紅の淑女
「・・・ください。起きてください、蒸し焼きになってしまいますよ。起きてください」
・・・う~ん・・・うるさいなぁ・・・・・・。
「・・・あと五分」
「起きろちゅうとるのんが、わからんのか!おんどれ、わしを怒らしたらどないなる思うとるんじゃい!!」
「おお。見事にイッちゃったな」
もっとも本来こういった、べらんめ~口調がAI・Cには組み込まれていないのを知って、組み込んでくれるようミレィエ技師長に頼んだのは新一本人である。
むろん、この口調で話すときはいつもの冷静さはかなぐり捨てて、完璧にイッちゃった叫びになるのだ。このギャップは結構すごいものがある。
「のんきに寝ている場合じゃありませんよ。すでにこの船は次のエリアに入っているんです。前方をご覧ください」
キッドが注意を促す。
口調も声も余り感情を感じられないのだが、言葉の一文字一文字の間隔が異様に短いことから、相当に切羽詰っていることがわかる。
メインモニターはすでにキッドによって明度調節がされていた。そうでなかったら新一の目は焼け付くところだ。
なにしろ、恒星アレグロが120万キロにまで迫っているのである。
その光度は地球から見た、太陽の比ではないのだ。
「・・・・・・! ・・・・・・!! ・・・・・・!!」
普通、人は鏡などを使わない限り、自分の表情の移り変わりをさほど気にはしないものである。
しかし、この時の新一は自分の表情の変化を自覚することができた。
初めは驚きと感嘆、それから不安と予感、最後に恐怖と怯え。
初めは興奮のために赤く、続いて急激な血液の移動で無数の縦線が入り、最後に血の気が完全に引いて真っ青になるのを、である。
「こ、これがフレアってやつか、話には聞いたことがあるし、絵は何度も見てるけど実際に自分の目で見るとなると、まったくの別ものだな。これは・・・」
目の前には紅の巨大な球体があり、その表面からは度々長大な炎が噴き出されている。
「これは、龍だ。体長数万キロにも及ぶ炎の龍。あんなのに呑み込まれたらどんな船だって一溜まりもない。あまり近ずかないほうがいいな」
「それはできません。レース規定でコロナの外に出ることは禁じられています。レースに勝つおつもりなら、出来るだけ近づかないと・・・」
嫌になるくらいに事務的な口調で、クソまじめに応えるキッド。
思わず殴りつけたくなる新一。
だが、大きく息を吐き出しただけで実行はしなかった。
「・・・・・・。あのフレアの動きを計算して、避けることはできるのか?」
「可能です。ただし、そのためにはかなり速度を落とす必要があります。それとシン、あなたにも操縦を手伝って貰わなければなりません。思考同調だけではタイミングにズレが生じますから」
「OK。ゆっくり行こう。リタイア、なんて事になったら元もこもないからな」
そう言って、新一はマシンチェックの時に着て以来、シートの後ろに放り出してあった宇宙服を着込み始める。
宇宙服と言っても、地球の雪ダルマのような分厚いものではなく、ごく薄のオーバージャケットのようなものである。
これを着ていれば、摂氏800度まで耐えることができるのだ。・・・と、ミレィエ技師長は言っていた。
「宇宙船が、空飛ぶ魔法瓶になっちゃうな。こんなところに来てまで、サウナになんぞ入りたかなかったんだけどな」
寒いのには滅法強いが熱いのが苦手な新一は、憮然としてぼやいていた。
言ってる側から、ヘルメットを冠ろうとする一瞬、顔に熱波があたる。
恒星アレグロのコロナ外縁まで、あと50万キロを切った。船外の温度は数千度に達しているはずである。
「キッド。最も安全な速度とコースで移動し続けた場合、この関門を突破するのに何時間かかるんだ?」
見る間に上昇する船内温度計のメーターを睨み付け、新一が問う。
「約三時間ほどです」
言葉にも温度があれば、かなり涼しくなるだろうに、そう新一が思ってしまうほど、冷めた声が端的に応えた。
「三時間か、もつかな? 僕・・・」
・・・一時間後。
「・・・・・・ハァハァ、かなり熱いであろうと予想はしたが、これほどとは思わなかった。これじゃサウナじゃなくてセイロだよ」
