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その婚約破棄、無効です ~前世弁護士のパン屋店主、契約書で理不尽を詰ませます~  作者: 他力本願寺


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第9話 三倍返し

「家令が勝手にやった!」


 ロランの声が石壁へ跳ね返った。


 リツは、アニエスが店先へ落とした破棄通知を開いた。


「この通知をお読みになりましたか」


「家令が整えたものだ。私は署名しただけだ」


「では、この不品行を理由に持参金を返さないと決めたのは」


 ロランは答えない。


「末尾の署名は、あなたのものですね」


 裁定官が通知を受け取り、原本の署名と照合した。ロランの指が膝の上で縮む。


「家令が偽造した原本の内容を、あなたが確認せず使った。それとも、内容を知って使った。どちらでしょう」


「私は――」


「どちらであっても、この通知に正当な事由はありません」


 リツはアニエスの前に置かれた二枚の書類へ手を添えた。


「具体的な事実も、証人もない不品行で、相手の財産と名を奪おうとした。――その婚約破棄、無効です」


 木槌が鳴った。


「正当事由なき婚約破棄を無効と認める。ロラン側は持参金を三倍にして返還し、申立人の名誉を回復する公示を出すこと」


 裁定官は次の紙へ目を移した。


「証人マルタへの報復を禁ずる。生活保全申立ては本決定へ引き継ぎ、解雇、退去その他の不利益が生じた場合、その生活費と仮住居費をロラン側の負担とする。本日の虚偽証言については、別に処分する」


 マルタは証言台の縁を握ったまま、息を吐いた。アニエスが振り返ると、彼女は泣き笑いの顔で頷いた。


 廊下へ出たところで、アニエスの父が待ち構えていた。


「アニエス、よくやった。さあ家へ戻りなさい。三倍の持参金があれば、妹の縁談にも――」


「戻りません」


 男爵の笑顔が止まった。


「お前は私の娘だぞ」


「門前で、そう言ってくださればよかった」


 アニエスは父の脇を通り過ぎる。


「公示には、何も確かめず私を追い返した実家の対応も記載されます。今度はお父様が、ご自分の名をどう守るかお考えください」


 追う声はなかった。アニエスは女性寄宿舎の紹介状を胸に、マルタと並んで階段を下りていった。


 数日後、判決書の控えがホノカへ届いた。返還、名誉回復、マルタの生活保全。末尾の記録受理欄には、王都法院長バルタザール・オルグレンの管理署名がある。


 リツがその名を指でなぞった時、戸鈴が鳴った。


 セドリックが、残っていた黒パンを一つ指した。ロランが踏んだものと同じパンだった。


「理不尽に踏まれたものを、価値がないままにはしたくありません」


 代金を置き、包みを受け取る。


「毎度ありがとうございます」


 セドリックの口元がわずかに緩んだ。


 入れ替わるように、厚いフードの女が入ってきた。上等な絹の袖口を、震える指が掴んでいる。


「こちらに、代訴人の方がいると伺って」


 リツは布巾を置いた。


「私です。お話の前に、温かいスープをどうぞ」

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