第8話 平民の署名
王都法院の査問会室では、書記の羽根ペンが試し書きの音を立てていた。
リツとアニエスは申立人席へ座る。向かいのロランは、伏せられた書類を一瞥して足を組んだ。
「では、申立人側の代訴人。尋問を許可する」
裁定官の合図で、リツは立ち上がった。
「ロラン様にいくつか事実確認をさせていただきます。まず、五年前の婚約締結時について。同席していたのは両家のご家族のみで、使用人などの立会人は一人もいなかったと主張されていますね?」
ロランは鼻で笑い、余裕たっぷりに足を組んだ。
「ああ、そうだ。貴族同士の神聖な契約の場に、下賤な使用人など立ち入らせるはずがないだろう」
「確認しました。次に、あなたが提出した原本の末尾にある、密会等による契約破棄の追加条項について。あれは五年前の契約当初から、原本に記載されていたもので間違いありませんか」
「当然だ。あの女がいつ不祥事を起こすか知れたものではないからな、あらかじめ我が家を守るための防衛策を講じておいただけのことだ」
リツは次の質問を重ねた。
「では最後に。契約締結後から今日までの間に、原本が破損したなどの理由で、契約書を新しく作り直したことは一度でもありますか」
「馬鹿馬鹿しい。我が侯爵家が、そのようなずさんな文書管理をするはずがなかろう。提出したものは、五年前から金庫で厳重に保管されていた唯一無二の原本だ」
ロランは声を張った。
「書記官。ただいまのロラン様の発言、すべて記録をお願いします」
書記のペンが羊皮紙を擦る。「家族のみ」「当初から存在」「作り直していない」。三つの証言が、公的な記録になった。
「それでは、証人を呼びます」
リツが振り返ると、重い扉が開き、古ぼけた平民の衣服を身に纏ったマルタが怯えた様子で入室してきた。彼女はアニエスと目を合わせると、小さく頷いて証言台の前に立った。
「なっ、なぜその女がここにいる! 我が家を追い出されたはずの侍女ではないか!」
狼狽するロランを無視し、リツは伏せていた書類の一枚目を表に返し、裁定官へと提出した。
「五年前の契約締結時、当事者の背後で記録用の写しを作成していた立会人、マルタの自筆署名入り写しです。この写しには、密会に関する追加条項は一切記載されていません」
「ふざけるな!」
ロランが椅子を蹴立てて立ち上がった。
「平民の侍女が書いた紙切れなど、何の証拠になるものか! 平民の署名など、我が侯爵家の前では法的に無効だ!」
「この国の証文法は、署名した者の身分を問いません。立会人の写しは、原本と同じ重さを持ちます」
裁定官は写しの署名と受付済みの証人保護決定を確かめた。
「だ、だとしてもだ! その写しが後から偽造されたものではないという証拠がどこにある!」
「偽造されたのは、あなた方が提出した原本の方です」
リツは間髪を入れず、手元に残っていた最後の書類――印章職人の改鋳台帳の写しを叩きつけるように提出した。
「侯爵家の提出原本に押されたロラン家の印影には、三日月形の欠けがあります。台帳によれば、この傷は二年前の改鋳後にしか存在しません。五年前の契約書に、二年前の印章が押されているのはなぜですか」
ロランの指が、机の縁を掴んだ。
「そ、それは……そうだ! 古い印章が欠けてしまったため、二年前に新しい印章を使って、まったく同じ内容で清書し直しただけだ!」
「おかしいですね。先ほどあなたは、『原本を作り直したことは一度もない』と明確に宣誓し、記録されています」
「あ……」
「さらに言えば、ただ清書しただけだというのなら、同じ場にいた立会人の写しと内容が異なるのはなぜですか。あなたの今の主張は、つい先ほどのあなた自身の証言とも、この場にあるすべての証拠とも両立しません」
書記の羽根ペンが、ロランの二つの説明を同じ紙へ記していく。ロランは頭を抱えた。
「ち、違う! あれは私の指示ではない! すべて家令が勝手にやったことだ! あいつの独断なのだ!」




