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【第一部完結】剣より重い計算式(ロジック) ~異端の査定員エマ・ルミナスの監査報告~  作者: 二進
第4章:不渡りの王国

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第99話:始末書の山と、次なる出張指令

 ドサァァァッ! という、およそ清潔な執務室には不釣り合いな暴力的な質量音が、王立保険ギルド本部の最上階に響き渡った。


 最高級のマホガニーで設えられた監査総局長室のデスク。その中央にそびえ立ったのは、高さ五十センチメートルは優に超えるであろう、膨大な書類のタワーだった。

 デスクの主である首席監査官エレナは、かつての完璧な純白の制服にインクの染みをいくつも作り、アイスブルーの瞳に深い隈を刻みながら、その「紙の塔」を震える指で指差した。


「……エマ。これは、何の冗談かしら」


「冗談ではありません、エレナ。今回の『王都再建・特別監査プロジェクト』において発生した、正当な経費精算書、およびそれに付随する状況説明書(始末書)の束です」


 書類の塔の向こう側で、スレート・グレーの制服を隙なく着こなしたエマ・ルミナスは、銀縁眼鏡のブリッジを中指で押し上げながら、極めて平坦な声で答えた。

 彼女の灰青色の瞳には、一国を物理的・経済的に破壊し尽くしたことへの反省など一ミリも存在しない。あるのはただ、業務を完遂した実務家としての冷徹な事実確認だけだ。


「正当な経費……? よく言い切れたわね!」


 エレナはついに胃のあたりを強く押さえ、悲痛な声を上げた。


「大聖誕祭の特設広場における、石畳の広範囲な溶解および修繕費! 勇者の暴走に伴う、国宝級魔導具(聖剣)の全損処理! さらに、投資家ビアンカから緊急調達した莫大な現金の『法外な利息』のギルドへの請求……! 貴女、たった数日でこの国の予算をどれだけ食い潰したと思っているの!」


「一時的な特別損失(トクソン)に過ぎません」


 エマは眉一つ動かさず、真鍮の万年筆で書類の一番上をトントンと叩いた。


「元宰相ギルフォードが、今後十年間で国民の寿命から搾取し続けるはずだった莫大な隠れ負債(オフバランス)に比べれば、この程度の物理的破壊による経費は、全体の0.04パーセントのコストに収まっています。……むしろ、極めて安上がりで効率的な減損処理(げんそんしょり)を完了した私に対し、特別ボーナスを計上していただきたいくらいです」


「屁理屈を言わないで! 数字の辻褄が合えば、街を一つ壊してもいいというわけでは……!」


「あらあら。相変わらず、大きな声が出せるくらいには元気そうね、エレナ」


 正論でエマを問い詰めようとしたエレナの背後から、楽しげな声が掛けられた。

 執務室の重厚な扉を開けて入ってきたのは、赤い髪を揺らし、ギルドの制服を相変わらず胸元で緩く着崩した女性――セラだった。彼女の胸には今や、崩壊した本部を立て直すための絶対的な権限を示す『監査総局長』の真新しいバッジが光っている。


「……セラ総局長。貴女からも、この非常識な査定員に言ってやってください! このような暴力的な経費請求、ギルドの規定上、絶対に承認できません!」


 エレナが涙目で訴えかけるが、セラは新調された革張りのソファにどさりと腰を下ろし、優雅に脚を組んだ。


「いいじゃない、承認してあげなさいよ。結果的に国の最大の不良債権は消え去って、新しい王太子が泥水を啜りながら真っ当な経営を始めたんだから。……それに、エマの計算式に一ゴールドの狂いもないことは、貴女が一番よく知っているでしょう?」


「それは……そうですが……。しかし、この額の稟議を通せば、私の監査官としての経歴に致命的な汚点が……!」


「四の五の言わずに、さっさとその承認印を押しなさい。これは上司としての命令よ」


 セラが不敵な笑みを浮かべて言い放つと、エレナはついに観念したように肩を落とし、震える手で「承認」のスタンプを書類の山に押し始めた。

 理想と正義を重んじるエレナが、現実の泥と数字の暴力に屈服し、実務的な清濁を飲み込んでいく。これこそが、セラという「現実主義者」を総局長に据えたことによって完成した、新生ギルドのドライで強固な日常風景であった。


