第2話 おっさんは間違いなく魔術師である
ゴブリン。
それは邪悪で人間に害をなすとされる(以下略)。
一匹だけなら、それほど強くはない。剣の訓練を積んだ者であれば、そう苦労せずに倒せる程度の存在でしかないのだが、それでもごく稀に、ゴブリンの中には異常な戦闘力や統率力を持つ個体が生まれることがある。そして、その頂点に立つ存在こそが――ゴブリンエターナルチャンピオンである。
本来ならば、彼の出現によって人類の人口は大きく減少するはずだった。しかし、自称『足技の魔術師』による盛大な勘違いによって、そのゴブリンエターナルチャンピオンは、ほとんど人目に触れることすらないまま消滅してしまった。その結果、人類は生き残った。
だが同時に――世界の均衡が崩れた。
人間や亜人を管轄する白き神と、魔獣や妖魔を管理する黒き神。二柱の神は互いに勢力を削り合い、世界が一方に傾きすぎないよう調整していたのだが、その均衡を保つための存在であり、黒き神の側の切り札とも言える存在が、あまりにもあっさり消滅してしまったのである。
『……こうなっては、異世界からチート召喚をするぞ』
黒き神が苦々しげに眉を寄せながら呟くと、白き神も腕を組んだまましばし考え、それから重々しく頷いた。
『うむ。それも仕方ありませんね』
こうして――二柱の神は、禁断の一手を打った。
――世界への『イカサマ』である。
異世界から召喚された者は、レベル――999。無数のスキルに圧倒的なステータス、さらに異世界の知識まで持つ存在であり、まさに、チートと呼ぶにふさわしい力を与えられていた。
しかも――その種族は。
ゴブリン。
『ゴブリンからのチーレムとは……』
黒き神は口元を歪め、喉の奥で「くくく」と愉快そうな笑い声を漏らしながら、面白そうに地上を見下ろす。
『面白い』
その存在は、下手をすれば世界そのものを滅ぼしかねない。
――はずだった。
・・・
その頃、山奥では一人の男が修行に励んでいた。
「ふっ!」
ドンッ!
「ふっ!」
ドンッ!
「ふっ!」
ドンッ!
頭上には――二トン近い巨大な岩が乗っている。それを両手で支えながら、男は呼吸を整え、一定のリズムを崩すことなくスクワットを繰り返していた。
男の名は、ドレヴァンツ。かつてゴブリン退治を担当していた冒険者であり、本人はいたって大真面目な顔で、誰に見られているわけでもないのに額から汗を流しながら黙々と鍛錬を続けていた。
「ふっ、ふっ、ふっ、ふっ、ふっ……!」
ちなみに、医学的な常識から考えれば、人間が持ち上げられる重量には当然限界がある。しかし、ドレヴァンツはその常識の外側にいた。彼は鍛錬によって骨密度を極限まで高め――最終的には骨組織そのものをタングステン合金へと置き換えていたのである。
もっとも、それほど非常識な身体へと自らを変えてしまった本人は、それを大したことだとは思っていない。むしろ「少し鍛えただけ」という程度の認識であり、彼にとっては日々の努力の延長線上にすぎなかった。
「ふう……」
百回目のスクワットを終えると、ドレヴァンツはようやく息を吐き、肩で大きく呼吸しながら頭上の岩をゆっくりと地面へ下ろした。
ズズンッ!
地面がわずかに揺れ、土埃が舞い上がる。その場で腰に手を当て、額の汗を布で拭いながら、ドレヴァンツは満足そうに岩を見下ろした。
「そろそろ……」
少しだけ期待するように目を細め、彼は自分の握った拳を見つめる。
「そろそろゴブリンと戦っても、『役不足』と言われない程度にはなりましたかね」
以前、彼はゴブリン退治を担当したことがあった。そして――。
『ドレヴァンツさん、悪いんだけど……』
申し訳なさそうな顔をしながら、仲間から告げられた言葉はこうだった。
『ゴブリン退治ではあなたは役不足なんですよ』
そう言われ――パーティから追放された。
以来、彼は山に籠もり、ただひたすらに己を鍛え続けたのである。
「よし」
ドレヴァンツは拳を胸の前で握り直し、小さく頷くと、今度は別の修行へ向けて顔を上げた。
「水上ダッシュもやっておきましょう」
彼の修行は、まだ終わらない。
人間のトップスプリンターが全力疾走した場合、その速度は時速四十キロを超える。さらに、人間の身体には本来、自らの筋力を完全には引き出せない制限があるのだから、その限界を外せばもっと速く走れる。そして――十分な速度があれば、理論上、人間は水面を走ることすら可能になる。
「では……」
ドレヴァンツは川の岸辺に立ち、両足を軽く開きながら腰を落として構えた。表情は真剣そのものであり、これからとんでもないことをするという自覚など、本人にはまったくない。
「行きましょうか」
次の瞬間、ドレヴァンツは「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」と雄叫びを上げながら地面を蹴った。
ドンッ!
