第29話:鉄面皮の聖女と、1パーセントの不備
「――現在時刻をもって、貴女の監査権限を一時停止します」
特別監査室の淀んだ空気の中に、その冷徹な宣告がナイフのように突き刺さった。
首席監査官エレナの背後から、影のように静かに現れたのは、金色の瞳を持つ、短く切り揃えられた金髪の女性だった。
スレート・グレーの制服の下に、神殿出身者特有の細密に編み込まれた薄い鎖帷子を覗かせている。
その隙のない立ち居振る舞いは、事務官というよりは、獲物の急所を冷徹に追い詰める異端審問官のそれに近かった。
「……内部監査局、 3 級監査官。アリアと申します」
アリアは無機質な動作で 1 通の羊皮紙をエマのデスクに置いた。
そこには、王立保険ギルド総裁の印章と共に、『権限停止・特別監視下置命令』の文字が赤黒い封蝋と共に刻まれている。
「エマ・ルミナス査定員。貴女が闇市場から回収した 60 万ゴールド。その中には神殿の聖別金が含まれていました。不当な権限行使による宗教財産への侵害。これはギルド規約、および王国宗教法に照らせば、懲戒免職に相当する重罪です」
エマの横で、ヴォルフが低く唸る。
琥珀色の瞳がアリアの喉元を射抜くが、彼女は微動だにしなかった。
かつて聖女候補として過酷な修行を積んだ彼女にとって、歴戦の傭兵が放つ殺気など、日常の不快な雑音に過ぎない。
「……アリア監査官」
エマはゆっくりと椅子に座り直し、銀縁眼鏡の位置を中指で押し上げた。
彼女の灰青色の瞳は、すでに魔導式解析眼によって、アリアという個体の身体的特徴や魔力波長を微細なデータとして解体し始めている。
「その命令書、 1 点だけ致命的な計算不備があります。この場で訂正されますか? それとも、このまま不備のある真実として上に受理させますか?」
「……何?」
アリアの表情筋が、わずかに硬直した。
エマは淡々と、アリアが置いた書類の 3 行目を真鍮の万年筆の先で示した。
「聖別金の混入割合を全額の 80 パーセントと記載していますが、正しくは 79.23 パーセントです。端数の 4,620 ゴールドは、ギルドが 3 年前から放置している使途不明金の魔力波長と完全に一致します。……神殿の資産を騙って私を裁くのであれば、まずはその 0.77 パーセントの不一致を神殿へ返還してからにすることですね」
「……ッ!」
アリアの金色の瞳に、明らかな動揺の火が走った。
この命令書は、ギルド上層部がエマを即座に封じ込めるために、 1 時間足らずで捏造に近い形で書き上げたものだ。
まさか、目を通した一瞬で、その裏にある数層もの帳簿操作まで見抜かれるとは想定していなかったのだ。
「黙りなさい」
エレナが苛立たしげに割って入る。その顔は、焦燥と絶え間ない胃痛でひどく青ざめていた。
「エマ、屁理屈を言っている場合じゃないわ。上層部は貴女を本気で、組織の不純物として処理しようとしている。……アリアは今日から、貴女の監視役としてこの部屋に常駐するわ。許可なくペン 1 本握ることも、 1 ゴールドの計算も許されない。……いいわね?」
「監視役、ですか」
エマは冷めたココアのカップを手に取り、最後の一滴まで事務的に飲み干した。
急激な思考の加速と、アリアの魔力波長への深層解析。その過剰な消費の代償として、エマの頬から急速に血の気が失われ始める。
ヴォルフが背後でその微細な体温の変化を察知し、音もなく彼女の隣へと移動した。
「それは助かります。 1 人でこの王都の膨大な帳簿を洗うには、私の肉体のリソースが限界に近かったので。……ヴォルフ、彼女に予備の椅子を。ただし、私の死角に座ることは許可しません。私の視神経は常に数字を追っていますから、視界に雑音が入ると計算効率が著しく低下します」
「……おい、エマ。こいつら、最初から俺たちの首を絞めるつもりで、金の袋に猛毒を仕込んでやがったんだな」
「蛇ではありません、ヴォルフ。今の彼女は、ギルド上層部という名の巨大な欠陥組織が送り込んできた、外部の点検道具に過ぎません。……アリア監査官。貴女、元聖女候補ですね?」
アリアの手が、無意識に喉元へ動いた。
スレート・グレーの襟元に隠された、鎖帷子の冷たい感触を確かめるような防衛的な動作。
「……それが監査に何の関係があるというのですか」
