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【第一部完結】剣より重い計算式(ロジック) ~異端の査定員エマ・ルミナスの監査報告~  作者: 二進
第2章:白亜の魔都と、偽りの防衛線

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第28話:英雄の影と、王都の兵站

 深夜、王立保険ギルド本部、地下 2 階の特別監査室。


 華やかな地上の喧騒から完全に切り離されたその部屋では、淀んだ空気を魔導換気扇が低くかき回す音と、エマ・ルミナスが分厚い帳簿のページをめくる乾燥した音だけが、不気味な二重奏を奏でていた。


 エマは、デスクの端に置かれた高濃度魔導ブドウ糖タブレットの空き瓶を横目に、すっかり冷めきった濃厚なココアを事務的に啜りながら、再び真鍮の万年筆を走らせていた。


 先ほど第三正規騎士団のガレス小隊長から回収した、闇市場への横流し資産。 600,000 ゴールドという現金の束によって、帳簿上の欠損は 1 ゴールドの誤差もなく埋まった。


 だが、エマの脳内で構築されつつある王都の経済数式には、依然として消えない《《不純物》》が粘り強く残っていた。


 「……ヴォルフ。貴方は、今日のガレス小隊長の顔を見て、どう思いましたか?」


 エマは顔を上げず、銀縁眼鏡の奥で数字の列を追いながら問いかけた。

 部屋の隅にある粗末なソファで、大剣の刃こぼれを砥石で整えていたヴォルフが、手を止めて顔を上げる。


 「どうもこうもねえ。ただの、愛する家族を守れずに追い詰められた不器用な年寄りだ。……嘘をつくには、あの爺さんはあまりに情に脆すぎた。あんな顔をして人を騙せるのは、王都の腹黒い貴族か、お前みたいな理性の怪物だけだ」


 「最高の褒め言葉として処理しておきます。……ですが、そこが最大の不一致なのです」


 エマは万年筆を置き、回収したばかりの闇市場の顧客名簿と、王都の物価推移表を指先で冷たく叩いた。


 「ガレス小隊長は、部下の家族を餓死から救うために、 500,000 ゴールド相当の回復薬を横領したと言いました。……ですが、この闇市場の相場表を見てください。彼らがブローカーに買い叩かれて得た金額は、わずか 100,000 ゴールドです」


 エマは別の紙に、スラスラと新しい計算式を書き出す。


 「小隊の人数は 20 名。その妻や子供、老親を含めれば、養うべき家族の総数は少なくとも 70 名を超えます。…… 70 名の人間が半年間、栄養失調で死なずに生活を維持するためには、最低でも 450,000 ゴールドが必要です。……つまり、彼らが手にした 100,000 ゴールドでは、あと 350,000 ゴールドも足りない。私の計算に誤差はありません」


 ヴォルフが眉をひそめ、大剣を置いてエマのデスクへ歩み寄った。


 「足りない……? じゃあ、奴はポーションの他にも、こっそりギルドの備品を盗んで換金してるってことか?」


 「いえ、逆です。あの不器用な小隊長に、これ以上の隠蔽は不可能です。つまり彼は、横領以外に何らかの資金源を持っている……あるいは、誰かが彼らに不足分を密かに補填してやっているということになります。ですが、それ以上に奇妙な点があります」


 エマは広大な王都ルミナリスの地図を広げ、本部の倉庫から第三騎士団の駐屯地へと至る兵站(へいたん)のルートを万年筆の尻でなぞった。


 「王都本部の支出管理帳簿には、直近の半年間で、第三騎士団に対して最新鋭のミスリル鋼の剣、防寒マント、栄養価の高い特別保存食を支給したと明確に記載されています。その予算額、しめて 2,500,000 ゴールド。……ですが、現場には何一つ届いていない。彼らは赤錆の浮いた鉄剣を振り回し、具のない麦粥をすすっていました。この巨大な差額は、一体どこへ消えたのでしょう?」


 「…… 2,500,000 ゴールドだと? どこの大商人の年商だよ。それが、ただの騎士団のメシ代と剣の代金から丸ごと消えてるのか?」


 「それこそが、この腐敗した王都の正しい計算式なのでしょう」


 エマは冷たく、および静かに言い放った。

 ギルド本部は、正規の予算を支出したことにしている。騎士団は、その物資を受け取ったことにされている。


 だが、その中間にある巨大な《《見えない網》》が、 2,500,000 ゴールドという巨額の資産をどこかへ吸い上げ、帳簿上から完全に隠蔽しているのだ。


 「エレナ先輩が、彼らを監査しろと私に書類を渡してきた理由が分かりました。これは私への単純な嫌がらせではなく、この巨大な吸い上げシステムの尻尾を、私という猛毒に掴ませようとしているんです。彼女自身の手を汚さずに。……ですが、この不備はあまりに巨大すぎて、既存の計算機では処理できません」


