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【第一部完結】剣より重い計算式(ロジック) ~異端の査定員エマ・ルミナスの監査報告~  作者: 二進
第4章:不渡りの王国

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第98話:墓前の決算報告と、1ゴールドの定数

 王都ルミナリスの喧騒から遠く離れた、北の丘陵地。

 そこには、かつて王国の繁栄を数字で支えた計数官たちの、古びた、しかし手入れの行き届いた墓地が広がっている。


 数日前まで王都を包んでいた赤黒い暴走の熱波も、新システム点灯時の青白い喧騒も、この静寂の丘には届かない。ただ、湿り気を帯びた朝靄が石碑を濡らし、名前も刻まれていない名もなき実務家たちの墓標が、幾何学的な列を成して整然と並んでいるだけだった。


 その最奥。かつて王国の「首席計数官」という重責を担い、そして「横領」という身に覚えのない不名誉な負債を押し付けられて殺された男――エドワード・ルミナスの墓前に、二つの人影があった。


「……ヴォルフ。そこ、少し左に傾いています。物理的な重心がずれたまま擦り続けると、石碑の耐用年数(たいようねんすう)に悪影響を及ぼします」


「ああ、分かってるよ。お前は黙って座って見てろ。……ただの階段の上り下りで息を切らすような奴が、墓石の掃除のやり方にまで口を出すな」


 ヴォルフは無造作に袖を捲り上げ、バケツから汲んだ冷たい水で、父の墓石にこびりついた六年の月日の汚れを洗い流していた。漆黒のロングレザーコートを脱ぎ、無骨な黒のシャツ姿になった彼は、エマにとって最も安定した《《力学的な基盤》》として、そこに存在している。エマが「計算」を担当するなら、彼はその数式が現実の暴力によって歪められないように、物理的な圧力を加え続ける。それが、二人の間に結ばれた不文律の契約だった。


 エマは傍らの倒木に腰を下ろし、銀縁眼鏡を指先で直しながら、その作業をじっと見つめていた。彼女の灰青色の瞳は、父の墓石を単なる思い出の依り代としてではなく、一つの「完結すべき事案」の終着点として捉えていた。


「……ヴォルフ。掃除の工数を短縮するために、水属性の魔法を使えばいいのでは?」


「馬鹿を言え。……今の王都で、墓石の掃除なんかに『燃料』を無駄遣いできる余裕がどこにある。魔法はもう、お前の親父が望んだ通り、贅沢な《《資産》》に戻ったんだ」


 ヴォルフの言葉に、エマは微かに瞳を細めた。

 かつて、この国の魔法は「呼吸」と同じくらい無価値な、しかし無限に湧き出す呪いのようなものだった。ギルフォードが作り上げたシステムは、国民の寿命という名の隠し負債(オフバランス)を自動的に燃焼させ、無限の魔力を供給し続けていたからだ。


 だが、その不当な供給源は、エマの計算式とヴォルフの一撃によって物理的に断たれた。

 現在の魔法は、ビアンカの商会を通じて帝国から輸入された、極めて高価な「魔力石」を燃焼させることでしか得られない。一秒の魔法、一瞬の灯火。そのすべてに、適正な輸入価格と、地下のボイラー室で汗を流す男たち――元宰相ギルフォードを含む労働者たちの、重い物理的コストが乗っている。


 魔法は消えてはいない。ただ、他人の命をすり潰すチートから脱却し、《《正当な価値》》を取り戻したのだ。


「……ええ、その通りです。一ゴールドの対価も払わずに奇跡を享受する。そんな不備(エラー)だらけの時代は、終わりました」


 ヴォルフが最後の一拭きを終え、立ち上がった。洗い清められた石碑には、父の名と「真実を数える者に、安らかな眠りを」という一文が、朝陽を浴びて静かに浮かび上がっている。

 エマはゆっくりと立ち上がり、父の墓前に歩み寄った。彼女は祈りを捧げるための仕草を知らない。跪くことも、涙を流すことも、今の彼女の脳内には実装されていない。


 代わりに、彼女はスレート・グレーの制服の胸ポケットから、一本の真鍮の万年筆しんちゅうのまんねんぴつを取り出し、それを報告書を読み上げるような事務的な所作で握りしめた。