「大ありです。鎖帷子の重なり、歩幅の重心。……および、その首筋に残る聖痕の隠し跡。神殿の聖別金は、特殊な宗教暗号で台帳が管理されています。私には暗号の解読は可能ですが、台帳への物理的なアクセスには神殿の認可を受けた魔力波長が必要になります。……私の計算能力と、貴女の魔力認証。この 2 つが合わされば、神殿が隠し続けてきた真の負債額が、 1 ゴールドの誤差もなく算出可能になります」
エマは真鍮の万年筆を指先でクルリと回し、アリアを真っ直ぐに見つめた。
その灰青色の瞳は、もはや相手を敵対する人間として見ていない。ただの、複雑な数式を解くために必要な《《部品》》として査定していた。
「監視、大いに結構。……ですが、私を監視している間、貴女の網膜には私が暴き出す王都の惨状が、逃れようのない数値として強制的に焼き付けられることになります。……神殿に、あるいはこの腐敗したギルドに、それを見る覚悟はありますか?」
アリアは沈黙した。かつて自分が信じ、そして絶望して捨てた神殿。その清廉さというメッキの裏側にある汚濁を、この最弱に見える令嬢はすでに数字という形ですべて掴みかけている。
「……私の任務は、貴女がこれ以上の不正な越権行為を行わないよう監視することだけです。貴女が何を勝手に計算しようと、私の知ったことではありません」
「賢明な判断です」
宣告と共に、エマの指先がピクリと不自然に震えた。
魔導式解析眼によるアリアへの高深度解析と、神殿の暗号構造の並列処理。
人間の限界を超えた脳の活動が、先ほど摂取したココアの糖分を完全に食いつぶしてしまったのだ。
頭の芯が割れるように痛み、思考が泥のように重くなる。
急激な低血糖による眩暈がエマの身体を襲い、彼女の膝が力なく折れそうになる。
だが、彼女の椅子がガタリと揺れるよりも速く、背後に立つヴォルフが彼女の細い首筋を分厚い掌で支え、姿勢を強制的に維持させた。
そして、神殿の女が目を剥くほどの平然とした動作で、コートのポケットから王都特製の「高濃度ブドウ糖練り菓子」を取り出した。
「ほら、口を開けろ。……見栄張って倒れるなよ」
エマは抵抗することなく、小鳥のようにそれを受け入れ、震える奥歯で必死に噛み砕いた。
暴力的なまでの甘味が血流に乗り、機能停止しかけていた神経系を強引に繋ぎ止める。
アリアの目の前で、土気色だったエマの頬に瞬時に血の気が戻り、白く霞んでいた彼女の瞳が再び鋭い定規の光を取り戻した。
「……補給、確認。……ヴォルフ、追加の燃料としてエクレアを 3 個、至急手配してください。……アリア監査官、貴女もどうですか? 脳を焼くような真実を直視するには、並外れた糖分が必要になりますよ」
エマはヴォルフの腕から離れ、自らの力で背筋を伸ばして言い放った。
アリアは、目の前で繰り広げられた、あまりに危うく、しかし絶対的な信頼関係に基づく生存維持の光景に、初めて鉄面皮を崩して困惑の表情を浮かべた。
「……貴女、本当にただの人間なのですか?」
「私は監査官です。無駄な感情は計算の邪魔になるので、一時的に帳簿から外しています。……さて、始めましょうか」
権限停止。それは表向きの敗北に過ぎない。
エマ・ルミナスという知性の怪物は、もはや組織のルールなど必要としていなかった。彼女に必要なのは、ただ数字と、それを処理するための糖分と時間だけだ。
王都の地下 2 階。権力に縛られた監視官と、ルールを嘲笑う査定員。
歪な共犯の関係が、 1 ゴールドの誤差もなく刻まれ始めた。それは、後に王都全体を震撼させる《《凄惨な再開発》》の、静かな第一歩だった。
■査定員エマの業務日誌:今回の用語解説
【鉄面皮】
感情を一切表に出さず、規則を執行するためだけの仮面を被った者を指します。アリア監査官のそれは、規律への忠誠というよりは、何か過去の感情を無理やり封じ込めているような歪みを感じます。彼女という変数が、私の計算を助けるか妨害するか……現時点では五分五分といったところですね。
【聖痕の隠し跡】
神殿の聖女候補に刻まれる特有の魔導紋です。一度刻まれれば消えることはなく、それが「隠されている」ということは、彼女が神殿と円満ではない離別の仕方をしたことを意味します。論理的に考えれば、彼女は私にとって神殿の暗号を解くための、最適な鍵になり得ます。
【極度の糖分枯渇による眩暈】
アリア監査官の装備と魔力波長を瞬時に解析した結果、脳細胞が急激にリソースを消費し、深刻な低血糖による眩暈と頭痛に襲われました。敵の面前で倒れるという最悪の事態は、ヴォルフの迅速なサポートによって回避されました。肉体の限界は、常に私の監査業務における最大の負債です。




