乙女の吐息
1
「こ、これはまずいかも・・・」
後方監視モニターを見つめながら、新一が独語する。
その視線の先には、もし地上にいたならば残像すら見えないはずのスピードで近づいてくる赤き稲妻。
ディーバのアンスリウムの姿があった。
「第二チェック・ポイントはまだなのか?」
レース規定に定められた低空飛行義務の宙域を踏破し、恒星アレグロから離れ始めたアスフォデルの内部で、新一はやきもきしながら次の浮遊衛星を通過する瞬間を待っている。
「通過予測時間は、後三分後となっています。もう一度、ブーストを使用しますか?」
先を急いでいると思ったのであろう、キッドが確認してきた。
新一はその問いに、首を横に振って応えている。
レースをしているのだから、先を急がないわけはないのだがブーストの使用限度は二回。そのうちの一回をすでに使ってしまっているのだ。
レースはまだ半分以上残っているのに、ここで使い切ってしまう訳にはいかない。
「まさか、敵にもブースト機能が付いているとはな、こっちの価値観にはない装備だと、ミレィエさんが言ってたから楽勝だと思ってたんだけど・・・」
そういっている間にも、モニターに映る赤い矢はぐんぐん大きくなり、追いつかれるのは時間の問題と思われた。
あるいは、ここで命を失うことになるのでは・・・。
純然たる不安、恐怖が新一の心に闇を現出させる。
それもまたよし。
あの美少女のために命を賭けて闘う。
それは男として考えられる限り最高の栄誉、望んだところでおいそれと叶えられるものではない。たとえ命を失うことになったとしても、こんなシチュエーションなら悔いはなかった。
しかし・・・。
死ねない。死ぬわけにはいかない。
彼女が僕の身を案じてくれている限り、僕を必要としている限り、彼女の幸福な笑顔を見るまでは絶対に死ねない!
知り合ってわずかに数日。
まともに二人きりで話しをしていられたのはほんの数時間だけ、互いに好きとも愛しているとも告げてはいない。
熱く燃える思いは、時に言葉を失わせるものなのだ。
もう、二人の間に言葉は必要なかった、言葉にせずとも互いの心は一つであったのだ。
二人の心は、愛という言葉が陳腐に思えてしまうほどに熱かったのである。
・・・自分でも、相当に臭いことを考えているとの自覚があった。
こんなセリフをドラマや映画のナレーションかなにかが使っていたら、思わず肩をすくめて冷笑の一つもするところである。
でも、今なら心の底から胸を張って言えた。
彼女の、あの笑顔のためなら死ねる、と。
彼女のために死ぬ、それは彼女を愛するものにとっては誇りですらあった。
しかし、自分のために愛する人が命を落とすというのは耐え難い苦痛である。
もし、自分がその立場になれば生きてはいられまい、身体は生きていたとしても心が、魂が死んでしまう。
彼女にそんな思いはさせられない。
だからこそ思うのだ。
死ぬわけにはいかない、と。
ビッ! ビッ!