船内の温度は七十度を越え、なおも上昇中である。
エア・コンもクーラーも、冷却装置はフル稼動状態なのに、ほとんどなんの役にも立っていない。
宇宙服を着ているから、そもそも意味なんてありはしない。
「シャレにならん。家に帰ってフロ入って、眠りたいよ。・・・ルナとの約束がなけりゃ、こんな素直なセリフが言えるのになぁ」
ついつい、愚痴のこぼれる新一だが、やめてしまおうという気も後悔する気持ちも、微塵もありはしなかった。
ただ、なにかを声にして言っていないと意識が遠くなりそうで、じっとしていられなかったのである。
「あっ!!」
船内温度が八十度を越えた刹那、アスフォデルが新一に任されたとき渡されてのち、居眠り用の枕になっていた電話帳並みの厚さで読む気力をものの見事に打ち砕いてくれたマニュアルが燃え上がった。
ちなみに、シャレだ。
パッドがあるのに紙のマニュアルなんて必要なわけがない。
ミレィエ技師長がシャレで作った代物だ。
とはいえ、火が出たのは事実だ。
慌てて揉み消す。
幸い、小さな火だったので壁に数回叩き付けただけで消えた。
代わりに壁が煤で黒くなってしまったが、これは仕方ないだろう。
だが、それにしても・・・・・・。
いきなり、なんで?
いくら熱いとはいっても、紙に火がつくほどのものではない。
訝しがる新一の耳に、微かな音が聞こえてきた。
シュー シュー
シュー シュー シュー
それは船内を冷却するために、冷たい空気を送り込み続けているエア・コンの、空気噴き出し音だった。
空気?
たしか、この船に積まれているのは純粋な酸素と二酸化炭素を除くためのフィルターだけの、簡素なエア・コンだったはず、と、いうことは・・・。
「ひょっとして・・・」
新一は船内の状況を表示する、船内モニターに視線を移した。
船内モニターをよくよく見ると、船内の空気と酸素の比率バランスが崩れて、酸素の濃度が異状に濃くなっていることがわかった。
これじゃあ火も点こうというものである。
「キッド、船内の空気を全て廃棄してくれ。火は外の恒星だけで充分持て余してるんだ、このうえ更に船内にまで出たんじゃやりきれないよ。それに、真空状態のほうが熱伝導もしにくくなるだろ?」
新一の言葉に、キッドは無言で応える。
フレアの動きを計算するのに全機能を使っているため、音声出力ができなくなっているのだ。
気圧が下がり、温度も下がる。
「これで、すこしはマシになるかな」
気休め程度の安堵感の中、微かな期待と共に新一が呟いた。
2
『アスフォデルに先を越された後続の船が、続々と第一チェック・ポイントを通過していきます。先行したチェイサーによれば、先を行くアスフォデルは恒星アレグロを安全確実に踏破すべく、速度を落としてのノロノロ飛行をしているとのこと。差を縮めるなら今、との共通した認識のもと全船が速度を上げ、さながら一点を目指して飛びゆくレーザーのごとくまっすぐに突進していくのです。その先頭を切るのは、各地のレースに出場しては血の雨を降らせ、今や地方によってはレース出場を拒否されることすらあると言う【鮮血のプリマドンナ】の異名で知られたディーバ・ハマンドリア。二番手は、そのディーバ・ハマンドリアとレース界における双璧と噂される【星光のトロイカ】エル・ドラゴ。さらに彗星と呼ばれるビッケロン男爵や黒の奇行士ピーカソン等々、そうそうたるメンバーが続きます』
団子レースになるだろうとの大方の予想を覆し、一隻先行、後追い型のレースになってしまったために、用意してあったレポート原稿を全て、紙屑にしたアナウンサーがヤケクソ気味にしゃべり続ける。
『彼らの中で、先にアスフォデルとの直接対決ができるのは誰か? はたまた、追いつくことができるでありましょうか!! 運命と勝利の女神は、誰にその微笑みを見せるのか? 実に興味深いところであります。神よ! 人の望みの喜びを!!』
「フン。やっぱり坊やは坊やね。大甘だわ、あのまま逃げりゃいいものを、わざわざスピードを落とすなんてね」
前後の言葉から、次第に脈絡がなくなっていくアンドロイドアナウンサーの実況をつまらなそうに聞き流して、【鮮血のプリマドンナ】ディーバ・ハマンドリアは鼻で笑う。
