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【第一部完結】剣より重い計算式(ロジック) ~異端の査定員エマ・ルミナスの監査報告~  作者: 二進
第4章:不渡りの王国

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第97話:実務家たちの解散と、正当な報酬

 王都ルミナリスの地下深く。投資家ビアンカが所有する最高級のセキュリティを誇る『隠れ家』には、かつてないほどの静寂が満ちていた。


 数日前まで、この石造りの空間には、国家を転覆させるための積層する演算の熱気と、決戦へ向かう者たちのひりつくような殺気が渦巻いていた。だが今、部屋を満たしているのは、暖炉で静かに爆ぜる上質な薪の音と、エマがめくる羊皮紙の乾燥した音だけである。


 部屋の中央に鎮座するマホガニーの長テーブル。そこを囲むのは、この王都という巨大なシステムの不備を物理的に排除し、正当な数字へと書き換えた実務家たちだ。

 エマ・ルミナスは、手元にある一冊の分厚い帳簿――今回の『王都再建プロジェクト』における最終的な清算書(せいさんしょ)を広げ、銀縁眼鏡を指先で押し上げた。彼女の灰青色の瞳は、徹夜の連続による疲労を微塵も見せず、ただ機械的な正確さで帳簿の最終行、数百万ゴールドに及ぶ莫大な数字の動きを確認している。


「……これより、本案件における協力報酬の分配を開始します。皆様、お手元の書類を確認してください」


 エマの感情を排した事務的な宣言と共に、ヴォルフが無造作に封筒を配っていく。彼はエマの斜め背後に立ち、その琥珀色の瞳で周囲を圧するように見守っていた。彼はギルドに飼われた番犬でもなければ、正義に燃える騎士でもない。エマが「数字による破壊」を行う際、立ちはだかる物理的な障壁をすべて叩き斬り、彼女の数式が暴力によって歪められないようにするための絶対的な《《基盤》》だ。彼がそこに静かに佇んでいるだけで、この事務的な清算の場は、ある種の厳粛な儀式としての重みを帯びていた。


 最初に封筒を受け取ったのは、元聖女アリアだった。彼女は震える手で封を開き、中に記された一枚の分厚い権利書(アセット)に目を落とした。そこに記された住所を見た瞬間、彼女の若草色の瞳が大きく見開かれる。


「これは……神殿の旧・救済特区の、土地と建物の譲渡証書? それに、この莫大な当座預金の口座残高は……」


「ええ。ギルフォード元・宰相から没収した資産のうち、未利用となっていた広大な不動産を私が買い取りました。アリア、貴女にはこれから、寿命の搾取による『虚飾の奇跡』ではなく、薬草学と解剖学に基づいた『本物の医療施設』を設立していただきます。そのための初期資本です」


 エマの声は、一切の情緒を排して響く。


「これまで、この国の魔法による治療は、コストを『他者の命』という形で未来に押し付けただけの粉飾に過ぎませんでした。これからは違います。魔法という技術を一度行使するごとに、輸入された『魔力石』の燃焼コストという物理的な負債が確実にかかる。……貴女はこれから、一回一回の治療にかかる原価を正当に計上し、患者から適正な対価を受け取り、時に金のない患者を見捨てる決断を下しながら、経営を成り立たせていかなければなりません」


「適正な対価……」


「魔法が消えたのではありません。正当な価値(コスト)が必要な資産へと戻っただけです。貴女が神殿で犯した過ちを清算するには、安易な自己犠牲などではなく、それだけの実益(リターン)を社会に生み出し続ける必要があります。……できますね?」


 アリアは、その言葉の重みを噛みしめるように、深く、静かに頷いた。魔法という名の「他人の命を燃やす便宜」が消え、魔力石という実体資源が必要になった過酷な現実。彼女は、奇跡という名の嘘を捨て、血と汗と数字に基づいた「医療」という名の戦場に立つ決意を固めた。