物思いに更ける新一の耳を、キッドの警告音が刺した。
「第二チェック・ポイント接近中!」
思わず視線をメイン・モニターに移す新一。
前方にリング状の浮遊衛星が見え、一瞬で後方へと消える。
「第二チェック・ポイント通過!! 第三チェック・ポイントまで2400光秒! 障害となる【乙女の吐息】までは約1000光秒、メイン・エンジンへのリミッター・オン! 機関出力低下、恒星間出力から惑星間出力へ移行します。速度、光速の二分の一」
明瞭な声で、システム内の操作手順を自ら復唱し、確実に作動していることを確認、報告するキッド。その語尾に、レーダー直結の警告ブザーが重なった。
第二チェック・ポイントの通過に注意が向いていた僅かな間に、後方に迫っていたアンスリウムが一気に差を縮め、とうとうアスフォデルの船尾に触れそうなほどに近づいてきていたのである。
もはや、避けたり逃げたりのできるような距離ではなかった。
「キッド! 重力場コントロール、斥力場モードにセット。全方位放射!! 急げっ!!」
もう逃げられない。
そう悟った刹那、新一が命じる。
その言葉が終わるより速く、思考同調機の働きによって重力場コントロールは始動していた。そうでなかったら、数百分の一のタイミングでアスフォデルは新一の棺桶と化し、即座に火葬にされるところであった。
一気に加速してきていたアンスリウムは、アスフォデルの船尾に向けて船底から黒い塊を撃ち出してきたのだ。
本体のほうはそのまま滑るようにして上昇してアスフォデルを躱すと、はるか前方へ一瞬のうちに消えていった。
撃ち出されたそれは鎖を外したアンカーで何の攻撃力もない、ただ重いだけの塊であった。しかし、ただの塊であっても限りなく光速を越えるワープ・スピードで飛行していたアンスリウムから、その速度のまま撃ち出されたものである以上、その衝撃もただの塊というわけにはいかない。
S.F小説が好きな人や、科学的な知識の持合せがある人なら判ると思うが、ごく初歩的な相対性理論を思い出していただこう、それはつまり、光速に近づくにつれ、物質の質量は増大する。ということである。
例えば、光速の九九・九パーセントのスピードで航行する船の質量は、もとの質量の約二二倍に増える。光速の九九・九九パーセントだと、七十倍となり、九九・九九九パーセントだと、二二三倍となる。
アンカーの質量が、だいたい30トンとして単純に二二倍になったとすれば、660トンである。
もちろん実際には撃ち出された時点で速度はかなり落ちているはずだから、質量がそこまで増大することはないのだが、それに近いものになるのは確かであった。
それだけの質量をもった物体がぶつかったりすれば、ぶつかったというほどではなく触れただけであったとても、その衝撃は計り知れないものになるはず、いや、なるのである。
アスフォデルはその衝撃により、前方へ大きく跳ね飛ばされた。ちょうど、先をいくアンスリウムを追う形になる。
その行く手には、可視光線を除くあらゆる電磁波に働きかけ、その直進を阻害するガスが充満する、概算で三億五千万平方光秒に及ぶ広大な宙域があった。
通称【亡者の吹き溜り】、そこは文字通り周囲の星々が宇宙へと進出し始めた頃に行方を絶った、開拓者の船が数多くさまよう場所として知られている。
今でも、何の装備も無しに入り込んで生還できる確率は極めて低い。
まして、概算600トンの衝撃を受け、弾け飛んだ船とあっては、その生存率は…。
2
「・・・・・・・・・。つっ! いててててて、…こんだけ痛いって事は、死んではいないって事だよな。一応は・・・」
明かりが消え、音の失せた静寂を新一の声が破った。
「キッド、生きてるか? じゃない。機能してるか?」
もしぶっ壊れていたら、アミルナとの約束を果たすどころか、このままここで死んじまう。その恐怖が、声を震わせている。
「おい! キッド! おいってば!!」
いくら死ぬ覚悟はしてある。などと強弁していても、実際に死が目の前にあれば平静でいられないのが心をもち、考えることのできる生き物の性である。
いつ死んでもいい、と言っている人間に限って、いざって時には往生際が悪いもの。で、ある以上新一がこの後に及んで焦って怒声を張り上げたとしても、やむおえないことであろう。今だ十五歳の健康な男なのだ、まだまだやり残したことはいくらでもある。
焦って当然であった。
すくなくとも、是非も無し。などと達観する奴よりは好感がもてる。それは確かだ。
・・・長い沈黙が続く。
堪り兼ねて、もう一度怒声を発しようと口を開いた新一。その耳に古いテレビやパソコンでおなじみのビープ音が届いた。
電源を入れたときに出る、あれである。
「・・・システムに異常発生。アプリケーション【キッド】は予期せず停止、リセットして再度立上げます」
機械的な声が告げる。
どうやら、強烈なショックのために【キッド】を形作るプログラムに支障をきたしたようだ。
メイン・コンピューターが低く唸り、メモリーの読み込みが始まった。
「ピピッ、・・・シン。無事ですか?」
数分の沈黙の後。【キッド】が目覚め、尋ねる。