大地が爆ぜる。
猛烈な速度で駆け抜け、そのまま一切減速することなく川へ突っ込んだ。
ザバァッ!
普通なら、そのまま水中へ沈む。だが、ドレヴァンツは沈まない。水面を力強く蹴り、そのまま川の上を走っていく。
「よし!」
そして、そのまま対岸へ到着すると、ドレヴァンツは満足そうに胸を張り、汗を拭いながら何度も頷いた。
「うまくいきましたね」
その顔には、長年の修行が実を結んだことへの純粋な喜びが浮かんでいる。
「そろそろ、ゴブリン退治に再チャレンジしてもいい頃でしょう」
だが、彼には一つ問題があった。
強くなりすぎた身体は、燃費が悪い。
そこでドレヴァンツは、活動する筋肉を最低限まで落とし、さらに骨格を――タングステン合金からカルシウムへ戻した。
すると、あっという間にヒョロッとした、どこにでもいそうな魔術師の姿へ戻った。
「これなら大丈夫ですね」
自分の細い腕を確認したドレヴァンツは、安心したように頷く。
――そして、その日の夕方。
サルーンに、一枚の張り紙が掲示された。
――ゴブリン討伐求む。
辺境の小さな村が、ゴブリンの群れに襲われている。家畜は次々と連れ去られ、畑も荒らされ、すでに二組の初心者パーティが討伐に向かった。
そして――二組とも全滅した。
「……ゴブリン退治、か」
張り紙を眺めながら、冒険者たちは互いに顔を見合わせ、ざわめき始めた。
ゴブリンは初心者向け。それは間違いではない。だが、数が増えれば話は変わる。
人間の盗賊団だって、優秀な指揮官が大勢の部下を率いれば村を襲い、場合によっては都市を脅かすことすらある。ゴブリンだって同じだ。数、統率、地形、そして――指揮官。それらが揃えば、ただのゴブリンの群れでも恐ろしい脅威になる。
「……報酬も上がってるな」
一人の冒険者が張り紙を指差しながら苦い顔で呟く。
「二組全滅したからな」
隣の冒険者も腕を組んだまま頷いた。
「これ以上失敗したら、サルーンの評判まで落ちるぞ」
その言葉を聞いたマスターは、カウンターの奥から身を乗り出し、焦ったように店内を見回した。
「誰か、ゴブリン退治をしてくれませんかー!」
大声が響くと、しばらくして、ちらほらと手が上がった。
その中でも一際元気よく手を挙げた男がいた。
「はい!」
ドレヴァンツである。
「ゴブリン退治なら、ぜひ!」
白いローブにヒョロリとした身体、そして三十代から四十代ほどに見える、いかにも冴えない男だった。
「……おっさん、大丈夫か?」
近くにいた若い冒険者が、半信半疑といった顔でドレヴァンツを見上げる。
「はい!」
ドレヴァンツは胸を張り、満面の笑顔で答えた。
「数の多いゴブリンだぞ?」
念を押すように若い戦士が眉をひそめると、ドレヴァンツは何度も頷いた。
「大丈夫です!」
そして、過去の失敗を思い出したのか、少し誇らしげに胸を反らした。
「以前の私は、火炎弾しかまともに撃てませんでした」
「……うん」
相手は微妙な表情で頷く。
「ですが!」
ドレヴァンツは人差し指を立て、自信満々に続けた。
「今では、少し威力の強い魔法も使えるようになりました!」
「…………」
周囲に何とも言えない空気が広がった。
やがて冒険者の一人が頬を掻きながら隣へ顔を寄せ、小声で呟く。
「まあ……いないよりはマシか」
「そうだな」
隣の男も諦めたように肩をすくめる。
こうして、ドレヴァンツも討伐隊へ加えられた。
討伐隊は二十人ほどで、四人一組に分かれる。ドレヴァンツの組には二人の戦士と一人の斥候が加わったが、全員が新米だった。
「おっさん、よろしくな」
若い戦士が片手を上げながら声をかけると、ドレヴァンツも穏やかな笑顔で頭を下げた。
「はい。よろしくお願いします」
今回は急を要するため、幌馬車で村へ向かうことになった。
「幌馬車に乗れるなんて運が良かったな!」
一人の戦士が荷台に腰を下ろしながら、ほっとしたように笑う。
「ああ、歩きだったら大変だったぜ」
斥候も苦笑しながら頷き、隣に座るドレヴァンツをちらりと見る。
「おっさんなんか、特にな」
「そうですね。急いでいるので、馬車が使えたのは幸運です」
ドレヴァンツは何の疑いも持たず、素直に頷いた。
――こうして、一行は村へ到着した。
村は酷い有様だった。畑は荒らされ、家畜はすべて連れ去られている。
「人間への被害は?」