「……最終決算の報告をします。前・首席計数官、エドワード・ルミナス殿」


 エマの声は、丘を抜ける風のように平坦で、しかし揺るぎない確信に満ちていた。


「六年前、貴方が指摘し、不当に却下された『国民の寿命の横領』事案。……これに関するすべての遡及調査を完了しました。主犯たるギルフォード元・宰相は、国家資産の粉飾、および国民の生存権の毀損罪により、一生涯の強制労働(インフラ・ワーク)へと処遇を確定。……彼が積み上げた数万人の死という償却不能負債(バッド・デット)は、特権階級からの資産徴収、および新たな王都経営陣による長期返済計画により、適正な償還プロセスへと移行されました」


 エマの脳内では、王都の新しい帳簿が猛烈な勢いでめくられていく。

 それは血の通わない数字の羅列かもしれない。だが、その数字の羅列こそが、父が命を懸けて守ろうとし、エマが自らの人生を抵当に入れて取り戻した「世界の正しさ」の唯一の証明だった。


「ルミナス家の『横領』という不当な計上は、公式記録から完全に抹消。……すべての不備(バグ)は修正され、現在、この国の帳簿に一ゴールドの不一致も存在しません。……以上をもちまして、本件の精算を完了します」


 カチリ、と。エマは真鍮の万年筆のキャップを閉じた。

 その瞬間、彼女の視界を支配していた幾何学的なグリッドラインが、一瞬だけ激しく揺らいだ。

 目的を完遂した。父を殺したシステムの不備を正し、父の無実を証明した。六年間、ただその一点のために、彼女は人間としての感情を凍結し、徹底した実務家として生きてきたのだ。


 未処理の案件がゼロになれば、査定員の業務は終わる。

 不意に、エマの膝からカクンと力が抜けた。支えを失った操り人形のように、彼女の華奢な体が冷たい地面へと崩れ落ちようとする。

 だが、その体が泥に触れる前に。背後から伸びてきた、熱を持つ大きな腕が、彼女の細い肩を力強く抱きとめた。


「……終わったな、エマ」


 耳元で、ヴォルフの低く掠れた声が響いた。ヴォルフは彼女を支えたまま、洗い清められた墓石を静かに見つめていた。


「ああ、お前の言う通りだ。数字の辻褄は完璧に合った。お前を縛り付けてたクソったれな負債も、全部チャラだ。……おめでとう、査定員殿。お前の勝負は、完勝だ」


「……ヴォルフ。……少し、重いです。貴方の筋肉の質量(ウェイト)が、私の心拍数に不当な負荷を与えています」


 エマはヴォルフの胸板に顔を預けたまま、小さな声で毒づいた。だが、彼女は彼の手を振り払おうとはしなかった。


「……清算を終えた今、私という個体の資産価値は、ほぼゼロに近い。……六年間、私を突き動かしてきた最大の目的係数を失い、次に何を『査定』するべきなのか、指針が見つかりません。……私の役割は、ここで耐用年数(じゅみょう)を迎えるのが、論理的に最も効率的……」


「……何言ってやがる。ただのガス欠のくせに、自分の計算式を読み間違えてんじゃねえぞ」


 ヴォルフは呆れたように息を吐くと、空いている片手で黒いシャツのポケットを探った。そして、紙包みから取り出した親指ほどの大きさの『特濃の塩キャラメル』を、事切れる寸前だったエマの口の中へ、半ば強引に放り込んだ。


「むぐっ……!?」


「黙って舐めろ。どうせ計算が終わった途端にぶっ倒れると思って、ビアンカのところからくすねてきた最高級品だ。……カロリーの塊だぞ」


 暴力的なまでの甘さと、微かな塩気が舌の上で溶け出す。

 極限まで枯渇していた脳細胞に、莫大な糖分が血液に乗って強制的に納品(デリバリー)されていく。霞みかけていたエマの視界のグリッドラインが、一瞬にして鮮明な輪郭を取り戻し、冷え切っていた体温が急速に上昇を始めた。