「僕より、おまえのほうが無事じゃないようだけど?」
キッドが目覚めると共に、それまで消えていた各モニターやメーターが動きだし、船体の損傷カ所を示し始めていた。
それによると、アスフォデルの状態はハッキリ言ってボロボロだった。どの項目を見ても、画面が真赤なのだ。
もっとも、あれだけの衝撃を受けて、損傷ですんでいること自体が奇跡のようなものなのだが・・・。
本来なら、あのアンカーが当った時点で宇宙の塵になっていてもおかしくはないのだ。新一が怪我ひとつなく無事でいられるのは衝突の瞬間、咄嗟に斥力場で全体を包んだおかげである。
そうでなければ、新一は死に、アスフォデルは航行不能になっていただろう。
まぁ、現状もたいして変わらないのかも知れなかった。エンジン機関をはじめ、相当ひどく傷ついているのが素人目にもはっきりと判る。
もちろん、レースが危険なものであるのは承知の上で参加しているのだから、一応自己修復機能なるものが設置されてはいた。
それでも、船体四カ所に設置されている自己修復機のうち、二つがかろうじて動いてはいるが、このままでは動けるようになるまで丸三日はかかるだろう。
「・・・・・・。どうせ、この宙域ではレーダーは役にたたないし、通信機と対空砲は初めから使うつもりないんだから、自己修復機能の全力を挙げて旋回力と推進力、エンジン機関を重点的に治してくれ、他は後回しだ」
それでも、レースを投げる気のない新一が命じる。
とにかくエンジンがかかって動けさえすれば、他の故障カ所など移動しながら治せばいい。動かないことには話しにならないのだ。
「故障した二基の修復機を治すのが先決ではありませんか?」
コンピューターらしく、合理的な提言をキッドがする。
しかし、新一の応えはノーだった。
「そんなものは、通常航行が可能になってからだ。とにかく動けるようにしろ! どうしたって、この宙域を出るまでは低速での手探り航行をするしかないんだから、治すのはその間でもいいだろう!!」
こうまで言われると、さすがにキッドは行動が早かった。
無事だった修復機二基を機関室に差し向け、すぐさま修理にかからせた。
そのおかげなのか、データほど実際の故障はひどくなかったのか、十二分後にはかろうじて通常航行での移動が可能になった。
これは最速時の1000分の1に相当する速度である。
「まずはこれでいい。キッド、この宙域を脱する方法に付いて、なにか手がかりはないのか?」
上下左右、どこを見ても闇しかない広大な宙域を一望して、新一が問うた。このままでは明かりのない山路で団栗を探すようなもので、闇雲に探していては日が暮れるどころか夜が明けてしまう。
「近くに第三チェック・ポイントがあるはずです。その光を探すしかありません。ですが、この宙域では【亡霊の吹き溜り】と言うだけあって、怪火が飛ぶと言われております。本物を見分ける目が重要になるでしょう」
怪火、ね。
宇宙に進出するほど科学が進んでいても、文化圏が違っていても知恵あるものに怪奇現象はつきまとうものなのかと、なぜか妙におかしく思えて、新一は苦笑している。
「ここでは、わたしは役にたてないと存じますので、船の航行に関するものを除く、全機能を自己修復に回したいのですが、よろしいでしょうか?」
操船は任せる、と言うわけだ。
「もちろんだ。そうしてくれ」
全機能を総動員すれば、それだけ修理も速く終わるだろう。
そう考え、新一は二つ返事で許可する。
そして、改めて周囲に目を向けた。
唯一つの明かりを求めて・・・。
しかし、そこは漆黒の闇であった。
何も見えはしない。
やむなく、少し進んでは辺りを見渡し、方角を変えてまた進む、そんな行動を繰り返すことになる。
焦れば負ける。
そう自分に言い聞かせ、はやる思いを抑えつけねばならなかった。
どれだけ時間が経ったのか、やがて新一の視界に小さな明かりが点った。
この宙域一杯に漂うガスのためだろうか、その明かりは新一を招き寄せるかのように瞬いて見える。
「真理へと続く天道か、それとも悪鬼の造った魔道なのか? どちらにせよ、行くしかないんだよな」
自らを励ますように独語すると、コンソールに手を伸ばして船の向きを変え、ともすれば消えてしまいそうな微かな灯火へと進んでいく。
コンソールを使わずとも、またキッドが機能から切り放されていても、船の操縦ぐらいのことは思考制御でもできるのだが、なぜか思考制御で動くことは、この場合危険な気がしていたのである。
だいたいが思考同調機なるものを知ったのは、使うようになったのは僅か二日前、それまではS.Fやアニメを通してのみ存在を肯定していたに過ぎないのである。すぐに信頼できるものではなかった。
実際に自分の手で動かしている手応えみたいなものがないと、どうにも落ち着くことができなかったのだ。
明かりは次第に近づいてくる。
こちらが進んでいるのだから、近づくのが当たり前なのだが、それでも新一はなぜか、その事実を素直に認めることができずにいた。 おかしい。
何が、どう違うのかは自分でも判然としてはいなたったのだが、奇妙な違和感を感じていた。
これ以上進むのは、危険じゃないか?