討伐隊の代表が険しい顔で尋ねると、村長は青ざめた顔で首を横に振った。
「幸い、まだありません」
そう答えながらも、村長の声には疲労と恐怖が滲んでいる。
「家畜をわざと連れ去りやすい場所に置き、人間を襲わせないようにしたのです」
「なるほど」
代表は顎に手を当てながら頷いた。
そして調査の結果、確認されているゴブリンは――約二十匹。
「では、森へ入る」
代表の号令で、討伐隊は森へ向かった。
最も熟練した冒険者が先頭に立ち、その後ろを斥候が周囲へ気を配りながら進む。しばらくして、斥候がしゃがみ込み、地面に残された足跡を指でなぞった。
「いた!」
森の中で、十匹ほどのゴブリンと遭遇した。
「GYAAAAAAAAAA!」
ゴブリンたちが一斉に叫び声を上げる。
「数はこちらが上だ!」
戦士が剣を抜き、仲間へ視線を走らせながら声を張り上げる。
「囲んで皆殺しにするぞ!」
「おおっ!」
冒険者たちが気勢を上げる。
ところが、ゴブリンたちは武器を投げ捨て、一目散に逃げ出した。
「……逃げた?」
一瞬、冒険者たちは呆気に取られて動きを止める。
しかし、すぐに熟練冒険者が剣を振って指示を飛ばした。
「追え!」
「はい!」
「巣穴まで追い込んで、まとめて始末するぞ!」
「おおっ!」
そう言って熟練組が駆け出しかけたところで、先頭の冒険者が残った者たちへ振り返る。
「お前たちはここに残って、ゴブリンの武器を回収しておけ!」
そう言い残すと、熟練組は逃げるゴブリンたちを追い、森の奥へ消えていった。
「……俺たちは武器回収か」
残された戦士が肩をすくめる。
「まあ、命令だしな」
斥候もため息をつき、地面へ視線を落とした。
ドレヴァンツたちは仕方なく、地面に落ちた錆びたナイフや石斧を拾い始めた。
――その時。
森の奥から、突然、悲鳴が響いた。
「うわああああああ!」
「ぎゃあああああ!」
「……?」
ドレヴァンツたちは一斉に顔を上げ、互いの顔を見合わせる。
「今の……」
戦士が不安そうに眉を寄せながら呟く。
「行ってみるか?」
ドレヴァンツが静かに頷いた。
そして三人は、森の奥へ進んだ。
そこには――死屍累々。
先ほどゴブリンを追っていった冒険者たちが、地面に倒れていた。周囲の木々や茂み、岩陰から大量の矢が放たれたのだろう。地面や木の幹には何本もの矢が突き立ち、明らかな待ち伏せの跡が残されていた。
「……待ち伏せ?」
戦士が顔を青ざめさせ、周囲を見回す。
その時、木陰から一匹のゴブリンがゆっくりと姿を現した。
普通のゴブリンより一回り大きく、筋肉も体格も明らかに違う。その姿を見た戦士たちの間に緊張が走る。
「ふふふ……」
ゴブリンは口元を吊り上げ、倒れている冒険者たちを見下ろしながら愉快そうに笑った。
「たわいない」
そう言ってから視線をドレヴァンツたちへ向け、さらに鼻で笑う。
「逃げたのが偽装とも気づかず、ノコノコ巣穴へ突っ込んでくるとはな」
ドレヴァンツは怯えることもなく、ゴブリンの身体をじっと観察するように見つめていた。そして、何かを思い出したように小さく頷く。
「聞いたことがあります」
「ん?」
ゴブリンが眉をひそめる。
「ゴブリンの中には、ホブゴブリンという体格も能力も優れた個体がいると」
「違うな」
ゴブリンはニヤリと笑い、胸を反らした。
「俺は、ただのホブゴブリンじゃない」
そう言って剣を抜き、その切っ先をドレヴァンツへ向ける。
「神に選ばれし――」
そして、誇らしげに名乗った。
「異世界チーレム主人公ゴブリンだ!」
「…………」
ドレヴァンツはしばらく無言で考え込んだあと、真面目な顔のまま頷いた。
「なるほど」
その一言に、ゴブリンの顔がわずかに引きつる。
「では、強敵ですね」
「レベルは――999!」
ゴブリンが胸を張り、剣を振り上げながら叫ぶ。
「スキルも大量にある!」
そして「死ねぇぇぇぇ!」と叫びながら、一気にドレヴァンツへ襲いかかった。
「おっさん!」
仲間が叫び声を上げる。
剣が迫る――その瞬間、ドレヴァンツが小さく呟いた。
「活動筋力――五十パーセント開放」
「……?」
ゴブリンの動きが一瞬止まり、ドレヴァンツの身体が僅かに沈む。
「反射神経、増幅」
さらに短く言葉を重ねた直後、ドレヴァンツは低く構え直す。
「骨組織――置換」
次の瞬間。
ドゴォンッ!