     * * *


 「……もう、扉の向こうまで届いていますよ。その不快な、不備の足音が」


 エマの言葉が終わるか終わらないかのうちに、特別監査室の重厚なマホガニーの扉が、ノックもなく乱暴に開け放たれた。


 そこに立っていたのは、エレナではない。

 純白の刺繍が施された豪奢な法衣を纏った、神殿関係者と思われる数人の男たちと、それを取り囲むように完全武装した特務監査官たちだった。


 「エマ・ルミナス査定員。および、執行者ヴォルフ」


 中央に立つ、爬虫類のように冷たい目をした高位神官が、一通の赤い封蝋がなされた書類をエマの鼻先に突きつけた。


 「現在時刻をもって、貴女の監査権限を一時停止します」


 「……停止、ですか」


 エマは眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、神官の顔を無感情に見つめ返した。


 「理由を、論理的にお聞かせください。私はギルドの資産損害を、 1 ゴールドの誤差もなく修復しました。これは表彰されるべき業務実績のはずですが。……それとも、私の計算が、誰かにとって《《都合が悪すぎた》》のでしょうか?」


 「正しい手続きを踏まない結果は、数字が合っていようとも無効だ。監査官は法の守護者であって、裏路地の強盗ではない」


 神官は冷たく言い放つと、エマのデスクに置かれた、先ほど回収したばかりの金貨の袋を、汚物でも見るかのように指し示した。


 「貴女が闇市場から回収した金貨の一部に、我々神殿が管理する聖別金が含まれていたという明白な疑いがある。神に捧げられた神聖な財産を、盗品として強奪し、泥を塗った罪は重いですよ、没落令嬢」


 聖別金(せいべつきん)。王都において、神殿が独自の権利で管理する、公的な監査が一切及ばない不透明な資金だ。


 エマが騎士団の帳簿を合わせるために回収した金の中に、最初からこれという《《罠》》を意図的に混ぜておいたのだ。


 ヴォルフが低い唸り声を上げ、大剣の柄に太い指をかけた。

 「……おい、エマ。こいつら、最初から俺たちの首を絞めるつもりで、金の袋に猛毒を仕込んでやがったんだな」


 「……っ」


 その瞬間、エマの顔からスッと血の気が引いた。

 相手の用意した法的トラップの構造、および 2,500,000 ゴールドの行方、王都における神殿とギルドの癒着の相関図。


 魔導式解析眼(トレース・アイ)による多層的なクロスチェックが彼女の脳内で強制的に始まり、残存していた糖分を恐ろしい速度で食いつぶし始めたのだ。


 頭の芯が、鈍器で殴られたように脈打つ。思考が泥のように重くなり、視界の端が急速に白く霞んでいく。


 だが、彼女の膝が冷たい床に落ちるよりも速く、背後に立つヴォルフが彼女の細い腰をガシリと力強く支えた。


 「わかってるよ。……ほら、口を開けろ」


 ヴォルフはエマを微動だにさせず、神官たちへの威圧感を維持したまま、コートのポケットから取り出した最後のブドウ糖タブレットを、彼女の唇に押し込んだ。


 エマは無言でそれを受け取り、震える奥歯で必死に噛み砕いた。

 暴力的なまでの甘味が血流に乗り、ガス欠を起こして機能停止しかけていた脳細胞を強引に再起動させる。


 エマはヴォルフの支えを借りることなく、自らの足でしっかりと立ち直し、汚れ一つない制服の裾を整えた。彼女の瞳には、一切の弱みも、絶望の色もなかった。


 「……ヴォルフ、動かないでください。彼らとここで物理的な衝突を起こすのは、極めて非合理的です」


 エマの視線の先。神殿の男たちの背後、廊下の闇の中に、複雑な表情でこちらを見つめる首席監査官エレナの姿があった。


 「エレナ先輩。……これが貴方の言っていた、王都の現実ですか?」


 「……大人しく従いなさい、エマ。貴女の計算は正しすぎたのよ。正しすぎるものは、この美しい白亜の街では、排除されるべき不純物として処理される。……それが、ここでのルールなの」


 エレナの声は、どこか諦めに似た響きを持っていた。

 だが、エマ・ルミナスは愛用の真鍮の万年筆を指先でなぞりながら、底冷えのするような冷酷な微笑を浮かべた。


 「不純物、ですか。……いいでしょう。ならば、その不純物がこの街の経済に混ざり込んだ時、貴方たちの資産価値がどれほど無惨に暴落するか……」


 エマは万年筆を静かに鞄にしまい、ヴォルフへと目配せをした。


 「今から一文字の嘘も残さず、徹底的に《《精算》》して差し上げます。私の万年筆に、真実から目を背ける機能は付いていませんから」


■査定員エマの業務日誌:今回の用語解説


兵站(へいたん)

組織が活動を維持するための、武器や食料といった物資の補給・供給システムです。王都ルミナリスにおいては、この供給路こそが最大の不透明な変数となっていました。この消えた 2,500,000 ゴールドの行方こそが、次なる監査の標的です。


聖別金(せいべつきん)

神殿が奉納品として管理する、公的な監査が一切及ばない特権的な資金です。これに盗品混入というレッテルを貼ることで、監査官を合法的に排除しようとする非常に古典的な、しかし強固な法的な盾と言えます。


【極度の糖分枯渇による頭痛】

複雑に絡み合った王都の資金洗浄ルートを無意識に逆算してしまった結果、脳細胞が急激にリソースを消費し、深刻な低血糖による眩暈と頭痛に襲われました。敵の面前で倒れるという最悪の事態は、ヴォルフの迅速なサポートによって回避されました。


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