船の色が宿ったかのように、朱の散った顔も嗤っていた。
彼女の瞳は、すでにレーサーではなくなり、獲物を狙う狩人、ハンターのそれへと変わっている。
彼女の本領は、やはり縦列並走の受動的な駆け引きなどよりも、敵に向かって突進するような主動的な攻めにこそあるようだ。
先刻までとは瞳の輝きからして違う。
「まぁいいでしょ。そのおかげで追いつけるんだから。追いついた後は・・・覚悟なさいよ。坊や」
「・・・フウ。どうやら逆転のチャンスは、まだまだ残っているらしいな。あのまま終っちまうのかとヒヤヒヤしたぜ」
ディーバ同様、実況の声を軽く聞き流していたエルが呟く。
正直、あのままのペースで新一に飛び続けられたら、もはや追いつくことは不可能になっていただろう。
彼は、新一が目先のリードに気を取られて先を急ぎ、フレアの餌食になる可能性に唯一の逆転を賭けていたのだが、それとはまったく逆の理由で逆転の可能性が見えてきたことにホッとしつつも、苦闘の予兆を感じ暗鬱な気持ちになった。
もし、新一が今の距離的・時間的な差に執着し、暴走するような男ならば恐れることはなにもない、なにもせずとも自滅するのがオチであろう。
しかし、新一はそんな浅はかな男ではなかった。必要と感じれば現在の優位をもあっさりと捨てる決断力と、最終的な勝利のため、時には勝負を避けて引き下がる勇気とを併せ持つ、侮れない戦士であったのだ。
ブラック・ホールの超重力を逆手にとってのスイング・バイも、まぐれで出た奇略ではなく、冷静な状況把握と分析による機略であったことがわかるのである。
それらをひとまとめにして、ひとことで言い表すなら、あの男、新一は紛れもない強敵だということになるのだ。
「こりゃ、ディーバちゃんだけでは荷が重いか、な?」
エル・ドラゴにしてみれば、新一とディーバが派手に噛み合って、共に立つことができない、ということになればしめたもの、その際他の出場者も巻き込んでくれれば言うことはないのである。
だが、新一の相手をさせるにはディーバは直情過ぎる敵だった。競り初めて数十分間はディーバが有利な展開となるだろう。
しかし、最後に勝ち名乗りを上げるのは新一のほうだ。
人事ながらエルには確信を持って言えた。
「俺も、久々に熱血せにゃならんかも知れんな。あまり気は進まんが・・・」
エル・ドラゴが呟く。
口の悪い友人から、古びて汚れたモップと言われる艶のない焦げ茶色の毛皮で覆われた体で、シートに軽く腰掛け足を組み、やや前かがみの姿勢で右手親指の爪を噛むのは、じっと考えるときの彼の癖だった。
「昔とった杵柄だ。なんとかするさ」
実はこの男、かつてはカンターピレ王国軍の軍人だったのである。駆逐艦三十隻からなる星間国境の巡視船団を任されていたほどの違丈夫であった。
まともに勤めていれば、今頃は将官にまで出世していたはずなのだが、巡視の途中にであった宇宙海賊との戦闘のさなか、圧倒的な強さで海賊を撃退しておきながら、なぜか彼は一人で船を下り、以来軍には戻っていない。
むろん、そんな行動に出たのには止むに止まれぬ事情があったのであるが、その事情を知るものはごく親しい者、数人だけである。
「優勝は、俺がいただく!」
各レース出場者が打倒アスフォデル、と新一への挑戦権を賭け、鎬を削っている頃、新一にとっての運命の女神は、ディーバやエル・ドラゴたちは聞き流すだけだった陳腐なセリフだらけの実況に、真剣な面持ちで聞き入っていた。
恒星アレグロに現れた黒点の影響で磁場が乱れているため、映像をリアル・タイムで見ることができずかろうじて音声だけが聞こえ、ほとんどラジオのような状態になっていたのである。
「ガンバッて! 勝って!!」
映像のないもどかしさが、届かないことを承知で叫ばずにはいられない状態に彼女を追い込んでいた。
こんな美少女を、ここまで真剣にさせられたら、それだけで男冥利につきるというものであろう。
それにしても、こんなつまらない実況をこの娘以上に真剣に聞いていたのは、恐らく、アンドロイド・アナウンサーの開発を手がけたエマ博士ぐらいのものだったのではないだろうか?
