第100話(第一部最終回):剣より重い計算式
鼻をつくような、嫌な埃と獣の脂の臭いが辺りに停滞していた。
《《ベルガスト帝国との国境付近》》に位置する、辺境の交易街ファルケン。
その裏通りにある薄暗い商会の事務所で、分厚いオーク材の机が、乱暴な拳の連打によって悲鳴を上げていた。
「――ふざけるな! 俺の商会の積荷が、国境の森で魔獣に襲われて全焼したんだぞ! ギルドの規約通り、さっさと保険金の承認サインをしやがれ!」
荒々しい怒号と共に、密輸商会の顔役であるザイードが、刃こぼれした手斧を机に突き立てて凄んだ。
彼の背後には、いかにも柄の悪い用心棒たちが数人、獲物を威嚇するような下品な笑いを浮かべて立ち並んでいる。彼らの視線にあるのは、不運な事故に対する悲哀などではない。都会からやって来た世間知らずの小娘を脅しつけ、不当な金を巻き上げようとする剥き出しの欲望だった。
だが、その中心で。
スレート・グレーのギルド制服を隙なく着こなしたエマ・ルミナスは、眉一つ動かさず、手元の書類に静かに視線を落としていた。
「……32ゴールド」
「あぁ!? 何をぶつぶつ言ってやがる!」
「今、貴方が無意味に叩き壊そうとした、この机の現在の資産価値です」
エマは銀縁眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、一切の温度を持たない灰青色の瞳で、目の前の男を見据えた。
「それから、貴方が先ほどから振り回しているその手斧が、万が一にも私の身体に接触した場合、傷害罪による損害賠償とギルドへの違約金として、追加で五万ゴールドの負債が貴方の帳簿に発生します。……不当な要求を通すための威嚇行動としては、極めて費用対効果が悪いですね」
「な、舐めやがって……! いいからここに承認印を押しやがれ! 俺たちは魔獣の炎で、帝国から輸入した『最高純度の魔力石』を箱ごと燃やされちまったんだよ!」
ザイードは血走った目で、偽造された被害報告書をエマの顔の前に突きつけた。
王都ルミナリスの地下にあった「他人の寿命を燃やす魔導炉」が物理的に解体され、魔法が無料の奇跡から『正当な対価を必要とする技術』へと正常化されて数ヶ月。
燃料となる帝国産の魔力石は、今や金と同じか、それ以上の価値を持つ超優良な実体資産となっていた。それに目をつけた辺境の悪党が、現物を闇市場に横流しした上で「魔獣に燃やされた」と偽り、保険金まで二重に騙し取ろうとする。
それは、世界がどれほど正しく作り直されようとも決して消えることのない、人間の些細な欲望が生み出した泥臭い『不備』だった。
「……書類の記載によれば、貴方の馬車を襲ったのは、火炎を吐く中型のヘルハウンドですね」
エマは真鍮の万年筆を指先で弄りながら、淡々と事実の確認を始めた。
「え、ええ!? そうだよ! そいつの凄まじい炎で、積荷の魔力石は木箱ごと、跡形もなく灰になっちまったんだ!」
「矛盾しています」
エマの声が、埃っぽい事務所の空気を氷のように凍らせた。
「魔法の知識が乏しい辺境の密輸業者ならではの、致命的な設定エラーですね。……帝国産の高純度魔力石は、その密度ゆえに、融点が二千度を超えます。ヘルハウンド程度の生物的な火炎を浴びたところで、灰になることなど物理的にあり得ません。せいぜい表面が黒く焦げるだけです」
「な……っ」
「さらに。私はここへ来る前に、帝国側の輸出ギルドが発行した『納品書』の控えを照会してきました。彼らが貴方に卸した魔力石の総重量と、貴方が提出した『焼け跡から回収した灰』の質量を比較計算しましたが、どう甘く見積もっても六十キログラムほど足りません」
エマは手元の万年筆を走らせ、ザイードの提出した報告書に、容赦のない朱色のバツ印を書き込んだ。
「貴方は最高純度の魔力石を闇市場に横流しし、代わりに同じ重さのただの石炭を馬車に積んで、自ら火を放った。……王都の目が届きにくい国境沿いなら、適当な書類で誤魔化せると高を括ったのでしょうが、距離は不正を見逃す理由にはなりません」
完璧な論理と数字による、逃げ場のない包囲網。
自らの浅知恵が完全に看破されたことを悟ったザイードの顔から、余裕の笑みが消え去り、どす黒い殺意が浮かび上がった。
「……チィッ。王都の計算屋が、辺境の商売に口を出してんじゃねえよ」
ザイードが一歩下がり、顎をしゃくると、背後にいた用心棒たちが一斉に剣や棍棒を抜き放ち、エマを取り囲んだ。
「数字が合わねえなら、合うように書き換えりゃあいい。こんな最果ての街で、生意気な査定員が一人、運悪く『魔獣に食われて』消えたところで、誰も気にしねえんだよ!」
「……なるほど。論理的敗北を、物理的な暴力で隠蔽する。六年前の王都の権力者たちと、まったく同じプロセスですね」
凶刃が迫る絶体絶命の状況下にあっても、エマは椅子から立ち上がることすらしない。ただ、小さく息を吐き、酷く退屈そうに銀縁眼鏡を直しただけだった。
「ですが、《《貴方たちの計算式》》には、一つだけ決定的な変数が抜け落ちています」
「あぁ!? 何言って……」
「――うちの査定員の言葉が聞こえなかったのか」
ドゴォォォンッ!!