「……っ。……甘すぎます。このような急激な血糖値の上昇は、膵臓への深刻なダメージを……」


「理屈をこねる元気が戻ったなら、さっさと自分の帳簿を最後までめくってみろ」


 ヴォルフはエマの肩を抱いたまま、彼女を覗き込むように琥珀色の瞳を細めた。


「お前の帳簿には、まだ最大級の《《未払い金》》が残ってるだろ。……三年前、『奈落』から俺を買い取った時の、あの五百ゴールドと十年の将来契約。……俺の命を担保にしたあの契約は、まだ七年も残ってるぜ。俺の命の減価償却(げんかしょうきゃく)が終わるまで、お前は俺を使い倒す義務がある」


 ヴォルフの不敵な笑みが、朝陽に照らされる。


「それに、今回の王都監査で出た莫大な始末書と経費の山。……あの頭の固いエレナの野郎のデスクに叩きつけに行くんだろ? お前が正論を吐いてペンを折られそうになった時、邪魔な奴を叩き斬るのが俺の役割だ。……お前の隣という《《定位置》》から俺を排除するなら、それなりの解約違約金(ペナルティ)を払ってもらうぜ?」


「……。……不当な請求です。……ですが、貴方という変数を、私の人生の計算式から除外した際の再計算(シミュレーション)を行うと……」


 エマはゆっくりと顔を上げ、銀縁眼鏡を直した。高純度の糖分によって強制再起動したその灰青色の瞳には、かすかな、しかし確かな生の色が戻っていた。


「……結果は、深刻なエラーでした。……貴方がいない場合、私は階段の上り下りすらままならず、糖分のデリバリーも滞り、生存確率は著しく低下します。……非効率の極みです」


「だろうな。……だったら、さっさと立て。いつまで俺に甘えてやがる」


 ヴォルフは乱暴にエマの頭を撫でると、彼女を支えて立ち上がらせた。

 六年越しの業務は終わった。だが、二人の人生という名の帳簿は、まだ途中のページをめくったばかりなのだ。エマは口の中に残るキャラメルの甘さを噛み締めながら、父の墓石にもう一度だけ視線を向け、小さく、誰にも見えないほど微かに、唇の端を上げた。

 それは、父から受け継いだ「正しい世界」への、彼女なりの最初の返答だったのかもしれない。


「行きましょう、ヴォルフ。……ギルド本部へ。……エレナへ突きつける『経費精算書』の作成が、まだ五百枚ほど残っています。……それから、道中の市場で、最高級のエクレアを。……今回の成功報酬として、特別経費での計上を許可します」


「……へっ。了解だ、お嬢様」


 二人の影が、朝靄の消えかけた墓地を後にする。

 一人はペンを握り、一人は剣を背負い。一ゴールドの狂いもない絶対的な信頼――《《定数》》を胸に、彼らはまた、数字が歪められたまま放置されている「現実」という戦場へと、足を踏み出していくのだった。



■査定員エマの業務日誌:用語解説


【糖分の強制納品】

演算リソースを使い果たして機能停止に陥った際、ヴォルフが行う最も物理的かつ効果的な回復措置です。極度の疲労時に与えられる高純度の糖分は、非論理的な感傷を吹き飛ばし、私を冷徹な実務の世界へと引き戻すための不可欠な燃料となります。


【墓前の最終決算】

6年前、父が命をかけて守ろうとした正義を、数字という客観的な事実によって証明する儀式です。私にとっての過去の精算とは、墓標に花を供えることではなく、父の帳簿に刻まれた「却下印」を「承認」へと書き換えること、その一点にありました。


【定数としてのヴォルフ】

私の計算式において、唯一計算不能でありながら、決して変動しない変数です。彼が隣にいることは、論理的な理由を超えた、私の生存戦略における絶対的な前提条件となっています。彼という十年の長期契約資産の減価償却が完了するまで、私は査定員としての歩みを止めるわけにはいきません。


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