「姫様、きっと勝ってくださいますよ。あの方なら・・・」
聡明そうな瞳で、スカイ・ブルーの制服に身を包んだ若い女性が声をかける。
この制服地球では白衣に相当するもので、彼女らの星ではある種の専門職の人間にしか着用を認められていない。例えば医師や科学者、ハード系の技術者がそうである。
「そのようなこと、お主に言われずともわかっておる。わたしはただ、シンを巻き込んでしまった責任上、あのものと共に戦う義務があろうと思うゆえ、レース状況を把握しようと努めておるだけじゃ」
アミルナはムキになって否定した。これは明らかな失策である。5年間の人生経験の差があるミレィエに、判らないはずがないのだから。
もっとも、そのミレィエ女史にしても恋愛経験は片手で数えるほどしかない。
彼女の容姿からすれば、もっとあってしかるべきなのだが女五人に男一人の比率では、いかな美貌の持ち主といえども相手を探すのははなはだ難しいことなのであった。
極論すれば星全体が女子高の寮みたいなものなのである。そんな環境にあって、同性愛嗜好者にならず、そういう女性と関係を持ったことがないというのは、非常に希有なことであった。
そういう意味で言えば、彼女は実に慎み深い女性だと言える。
単に彼女の場合は性的欲求より、知的な知識欲のほうに夢中になっていただけ、という話もあるのだが、数少ない恋愛対象の全てが技術者だった事実が、その噂に信憑性を与えてはいた。
「それにしても、自分で言うのも何なのだが、わたしには先見の明があるようじゃな。よもや、あれほどの強さを秘めておったとは、考えもせなんだ」
この場合の強さとは、腕力などの物質的なものではなく、精神的な力のことである。
「それは、私も感じております。アスファデルの改装計画を作成したおり、ほんの十数分ほどではありますが話す機会がございました。その時の印象では、端的に申し上げて気弱な坊や。そんな感じがいたしましたから」
ミレィエの素直な感想に、アミルナは小さく頷き、またラジオに聞き耳を立てた。
それにしても・・・。
姫様が初めて話した父親以外の男性が、あの少年で良かった。
アミルナ王女の友人であり教師であり、時には母親の代わりですらあったミレィエは、心優しき地球の少年に感謝せずにはいられなかった。
同時に王女と新一とが、結ばれることを心底願い、祈ってもいた。
微かな嫉妬を込めて・・・。
3
『二位以下に大差をつけ、先頭を行くアスフォデル。しかし、その後ろ姿が見える位置まで【鮮血のプリマドンナ】ディーバ・ハマンドリアが追い上げてまいりました。徐々に、徐々にではありますが、その差は次第に縮まっていきます』
ようやくにして正常なレース展開に戻りつつある事に気をよくしたのか、アナウンサーの声にも熱がこもる。
だが、そう思ったのも束の間、レースは再び不可解な現象を見た。
せっかく、アスフォデルを長距離レーダーの範囲内に捕えたと言うのに、ディーバが速度を落としたのである。
そして、それはすぐさま他の選手のリードに変わり、9隻の船、この時点でもレースを続行し優勝を狙っている全員がディーバの前に出る結果となった。
ほかの参加者は、余りに開いた差のためにレースをすでに投げていたのである。
前に出たうちの一隻に、エル・ドラゴのフロックスロット号があったことは言うまでもないだろう。
「機関に負担をかけすぎたな。あいつはいつもそうだ、必ず大事な場面で機関がトラブッて順位を落とす」
どんどん後方に離れていくディーバのアンスリウム号の艦影を見やりつつ、エル・ドラゴは嘆く。