「……助かります、セラ。これで私の立て替えた交通費も無事に回収できます」


 エマが事務的に一礼すると、エレナはスタンプを強く握りしめ、氷のような視線でエマを睨みつけた。


「……貴女という査定員は、本当に組織のガンね。王都の帳簿は綺麗になったかもしれないけれど、貴女がここにいるだけで、私の胃に致命的なバグが発生しそうだわ」


「光栄です。ですが、私の業務はすでに完了しました。新たな査定指令がない限り、私は待機状態に入ります」


「そうはいかないわ。貴女には、今すぐこの王都から出て行ってもらうから」


 エレナはデスクの引き出しを乱暴に開け、そこから真新しい、血の印章が押された一通の『査定指令書』を取り出し、エマの前に滑らせた。

 それは、厄介払いという名の、ギルド本部からの公式な命令だった。


「……帝国の国境付近、辺境の交易街『ファルケン』」


 エマは指令書を手に取り、そこに記された地名と概要を冷徹な視線でスキャンする。


「現在、我が国は魔法の不正な供給源を断ち、帝国から高値で『魔力石』を輸入することで防衛インフラを維持しているわ。……だけど、ここ最近、そのファルケン街を経由する輸入キャラバンが、頻繁に魔獣の襲撃を受けて全損したという『保険金請求』が相次いでいるの」


 エレナの説明に、エマの背後に控えていた大男――漆黒のロングレザーコートを纏ったヴォルフが、退屈そうに鼻を鳴らした。


「へっ。……魔獣の襲撃ね。帝国側の輸出ギルドが出した『納品書』の数字と、こっちの国に届いた『現物』の数字が合わねえってことか」


「その通りよ」と、エレナは眉間を揉みながら答えた。

「魔力石の価格が高騰している今、国境付近での中抜きや、意図的な保険金詐欺の疑いが極めて濃厚になっている。……もしこれが事実なら、国際的な取引の信用問題に発展するわ。エマ、貴女のその容赦のない『数字の暴力』で、辺境の腐った帳簿を洗い直してきなさい」


 特権階級の陰謀でもなければ、世界を滅ぼす魔族との戦いでもない。

 それは、人間の些細な欲望が生み出した、極めて泥臭く、ありふれた「保険金詐欺バグ」の監査指令だった。

 だが、エマにとって、相手が国家の宰相であろうと、辺境の小悪党であろうと、帳簿の不備を修正するという実務に優劣など存在しない。


「……帝国の輸出台帳と、国内の輸入記録の不一致。そして、不自然なタイミングでの魔獣の襲撃。……典型的な、物理的矛盾を伴うエラーですね」


 エマは懐から真鍮の万年筆を取り出し、指令書の受諾欄に、流れるような筆致で自らのサインを書き込んだ。


「受諾します。これより本件を、私の新たな監査対象として計上します」


「ええ、頼んだわよ。……せいぜい、経費は最小限に抑えなさい。次に王都の門を吹き飛ばすような真似をしたら、今度こそ貴女の査定員資格を剥奪するから」


 エレナの強がりな警告を背に受けながら、エマは一礼し、踵を返して執務室の重厚な扉を開けた。

 廊下に出ると、窓の外には、抜けるような王都の青空が広がっていた。かつてこの空を覆っていた、他人の寿命を燃やして作られた偽りの防壁はもうない。適正な対価を支払い、適正な労働によって維持される、不便で、しかし正しい現実の世界がそこにあった。


「……行くぜ、エマ。また馬車の長旅だ。お前の貧弱な体力が持つように、途中の街で甘いものを大量に仕入れておかないとな」


 隣を歩くヴォルフが、背負った大剣の重みを確かめるように肩を回しながら言った。

 彼はエマを守る正義の騎士ではない。エマの計算式が暴力によって歪められないようにするための、圧倒的で絶対的な《《定数》》だ。彼が隣にいる限り、エマのペンが折れることは決してない。


「ええ。糖分の確実なデリバリーは、監査の精度に直結しますからね。……急ぎましょう、ヴォルフ。世界にはまだ、一ゴールドの狂いを誤魔化そうとする不純物が溢れています」


 二人の足音が、大理石の廊下に響く。

 一人は帳簿のバグを正す万年筆を胸に。一人はその歩みを阻むものを斬り裂く鉄の剣を背に。

 日常という名の、終わりのない実務フィールドへ向けて、二人の査定員は歩みを進めていくのだった。


■査定員エマの業務日誌:用語解説


【始末書と経費精算書】

業務において発生した物理的破壊や資金調達コストを、論理的に正当化するための必須書類です。特権階級の隠蔽工作によって生じる天文学的な負債に比べれば、私が王都で発生させた損害(広場の溶解、国宝の全損)など、極めて健全で安価な必要経費に過ぎません。エレナには、この費用対効果の美しさを早く理解していただきたいものです。


【輸入魔力石の保険金詐欺】

魔法が適正なコスト(高価な輸入資源)へと正常化されたことで新たに発生した、古典的かつ泥臭い不備バグです。希少価値の上がった現物を横流しし、魔獣のせいにして保険金まで騙し取ろうとする業者は、時代が変わろうとも決して絶えることはありません。


【次なる出張指令】

私の業務に終わりはありません。復讐という一つの目的係数を失ったとしても、世界に数字の不備と人間の嘘が存在する限り、私は査定員として帳簿をめくり続けます。そして、その横には常に、私の数式を保護するための「定数」が歩調を合わせてくれているのです。


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