「了解しました、エマ様。……一人の命を救うのに、どれだけの物理的な原価(コスト)がかかり、どれほどの痛みが生じるのか。一生をかけて、泥に塗れながら帳簿に記し続けてみせます」


「結構です。……次、ルカ」


 エマが視線を向けると、灰色のポンチョを被った少年が、待ちきれないといった様子で封筒を奪い取った。中身を確認した瞬間、彼のエメラルドグリーンの瞳が極限まで見開かれ、息を呑む音が室内に響いた。


「……っ、これ、王都中央銀行の『《《無記名持参人払式小切手》》』!? ゼロが……いくつあるんだよ。これだけの額があれば、スラムの半分を買い取って、お釣りで一生遊んで暮らせるぞ……!」


「貴方の情報網は、今回の監査において極めて有用な流動資産(キャッシュ)として機能しました。これはその働きに対する、正当な対価です。ルカ、その資金を使って、王都全域、いえ、いずれは帝国まで届く『情報の流通機構(インフラ)』を構築しなさい」


 エマは銀縁眼鏡の奥で、十四歳の少年をただの一人の経営者として見据えた。


「魔法による通信網を維持するための、将来的な魔力石購入費用も、初期投資分として計上しておきました。貴方がこの金を持って逃げ、ただの小悪党として消費し尽くして終わるか。それとも、情報を支配する巨大な資本家になるか。その投資価値を、私は見定めています」


「へっ……案内料を値上げした甲斐があったってもんだ。任せといてよ、エマさん。次に出張する時は、現地のネズミが昨日何を食べたかまで、正確に数えておいてあげるからさ」


 ルカは不敵に笑い、小切手をポンチョの奥深くへと滑り込ませた。彼にとって、エマは単なる気前のいい雇い主ではない。自分という不良資産の可能性に巨額の資本を投じた、世界で最も恐ろしく、かつ信頼できる投資家(パートナー)であった。


「バルカ教授。貴方には、王立アカデミーの地下にある『禁忌書庫』の全閲覧権、および、新たな物理魔導研究所の設立予算を計上しました」


 エマが次に視線を向けたのは、分厚い魔導書を膝に抱えた老賢者だった。


「もはや、他人の寿命を浪費する効率の悪い旧術式を研究する必要はありません。輸入された限られた『魔力石』を、いかに最大効率でクリーンなエネルギーに変換するか。貴方の理論を、正当な国家の基盤のために使ってください」


「……ふむ。ようやく、孫に胸を張って自慢できるような仕事ができそうじゃな。エマよ、お前の計算式は、わしの古い理論よりもはるかに残酷で、そして……何よりも美しいよ」


 名誉教授は満足げに白髭を撫で、教え子の娘であり、今や自分を遥かに超えた冷徹な実務家である少女に、深い敬意を込めて一礼した。


 そして、最後にエマの視線が向かったのは、不敵な笑みを浮かべて壁に寄りかかっている赤い髪の女性だった。


「セラ主任。……いえ、これからは監査総局長かんさそうきょくちょう、ですね」


「あら、随分と急な辞令(じれい)ね」


 セラは肩にかけていたギルドのジャケットを整え、楽しげにモノクルを直した。エマにとって、セラは数少ない「計算式における不変の定数」であり、組織の泥を被りながら自分を支えてくれた唯一無二の先輩だ。


「ギルド本部の腐敗した上層部は、今回の件で軒並み損切り(ロスカット)されました。現在、本部は極端な人手不足と機能不全に陥っています。エレナ……あの融通の利かない首席監査官一人では、この巨大な組織の再建は不可能です。彼女は正義と理想を重んじますが、組織を動かすための清濁(ノイズ)を処理する能力に決定的に欠けています」


 エマは帳簿を閉じ、セラを真っ直ぐに見つめた。


「セラ、貴女の政治力と、汚物を厭わない実務能力を、ギルドの正常化(リストラ)のために提供してください。エレナに正論を吐かせ、彼女をいびり倒しながらも、裏ではしっかりと組織の帳簿を回して支える。……貴女にしかできない業務です」