闘う者同士の詭弁と言われるかも知れないが、長い間レース場で戦ってきた、いわば仲間に対してはそれなりの連帯間があるものなのである。互いに命がけの戦いを演じていればこそ、お互いのことが判るものだ。
「まっ、これでもう無茶はできまい。あいつの無茶苦茶な操船を見ていると、こっちの寿命が縮まるからな」
なぜかホッとした声で、そう呟き。エルは前方に意識を集中させた。
その視線の先には、新一の乗るアスフォデル号、唯一隻があるだけである。
「シン。後方8000キロの位置まで、二位以下の船が追いついてきました。どうしますか? このまま低速飛行を続けますか? それとも速度を上げて、一気に駆け抜けますか?」
ホロビューの中に後続の艦影を見いだし、キッドが尋ねてくる。
追いつかれても安全を取るか、多少危険でも差を保つか。二者択一を迫られたわけだ。
「・・・機関の出力を最大にして、フルスピードで飛ばした場合のフレアへの接触率は?」
「8.24% ただし、熱波や恒星風などの影響は考慮されておりません」
求めた答えが、即座に返ってくる。AI・Cを搭載していることの最大のメリットである。しかし、こういう場合はあまり有利とも言えないようだ。
やろうとしていることの成功率が前もって判るということは、うまくいったときのことはもちろん、失敗したときのリアクションについても明確に示されてしまうということである。
これでは【これで駄目なら、僕はその程度の男】と思い切ることができない、できたとしても苦悩することは疑いないのだ。
運を天に任せる、言わば無責任な行動が取れない、と言うのはこの場合、非常に辛い。
新一も、自分で尋ねておきながら、即座に答えが返ってきたことを不快に感じ、訊いたことに後悔の念を禁じ切れなかった。
それでも新一は気を取り直し、決意を込めて命じる。
「一割以下、か・・・よし! キッド、機関全開最大船速。ブーストも使って一気に加速する」
言うより速く、新一の腕はコンソールへと伸びブーストのリミッターを解除していた。これで、この船は今までの5倍ないし6倍の速度が出る。はずであった、少なくとも開発を担当したミレィエ技師長は、そう言っていた。
むろん、そんな爆発的な出力に機関が、そういつまでも耐えられるわけはなく一回40秒、途中でしっかりとした整備を受けでもしない限り、一度のレースで2回しか使えない。
「ブースト・ポート作動! エンジン臨界点へカウント・スタート!!」
「ウッ!」
キッドの声がブーストの作動を告げ、アスフォデルが最大加速をかけた。その刹那、新一は再び鋭い耳鳴りを感じた。
重力場コントロールを用いてなお、相殺し切れないGが気圧を変化させたためである。同時に、ほんのわずかなあいだではあったが、新一は視力を失っていた。
急激な圧力の変化によって眼球が一時的に貧血状態になる、ブラック・アウト現象というやつだ。
「・・・ジ、ジェット・コースターぐらいは・・・乗れるように・・・しとくんだったな。・・・・・・こりゃ、身体はともかく意識が・・・もたない・・・」
『アスフォデル号、やっとの思いで追いつきつつあった後続の船を振り切ろうと、速度を上げます。早い、早い、光子ロケットなみの加速だ! これは追いつけません、差が開くだけです』
新一が速度を上げたのを見た他の船もいっせいに速度を上げるが、ブーストを装備していない哀しさで差が縮むどころか見る間に離されていく。
それでも、無理に出力を上げた何隻かがエンジン・トラブルを起こし、スピードを落としたその瞬間。まるで、いや、たぶんそうなのだろう。狙い澄ました絶妙のタイミングで疾走してくる赤い矢があった。
言わずと知れたディーバの愛機アンスリウムである。
「あとから、歩ってきな!」
一声叫んで、ディーバは更に加速する。