ザイードが言い終わるより早く、事務所の分厚い木製ドアが、蝶番ごと内側へ吹き飛んだ。
「な、なんだッ!?」
粉塵が舞う入り口に立っていたのは、漆黒のロングレザーコートを纏った長身の大男だった。
琥珀色の瞳に獰猛な光を宿したヴォルフは、背負った大剣を抜くことすらしない。ただ、ゆっくりとした重い足取りで室内へ足を踏み入れ、その圧倒的な死線の気配だけで、用心棒たちを硬直させた。
「……辺境を舐めてるのはどっちだろうな。お前らが束になってかかったところで、俺の準備運動のカロリーすら消費できねえよ」
「ひ、ひぃッ……! や、殺れ! そいつを殺せ!」
恐怖に駆られた用心棒の一人が棍棒を振り上げて飛び掛かるが、ヴォルフは最小限の動きでそれを躱すと、男の鳩尾に正確無比な拳を叩き込んだ。空気が破裂するような音と共に、巨漢の用心棒が白目を剥いて壁まで吹き飛ぶ。
「……死体になれば、借金は返せねえ。安心しろ、骨が折れる程度の加減はしてやる」
それは、正義の騎士による成敗ではない。
エマの提示した「正しい数字」を、暴力によって歪めようとする不純物を排除するための、極めて実務的な『強制執行』だった。
数秒後。事務所の床には、手足を不自然な方向に曲げて呻く用心棒たちと、恐怖で失禁し、腰を抜かしたザイードだけが転がっていた。
エマの計算と、ヴォルフの制圧。
二人の間に言葉のやり取りはない。ただ、1ゴールドの狂いもない絶対的な信頼――『定数』としての関係が、そこには確かに存在していた。
「……ひっ、あ、悪かった! 金なら返す! 横流しした魔力石も、全部ギルドに引き渡すから……命だけは……!」
床に這いつくばり、惨めに命乞いをするザイードを見下ろし、エマはゆっくりと椅子から立ち上がった。
彼女は制服の埃を静かに払うと、右手に持った真鍮の万年筆のキャップを、カチリと鳴らした。
「命など要求していません。そんなものを差し出されても、帳簿の差額は埋まらないからです。……貴方にはこれから、ギルドの規定に基づき、横領した資産の全額返済と、それに伴う莫大な遅延損害金を、労働によって完済していただきます」
6年前。炎に焼かれたルミナス侯爵邸の書庫で、父は最後にこの万年筆を託し、こう言った。
――正しい帳簿は、いつか必ず誰かの明日を救う盾になる、と。
巨悪を倒しても、世界から悲劇が消え去るわけではない。
特権階級の陰謀であれ、辺境の小悪党の嘘であれ、人間の欲望がある限り、どこかの帳簿で数字は歪み、誰かがその不利益を支払わされる。
だからこそ、彼女の監査に終わりはないのだ。
「人は嘘をつくが、数字は決して嘘をつかない」
エマは、灰青色の瞳に冷徹な知性の光を宿し、己の生きる理由となったその言葉を、静かに、しかし誇り高く紡いだ。
「――さあ。不足分の精算を始めましょう」
スレート・グレーの制服を纏った査定員と、漆黒の大剣を背負った執行者。
世界に歪んだ数字がある限り、二人の実務家はこれからも、泥に塗れた現実のページをめくり続ける。
(『剣より重い計算式』・第一部了)
(『魔法の消える境界の橋』に続く?(カクヨム連載中))
■査定員エマの業務日誌:用語解説
【保険金詐欺の永遠性】
魔法が適正な対価を要する現実的な資源となったことで、魔力石は密輸や横領の格好の標的となりました。巨大なシステムを正したところで、人間が人間である限り、この手の小規模なバグ(不正)が世界から完全に消滅することはありません。
【終わらない精算業務】
私の役割は、世界を救うことでも、英雄になることでもありません。提出された書類の矛盾を指摘し、不当に奪われた資産をあるべき場所へと戻すこと。ただそれだけの、地味で終わりのない実務の連続です。
【剣より重い計算式】
父が私に遺した、この世界で最も確かな真理です。剣の暴力は一時の恐怖で人を支配しますが、論理と数字に基づく正しい計算式は、社会の基盤そのものを永続的に縛り、是正します。私はこれからも、真鍮の万年筆を握り、私の『定数』と共に、この狂った世界の帳簿を監査し続けます。