そうも思った、だが止めることはできなかった。ここで船を留めたとしても、何も始まりはしないのである。たとえ危険だとしても、進まねばならなかった。
虎穴にいらずんば、虎子を得ず。そんな言葉が頭の片隅を過る。
やがて、明かりは大きく見えるようになり、その光が船内にも進入するほど近づいた。
そのときである。
「・・・んっ?」
新一は自分自身はっきりしなかった違和感の理由を知った。
「影がない」
本来光と影は一対のものである。光あらば、そこには当然影ができ、影ができてあればこそ、光はその存在を知ることができる。それが自然の理である。なのに、この光は影をつくっていないのだ。
船内に雑然と置かれたもの。新一が飲んだコーヒー、本当の名はもっと複雑な長いもので地球人には発音しづらいものであった為に翻訳する際には味が似ていることからコーヒーとなるようにした、薄墨色の液体を入れたコップや原色の嵐に思わず身を退いてしまったスナック菓子、その袋に光は確実にあたっているのに反対側にできるはずの影が、まったくないのである。
「この光そのものが普通じゃないのか、それとも僕の目、もしくは頭がどうかしてしまったのか。問題はそれだな」
大袈裟な身振りで腕を組み、新一が唸った。
自分で自分の存在を確認するためである。
そうしないと、世界から自分だけ取り残されたような不安感に押しつぶされそうだったのだ。
微動だにせず、ジッと光を見つめ続ける新一。その目が、ふと後部モニターへと向けられた。
「・・・っ!! わっ! あぶない!!」
後部モニターには後方から突進してくる船の艦影と、ライトの光が映っている。
とっさに操縦悍を左に目一杯倒し、左回りに回転して躱そうとする。そうして、360ならぬ270度回転したところで、新一の目前にその船は止まった。
どこかで見たことがある。
そんな気がして、目を見開いて見つめる。その視線の先、船のコクピットの内に、新一は信じられないものを見た。
「・・・ぼ、僕がいる」
間違いようもないアスフォデルの船体、そのコクピットにはこれまた間違おうはずのない自分の姿があった。
そのもう一人の新一は、船を留めて腕を組み、なにやらしきりに考え込んでいる。
「あれ? これは・・・」
驚愕が恐怖に変わり、恐怖が興味にとって変わったとき、新一はあることに気がついた。そこにいる自分が、つい先刻までの自分と同じ行動をとっているということである。
やがて新一の見守る中、その自分自身はあわてた様子で操縦悍を倒し、左回りに回転すると見つめ続ける新一、アスフォデルと重なった。
一瞬、目を閉じてなんらかの衝撃に耐えようとした新一だが、何事も起こらぬまま数分が過ぎ、恐々目を開ける。
そこには、同じように自分の乗ったアスフォデルがいた。
これによってはっきりしたことが二つある。一つは、今も目の前にいる自分が実体をもたない幻に過ぎない、ということ。もう一つは、そこにいる自分が一瞬前までの、つまりは過去の自分が現在の事象として連続しているにすぎないということだ。
それがどんな理屈でそうなるのか、そんなことは科学者ではない新一には想像もできなかったが、もし、この現象が辺り一帯に流布しているガスによって引き起こされたものだとすれば新一を迷わせた、悩ませたあの光もまた、幻である可能性が高いことになる。
「・・・僕の幻は後ろから、僕を追ってきた。なら、あの光も来た方向から行った方向へと伸びているはず」
新一は、そう推測して光の進んできた方向を探ろうと試みた。
角度を変えて距離を離すと、光が一直線に伸びているのを確認することができる。
だが、それだけではどっちが始点で、どっちが終点なのか判断するのは難しい。