伊達に【鮮血のプリマドンナ】などと呼ばれているわけではない。
その名は軽快でリズミカルな操船の妙があればこそ与えられた、勇猛さと美しさの証明でもあったのだ。
なればこそ、彼女の機体には高性能のブースターが備え付けられている。
初めからスピード重視の上に、己の腕にかなりの自信をもつ彼女自身の指示で防御力、早い話し装甲の厚さをケチっているために、乗艦アンスリウム号の加速力はアスフォデル号の1.8倍、機関の耐久力は2.4倍と相当に高い。
彼女にとっては新一がスピードを上げたこと、それ自体が思う壺だったのだ。
他の船を寄せつけず、一切手出しさせずに一対一で勝負をつけることを望む、彼女にとっては・・・。
「待っててね、坊や。すぐにおねぇさんが食べてあげるわ。あしのさきから少しづつ、ペチャペチャとね」
なまじ美形であるために、よけいに無気味に見える嗤いを閃かせ、口走るディーバ。その瞳が、闇色の船内で妖光を発し、異様な輝きを見せる。
・・・別に、本当に食べようとしているわけではない。国語辞典における3番や4番、激しく迫る。打ち負かす、相手の勢力範囲を侵す、などの意味で食べるということなのだ。
・・・まさかとは思うが、誤解する人がいると彼女のキャラクターを歪めかねないので、蛇足ながら付け加えておく。
ともあれ、彼女の追い上げはすさまじく。アスフォデルとの差を一気に詰めていった。道筋にいる他の出場者を一掃しながら・・・。
「う~ん。やっぱり、敵を葬るならクリメイション、火葬が一番ね。華麗だわ」
光子ロケットをも凌駕し、ワープ・スピードに限りなく近い速度で飛ぶアンスリウム。
いかに空気のない宇宙空間とはいえ、その衝撃波は確実に近くを飛行する船にも伝わった。言わば大気圏内におけるソニックブーム、これを頭上から見舞われたのでは並の推力しかない他の船に回避は不可能である。
そのまま一直線に恒星アレグロの炎の海へとダイビイングするほかない。
これぞまさしく、
「飛んで火にいる夏の虫。っと」
・・・少し違うかな?
とにかく、彼女の通った後には悪魔も恐れる地獄絵が描かれていく。
『【鮮血のプリマドンナ】の異名に相応しい、ディーバの悪虐非道な操船により、次々に地獄の劫火に身を晒す参加者たち、すでに9隻だった船が3隻にまで激減、レース開始時には500隻近かったことを思うと隔絶の感を禁じきれません。残るは【星のトロイカ】、エル・ドラゴ。【彗星】ビッキャロン男爵。【黒の奇行士】ピンカーソンの三人と、遙前方をひた走るルーキーの新一がいるだけ、レース半ばにして参加者の9割が戦線から脱落したことになります』
「じゃじゃ馬めが、調子づきおって!」
「せいぜいトップを争って鎬を削っているがいいさ!」
「その間に必ず追いつく。逃げるしかない新一のアスフォデル、闘うことしか頭にないディーバのアンスリウム、どちらも恐くはない。最後に笑うのは・・・」
笑うのは、この俺だ!!
文字通り、光の矢となって遠ざかっていくアンスリウムを見送りながら、置いてきぼりを食らった三人は異口同音に呟いていた。
たとえ志が違っても求めるものが同じであれば、考えることも似通ってくるもののようである。
自分らの船の性能では、自力で追いつけないと判った以上、彼らにできることは、新一とディーバが互いに責めぎ合い速度を落とすのを待つことだけなのであった。
『レースも中盤にさしかかり、ますます意気あがる参加者たち、彼らを待ち受ける次なる難関は、【乙女の吐息】、あらゆるレーダーが使用不能となり、肉眼による手探り状態での航行を強いられる。各選手の集中力と洞察力が試される、レース中最も過酷な障害であります』




