさん。約束の時間は、 15秒 超過していました」
エマは銀縁眼鏡を中指で押し上げ、相手が命の恩人であることを無視して、あえて厳しい口調で言った。
熱いココアの糖分がようやく脳に届き、彼女の並列演算が再び鋭利に研ぎ澄まされ始めている。
「その 15秒 の遅延により、ヴォルフの武器の耐久値は 1.2パーセント 余分に摩耗し、私の精神的疲労は限界値を突破しかけました。……今回の救出に際する仲介手数料、当然ながら減額の交渉テーブルには着いていただけますよね?」
「……フフ、ハハハッ! いいわね、その可愛げのなさ。……最高の契約相手だわ、貴女」
ビアンカは楽しげに喉を鳴らし、エマの前のテーブルに一枚の厚い書面を置いた。
「さて、事務的な話をしましょうか。……今夜、貴女たちは王国の心臓である財務卿に公然と反旗を翻した。つまり、君たちは現在、王国内において即刻排除すべき大罪人扱いにまで落ち込んでいるわ。逃げ場なんて、この空の上にしかない」
「分かっています。私たちは今、王国の計算式から排除された不規則な端数です。……ですが、不規則な端数こそが、巨大な均衡を崩す梃子になります」
エマはビアンカから渡された資料に目を通し、灰青色の瞳を細めた。そこには、財務卿が必死に隠蔽しようとしていた詳細な資金の流れが、より広範囲に渡って記されていた。
「ビアンカさん。貴女が私を助けた理由は、単なる慈悲ではありませんね。……貴女は、この王国という名の巨大な砂の城が崩壊する瞬間に、大暴落する資産を根こそぎ買い叩くつもりですか?」
「察しがいいわね。……今の王国は、勇者アヴァロンという名の『偶像』を維持するために、莫大な粉飾を続けている。……けれど、実体のない熱狂は必ず弾ける。私は、その嘘の風船を弾けさせるための、最も鋭い針を探していたの」
ビアンカの瞳に、獲物を狙う肉食獣のような獰猛な光が宿る。
「……なるほど。ですが、ただ崩壊させるだけでは、真実は明らかになりません。……私の流儀に反します」
エマは手元の万年筆を握り直し、白紙のメモに鋭い数式を書き込み始めた。文字が、処刑宣告のように紙に刻まれていく。
「勇者アヴァロンに流れている 12パーセント の資金。これは単なる彼らの豪奢な生活費ではない。ヴォルフが以前言った、彼らの魔力の不自然な臭い。……物理法則を無視した、あの異常な魔法火力。……これは、禁忌とされている『人造魔石の大量投入』の結果です。それも、通常の製造原価を大幅に下回る、極めて非人道的な方法での」
その言葉に、アリアが弾かれたように顔を上げた。聖女候補だった彼女には、その言葉が持つおぞましさが痛いほど理解できた。
「……人造魔石!? そんな、あれは製造の過程で、何万という家畜の命や……最悪の場合、貧しい平民の生命力を強制的に搾取する禁断の術式よ。神殿でも厳重に禁じられているはず……」
「ええ。命を魔力に変換することで、製造コストを強引に圧縮しているのです。その莫大な社会的犠牲を隠蔽し、帳簿上から完全に消し去るために、財務卿は国全体の数字を書き換え続けている。勇者はもはや救世主ではない。この国の経済と生命を裏側から食いつぶす、巨大な消費装置そのものです」
エマの万年筆が、メモの最後に力強く「=」を刻んだ。
その瞬間、彼女の頭の芯に鋭い痛みが走り、肩が激しい演算による疲労でガクリと揺れた。だが、ヴォルフは彼女が倒れる予兆を見逃さず、背後からその身体を支えながら、予備の蜂蜜飴を彼女の口へ押し込んだ。
エマは無言でそれを噛み砕き、荒い呼吸を整えてから、再び冷徹な表情を取り戻す。
「……作戦を変更します、ビアンカさん。財務卿を直接叩くのは、今の私たちの戦力では危険すぎます。まずは、彼の権力の担保である勇者アヴァロンの価値をゼロに叩き落とす。彼らの輝かしい功績が、すべて他者の命を削り取った粉飾であったことを、白日の下に晒すのです」
「……つまり?」
ヴォルフがニヤリと笑い、大剣の重みを確かめるように拳を握り込んだ。
「英雄のメッキを剥ぎ取り、その不備を王都中に公開する。彼らが失脚すれば、後ろ盾である財務卿もろとも、この国の偽りの均衡は崩壊します。それが、私たちが生き残るための唯一の、逆転の計算式です」
エマの冷酷な宣告が、飛行船の豪華な内装に響き渡る。彼女は再び眼鏡を直し、今度はアリアを見つめた。
「アリア監査官。貴女には、勇者アヴァロンの内部情報を暴くための鍵として、私のチームに加わっていただきます。拒否権はありません。貴女が単独で王都の追っ手から逃げ延びる確率はゼロですが、私の演算能力と貴女の神殿内部の知識を統合すれば、生存確率は飛躍的に跳ね上がります」
「……ふふ、本当に、可愛げのない死神ね。分かったわよ。その凄惨な精算、地獄の果てまで付き合ってあげる」
夜明けの光が、雲海から差し込み始めた。
「……ヴォルフ。王都の最高級エクレアを、もう 1個 。これから始まるのは、一国の運命を計算し直す大仕事です。脳の糖分を、最大まで高めておかなければなりません」
「へいへい。お嬢様の野望は、相変わらず燃料代が高くつくな。……だが、今夜の暴れっぷりに比べれば、安いもんだ」
飛行船『リヴァイアサン号』は朝日を浴びながら、財務卿の包囲網を嘲笑うように、次なる標的――勇者たちの牙城へと向かって、魔導エンジンを咆哮させて加速していった。
■ 査定員エマの業務日誌:今回の用語解説
【人造魔石の製造原価】
本来、魔石を人工的に精製するには膨大な魔力と高価な触媒が必要であり、 1個 あたり 10万ゴールド 以上の原価がかかります。勇者パーティがこれらを湯水のように消費できるのは、触媒の代わりに「平民の生命力」という、帳簿に載らない無料の資源を搾取しているからです。
【生存確率の計算】
財務卿を敵に回した現在、私たちが生き残る確率は極めて低い状態にあります。しかし、アリアさんが持つ神殿の暗号知識という変数が加わることで、勇者アヴァロンの不正資金ルートを解明する確率が上がり、結果として私たちの生存率も上昇します。合理的な判断です。
【15秒の遅延コスト】
戦闘状態において 15秒 の遅れは、ヴォルフの筋力と武器に無駄な疲労を強いるだけでなく、私の脳が恐怖という感情を処理するための余計なカロリーを消費させます。ビアンカさんには、この精神的コストに対する明確な補償を要求するつもりです。