光の帯を見続けること二分、やっと光の帯が途切れる瞬間を発見することができた。同時に始点がどっちなのかもはっきりした。
それさえ判れば、もう悩むことはなかった。
光の帯の中を逆進していけば光を放った元々のものにぶつかるはずである。そして、それは十中八九第三チェック・ポイントなのであった。
「鯛の滝登り。果たして鯛は天駆ける龍となることができるのか?」
3
新一が、【乙女の吐息】脱出に成功しつつあったとき、先に進入を果たしたはずのディーバは完全な迷走状態にあった。
まっすぐに突進することしか知らない彼女のこと、あてもなくただひたすら何もない虚空に向けて闇雲な突進を繰り返していたのである。
ある程度飛び続けると向きを変え、また突進する。
そんなような飛び方で脱出口を探していたのだ。いや、その表現は正しくないかも知れない。スピードと調子に乗って何も考えずに突入してしまった、この宙域を突き抜けて通常空間に早く出たい。その思いだけが彼女を支配していた。
「もういや! なんで外に出れないの!! こんな気味悪いとこ早く出たいのにィ~!!」
叫んだところでどうにもならない。
もう少しで通常空間というところまで行っておきながら、その寸前で踵を返し、まったく別なところへと飛んでいくのだからいつまでたっても、外になど出れるはずはなかったのである。
「あ~ん。もういや! 嫌ったらいや!! いやいやいやいやいや!!」
レース前半に見せた残忍さが嘘のように思えるほど、涙でグショグショになりながら喚いて、ディーバはまたスピードを上げた。
レーダーが役に立たず、肉眼による安全確認がすべての現状では、自殺行為とも言える行動である。言うなれば目隠しをして車を運転するのと同じであった。
が、今回だけは、それが功を奏することになった。
半狂乱になって、言葉にならない声をヒステリックに叫びながら、目を閉じて突っ走るディーバと乗艦アンスリウムが幸運にも、もちろんディーバにとっての幸運であって新一や他の参加者にとってはやっかいな奴を排除しそこなった不運なことになるのだろうが、【乙女の吐息】ガスの充満する宙域を脱して通常空間に出ることができたのである。
「ディーバ様。デイーバ様!」
アンスリウム搭載のAI・C思考同調機フェイが、回復したレーダーによって通常空間に出たことを知り、主人であるディーバに注意を促した。
この時点でも、彼女は目をつぶり奇声を発していたのである。
「・・・・・・? あら!! 外に・・・出れたのね」
フェイの声にハッとして、目を開けたディーバが満天に輝く星々の姿を確認して相好を崩した。
鮮血のプリマドンナの異名からは想像もできないほどの純朴な微笑みである。
鬼の目にも涙。との言葉もあるが、この時のディーバが見せた涙こそ、それであったかも知れない。
だが、たとえ鬼の目から出たのであっても女性の、厳密に言えばディーバは女ではないのだが美人ではある。その目から溢れ出る涙は透明な真珠のような暖かさと美しさを秘めていた。
「ま、当然よね。あたしほどの美女を徒花にするなんて勿体無い事、神様だって許しゃしないわ」
可愛いとこもあるじゃないか、と思ったのも束の間、すぐにいつもの扇情的な表情に戻って哄笑する。
鬼の目に涙が浮かぶのは本当に、ときには、であるらしい。
頬を流れ落ちる涙を袖で拭い取り、ディーバが声を上げる。
「遅れたぶん取り戻さなきゃね。飛ばすわよ!」
普段の調子に戻ったディーバ。それでも、その瞳は涙を拭いた後だと言うのに、潤んでいた。
その少し前、惑星アタージョでは…
「・・・姫・・・様」