「ぐぼぉわああああああああああああああ!」
ドレヴァンツの蹴りがゴブリンの腹へ突き刺さった。
巨体は猛烈な勢いで吹き飛び、木を一本、二本、三本となぎ倒し、ようやく遠くの地面へ叩きつけられて止まった。
「ば……かな……」
ゴブリンが震えながら顔を上げる。
「俺は……レベル999……だぞ……!」
ドレヴァンツは何が問題なのかよく分からないという顔で首を傾げた。
「レベルというものが何を意味するのかは分かりませんが、私の足技は、地道な訓練の賜物です」
「な……!」
「ですから」
ドレヴァンツは静かに構えを取り、真剣な目でゴブリンを見つめる。
「見ただけで真似できるようなものではありませんよ」
「…………」
ゴブリンは額に青筋を浮かべ、歯を食いしばる。
「ならば!」
怒りに任せるように片手を前へ突き出した。
「技能奪取!」
――何も起こらない。
「……?」
自分の手を見つめたあと、ゴブリンは困惑したように目を見開く。
「なぜ奪えない!」
「だから言ったでしょう」
ドレヴァンツは本気で不思議そうに首を傾げながら答えた。
「地道な訓練の賜物だからです」
「…………」
ゴブリンの表情から、余裕が少しずつ消えていく。
「では、魔法ならどうだ!」
苛立ったように叫び、両手を掲げる。
「ファイヤーブラスト!」
巨大な炎が放たれる。
「ふむ」
ドレヴァンツは炎を見つめると、特に慌てる様子もなく手を掲げた。
「火球生成」
掌に小さな火球が生まれる。
「では、こちらも」
そう言って、その火球を足元へ落とした。そしてゆっくりと足を振り上げる。
「私が習得した新たな火球よ――」
その瞬間、ドレヴァンツの目が妙に燃え上がる。
「もっともっと!」
足を振り下ろす。
「熱くなれよおおおおおおおおおおおお!」
ドゴォォォォォォン!
「ネオファイヤァァァァァァァァァ!」
蹴り出された火球が猛烈な勢いで飛んでいく。炎は赤から黄色へ、黄色から白へ、そして青白い光へと変わり、周囲の空気そのものを焼きながら突き進んでいった。
――熱い。
とにかく熱い。
「な、なんだそれは!」
異世界チーレム主人公ゴブリンは、さすがに表情を引きつらせながら両手を突き出した。
「こんなもの――!」
炎を受け止める。
「止めてみせる!」
そしてゴブリンの口元に、再び笑みが浮かんだ。
「ふはははは!」
「……!」
ドレヴァンツは目を見開く。
「私のネオファイヤーショットを止めるとは……」
ゴブリンは炎を押し返しながら、勝ち誇ったように笑う。
「これでも食らえ!」
炎がさらに巨大化し、膨れ上がった炎がその勢いのままドレヴァンツへ迫った。
「技はいずれ破られるもの」
ドレヴァンツは冷静な表情のまま炎を見据える。
「だからこそ」
そう呟くと、迫り来る炎を真正面から受け止めるのではなく、足を大きく振り上げて蹴り上げた。
「この時に備えて、新しい技を編み出しておきました!」
「何っ!」
蹴り飛ばされた炎が空高く舞い上がり、それを追うようにドレヴァンツも地面を蹴って跳躍する。
「まず!」
空気を蹴る。
「いつもの百倍高く飛ぶことで――威力百倍!」
さらに身体を回転させる。
「そして!」
ぐるぐるぐるぐる。
「いつもの百倍高速回転することで――さらに威力百倍!」
ドレヴァンツの身体が信じられない速度で回転し始める。
「最後に!」
空中で両足を揃えながら、ドレヴァンツは自信満々に叫ぶ。
「両足で蹴ることで威力二倍!」
そして、満面の笑顔で計算結果を口にする。
「つまり!」
――計算開始。
「威力二万倍!」
「いや待て!」
ゴブリンが初めて焦ったように叫び、顔を引きつらせる。
「お前、それは――ゆで」
「もっともっと!」
ドレヴァンツは両目を輝かせながら、さらに声を張り上げた。