「あの堅物な後輩を泣かせながら、正しい承認印を押させる仕事ね。……いいわ、引き受ける。彼女が現実の汚さに顔を顰めながらも、必死に食らいついてくる姿を見るのは、どんな金貨よりも価値がある報酬だもの。エマ、あんたもたまには本部に顔を出しなさい。面白い数字を用意して待ってるわ」


 セラは快活に笑い、エマの手を強く握った。そこに、友情という名の情緒的な繋がりは入り込まない。互いの能力を高く買い、最大の成果(リザルト)を出すための、ビジネスパートナーとしての固い握手だった。


「これにて、本案件の報酬配分、およびチームの解散を宣言します。……皆様、お疲れ様でした。1ゴールドの狂いもなく、精算は完了しました」


 エマの言葉が合図であったかのように、実務家たちはそれぞれの報酬を抱え、隠れ家の出口へと向かった。

 「また会おう」といった非論理的な約束も、「寂しくなる」といった不確かな情緒も、そこにはない。彼らは一つの業務(プロジェクト)を完遂し、その報酬を手に、次なる己の戦場へと淡々と戻っていくだけだ。その背中は、実に潔く、冷徹な美しさに満ちていた。


 一行が去り、再び完全な静寂が支配した隠れ家。

 マホガニーのテーブルには、エマと、そして彼女の背後に立つヴォルフの二人だけが残された。


「……お嬢様。全員に配っちまって、自分の取り分はなしか?」


 ヴォルフが琥珀色の瞳を細め、呆れたように問いかけた。エマは銀縁眼鏡を外し、極限まで酷使した目を休めるようにゆっくりと瞼を閉じた。


「私の報酬は、六年前から続いていた致命的なバグが正された、その『事実』そのものです。……それ以上の利潤を計上する必要はありません」


「へっ、相変わらず可愛げのねえ答えだ。……だが、そうこなくっちゃな」


 ヴォルフは肩をすくめ、背負った大剣の重みを確かめるように身を揺らした。エマは静かに立ち上がると、懐にある真鍮の万年筆の感触を確かめた。

 色彩の失われた世界で、彼女の計算式はまだ終わっていない。

 王都という巨大な負債を是正した彼女の次なる業務目標(ターゲット)は、すでに明確に決まっている。


「ヴォルフ。……脳のエネルギー不足を確認しました。至急、糖分の補給を。それから、次なる移動の工程表(スケジュール)の作成を。……この世界に、一ゴールドでも合わない数字がある限り、私の監査(アセスメント)に終わりはありません」


「了解だ。……どこまででも担いでってやるよ。俺の命の減価償却が終わるまでな」


 二人の影が、地下の隠れ家から、朝焼けの王都へと伸びていく。復讐を遂げた英雄の姿ではなく、次なる不備を正しに行く、冷徹な実務家の足取りで。

 エマ・ルミナスとヴォルフ。二人の精算(しごと)は、ここからまた新たな帳簿をめくることになる。



■査定員エマの業務日誌:用語解説


【協力報酬の分配】

プロジェクト完遂に伴う、各パートナーへの利益還元です。アリアには医療施設という「現実的な実務の場」、ルカには情報網構築のための「莫大な資本」、バルカ教授には純粋な「研究環境」を提供しました。各々の専門性を最大限に活かせる形で資産を再配分することが、組織再建における最も効率的な投資と言えます。


【監査総局長への就任】

セラ主任に課せられた、ギルド本部の再編という過酷な業務です。エレナ首席監査官という「理想主義」に対し、セラという「現実主義」をぶつけることで、ギルドをより強固な実務組織へと変革させることを目的としています。


【魔法の資産価値】

不正な寿命供給が断たれたことで、魔法は再び「魔力石という有限な資源を消費する技術」へと正常化されました。今後は魔法の使用一回ごとに明確なコストが発生し、それが適切に帳簿へ計上されることになります。これは、国家という巨大なシステムの持続可能性を確保するための、最も重要な是正処置です。


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