新一の乗るアスフォデルが強烈な一撃を受け、跳ね飛ばされたのを見て死人のように真っ青になったアミルナを元気づけようと声をかけるミレィエだったが、なんと言ったらいいのか判らず。ただただ姫の気持ちが落ち着くのを待つしかなかった。
一方、そのアミルナ姫は、新一が死ねないと考えていたのと同じ理由で、新一は死んだりしないと信じていた。愛し愛されている自分を置いて死ぬわけがないのだと。
自分自身に言い聞かせていた。
それだけが、ともすれば失神しそうなアミルナ姫の心を奮い立たせ、支えていたのである。
「平気じゃ、平気に決まっておる」
気丈にも、笑みすら浮かべてアミルナが囁く。しかし、その声まで気丈にはなれていなかった。微弱ながら震え、かすれている。
他の者ならば気づくこともできなかっただろうが、長年仕えてきたミレィエには隠し通せるものではなかった。
だが、その心情を汲んであげる事のできる大人の、ミレィエは深く追求しようなどとはせず、必死に不安と闘っているアミルナの後ろ姿を慈しむように見守っていた。
新たに声をかけることもせず、姫の祈りが叶い、アスフォデルが、新一が早く【乙女の吐息】から出てくるのを願うミレィエの視界の中で、アミルナの身体がつくる輪郭が心持ち硬直した。
訝しげに、姫の見つめるテレビモニターを見て、ミレィエはその理由を知った。そこには、ミレィエの苦心作アスフォデルと共に新一を文字通り闇の世界に叩き込んだ、ディーバ・ハマンドリアの乗るアンスリウムの姿が大きく映し出されていたのだ。
勝負の世界が厳しく綺麗事では済まないことなど幼いときから一国の姫として、国事はもとより軍事に関しても帝王教育を施されたアミルナにはよく判っていた。しかし、現実に自分の愛する者を叩きのめした者に寛大でいることなどできるはずがない。
もし、このままテレビ映像がアンスリウムを映し続けていたら、アミルナは冗談でなく憤死していたに違いない。
だが、幸いなことに一瞬の間を置いて、別の場所から別の艦影が抜け出してきて、画像が切り替わった。
この瞬間の二人の劇的な表情の変わりようこそ見物だったろう。
口では強気なことを言っている姫にしろ、姫を気遣うあまり自分の心情を認識しきれていないミレィエにしろ、不安で青ざめていたのが、一瞬の間に喜びに破顔したのである。
そして、その艦影が画面に大映しになった途端、二人の口から歓声が上がった。
「新一!!」
「アスフォデル!」
よんだ名は違っていても、その意味することと二人の気持ちは同じであった。自分自身と同等とも言える大切なものが戻ってきた、その事を何より喜んでいる点で。
「見てみよ。だから言ったであろうが? 平気じゃと!!」
誇らしげに微笑むアミルナ。その無垢な笑みにミレィエも笑みをかえす。
この先どうなるにしても、二人ともにもう大丈夫。そんな気になっていた。
『レース最大の難所と言われる【乙女の吐息】を真っ先に脱したのは鮮血のプリマドンナ、ディーバ・ハマンドリア。それに遅れること二分四十秒、アスフォデルを操る新一が出てきました! 出てきたのはディーバのほうが先、しかし第三チェック・ポイントには新一のほうが近い。時間的な遅れを差し引いたとしても時間的には約一分二十秒の差を付けている計算になります。詰まるところ依然としてトップはアスフォデル新一、アンスリウムのディーバは追う立場を変えることができません。更に、その後方には後を追う三隻の船があります。その差、約四分。まだまだ先の読めない状況です。どうやら勝負の行方は後半に持ち越されそうだ。次に彼らを待つのは宇宙潮流と、その流れに翻弄されるアステロイド地帯、名付けて《シユムプレガデス(ぶつかり合う島)》の二つからなる【聖女の肘打ち】果たして、彼らは生き延びることができるでありましょうか!!』