「熱くなれよおおおおおおおおおおおおお!」
「だからおかし――」
「トルネードォォォォォォォォ!」
炎が渦を巻く。
「ファイヤァァァァァァァァァ!」
世界が白く染まった。
温度は数万度、数千万度へと上がり、そして――もはや炎と呼べる領域すら超え、空間そのものが歪み始める。
その中心に黒い球体が生まれた。
それは、小さな漆黒の球。
――漆黒球電。
ドレヴァンツの理屈によれば、なんと四百億万度である。
「いや待てぇぇぇぇぇぇ!」
異世界チーレム主人公ゴブリンが目を見開き、両手を振りながら絶叫した。
「それはさすがにおかし――」
次の瞬間、ゴブリンは跡形もなく消滅した。
そして漆黒球電も、何事もなかったかのように消えた。
「……」
「…………」
「………………」
残されたゴブリンたちは、誰一人として言葉を発することができないまま、呆然とその場に立ち尽くしていた。
ドレヴァンツはそんな彼らを見回し、それから倒したゴブリンのいた場所へ目を向ける。
「さすがホブゴブリン」
そう言って、満足そうに頷いた。
「強敵でしたね」
その後、残ったゴブリンたちは戦士や斥候と協力して討伐された。逃げた個体もいたが、村への被害を抑えるには十分だった。
そして討伐を終えたドレヴァンツは、満足そうに息を吐く。
「ふう……」
そこへ、新米戦士が複雑な顔をしながら近づいてきた。
「おっさん」
「はい?」
ドレヴァンツが振り返る。
戦士は何とも言えない表情で頭を抱え、それから恐る恐る口を開いた。
「……どう考えても」
しばらく言葉を探したあと、戦士は呆れ顔で言う。
「あんたにはゴブリン退治、あきらかに役不足じゃね?」
「…………」
ドレヴァンツが固まった。
しばらく瞬きすらせず立ち尽くしたあと、やがて肩を落とす。
「そ、そうですか……」
声まで小さくなる。
「いっぱい修行を積んだのですが……」
「いや、そういう意味じゃなくて……」
戦士が慌てて両手を振る。
「それは……真に残念です」
しゅん。
ドレヴァンツは本気で落ち込んだ。
そして、その日の夜、彼は一人で山へ戻っていった。
「……ホブゴブリン相手にネオファイヤーショットを止められた」
山道を歩きながら、ドレヴァンツは俯き気味にぶつぶつと呟く。
「しかも、少し苦戦してしまった」
拳をぎゅっと握りながら、さらに小さく続ける。
「やはり……まだまだですね」
そして山へ戻った彼は、静かに決意する。
「今度は止められないようにしなければ」
――翌日、山奥。
「まずは五トンの岩からですね」
ドレヴァンツは巨大な岩を見上げると、いつものように真剣な顔で両手を伸ばし、そして――。
ドンッ!
修行が再開された。
・・・
その頃、神界では、白き神と黒き神が無言で地上を見下ろしていた。
『…………』
白き神は腕を組んだまま。
『…………』
黒き神もまた、眉間に深い皺を刻んだまま。
やがて長い沈黙の末、黒き神がぽつりと呟いた。
『……なんなんだ、あれは?』
白き神も地上のドレヴァンツを見つめたまま、疲れたように答える。
『私に聞くな』
黒き神は両手を広げ、納得できないという顔をしながら続けた。
『レベル999だぞ?』
『知っている』
『チーレム主人公だぞ?』
黒き神がさらに声を張り上げる。
『知っている』
『なのに……』
二柱は同時に地上を見る。
そこでは、ドレヴァンツが何事もなかったかのように巨大な岩を持ち上げ、真剣な顔で鍛錬を続けていた。
『…………』
『…………』
しばしの沈黙のあと、黒き神が半ば諦めたように呟く。
『バグ?』
白き神はしばらく黙っていたが、やがてゆっくりと頷いた。
『……バグだな』
世界の命運を懸けた神々の作戦は、こうして、よく分からないおっさんによって、またしても台無しになったのである。




