第7話 雨の下の黒パン
査問会に向けた証拠の提出手続きを終え、王立監察院の重厚な石造りの建物を後にした直後だった。
空を覆っていた鉛色の雲が唐突に弾け、王都の街並みに激しい雨が降り注いだ。乾いていた石畳は一瞬にして黒く濡れそぼち、土と埃の匂いが雨の冷気と共に舞い上がる。
リツは慌てて足を速め、近くにあった商業区の市場へ駆け込んだ。分厚い帆布の天幕が張られた軒下に滑り込むと、ほぼ同時に、漆黒の外套を濡らしたセドリックも隣へ身を滑らせてきた。
市場の喧騒は激しい雨音に掻き消され、薄暗い軒下は外界から切り離されたような静寂に包まれていた。
外套の雫を払っていたセドリックが、ふと動きを止め、口を開いた。
「印章の年代矛盾について。監察院の封印庫にある提出原本を、認証済みというだけで疑わなかったのは、私の落ち度です」
雨音に負けない、だが静かな声だった。
「記録の完全性を盲信するあまり、その印章が二年前の改鋳後に押されたものであるという事実を見落としました。あなたの指摘がなければ、私は偽造された書類を正しいものとして処理していたでしょう」
リツは少し驚き、隣に立つ長身の査察官を見上げた。
「意外ですね。貴族の役人というものは、平民からの指摘など無視して、いかようにも自己正当化するものだとばかり思っていました」
つい、口をついて出た言葉には棘があった。身分を笠に着て証拠を握り潰そうとする人間を、リツは過去に嫌というほど見てきたからだ。
だが、セドリックは表情を変えずに返した。
「事実を事実として認めるのに、身分は関係ありません。過ちは正されるべきです。ですが代訴人、人のことは言えないはずだ」
「え?」
「あなたも、事件を解決するための書類や証拠にばかり目を奪われていた点では、私と同じではないですか。あの侍女を見つけた時、彼女が抱える報復への恐怖や、明日の住居を失うかもしれないという現実を見落とし、法廷へ引きずり出すための単なる『証拠』としてしか扱わなかったのではないですか」
セドリックは逃げ道を与えないように、リツの返事を待っていた。
監察院の査察官として、関連する証人の動向を独自に調べていたのだろう。彼には、リツが洗濯場でアニエスに叱責された事実が伝わっていた。
リツは反発しようとして息を吸い込んだ。だが、洗濯場で震えていたマルタの肩を思い出し、何も言えなくなった。
雨音が、答えの代わりに二人の間を満たした。
やがてリツは、鞄から一枚の受付票を出した。
「今日、最初に提出したのは証人召喚の請求ではありません」
マルタの住所と勤め先を公開記録から伏せること。証言を理由とする解雇や退去があった場合、査問終了を待たず生活費と仮住居を確保すること。その費用を、報復した側へ請求すること。
〈証人生活保全申立て〉の受付印が、雨に濡れないよう油紙で覆われている。
「今朝、マルタさんと条件を一つずつ読みました。保護が認められ、自分で出ると決めた時にだけ、証人召喚を出します」
「彼女は何と?」
「怖いままです。それでも、住居まで賭けなくていいなら証言すると、自分で署名しました」
セドリックは受付票を返した。
「先に出すべき書類を、今度は間違えなかったようですね」
褒める口調ではなかった。それで十分だった。
吹き込む風が強くなり、軒下の気温が急激に下がった。
急な雨だったため、リツは外套を持ってきていなかった。薄手の服越しに伝わる冷気に、リツの指先が微かに震える。
それに気づいたセドリックが無言で自分の革手袋を外し、リツの目の前に差し出した。
「少し、冷えますね」
上等な革で作られた、貴族の持ち物。だが、リツはすぐにそれを受け取ろうとはしなかった。代わりに、抱えていた紙袋の中へ手を入れた。
取り出したのは、昼食用に店から持ってきていたライ麦の黒パンだった。
リツは両手でその黒パンを真っ二つに割ると、片方をセドリックに向かって差し出した。
「手袋のお気遣いには及びません。代わりに、こちらを」
セドリックは差し出された無骨な黒パンとリツの顔を交互に見比べた後、小さく息を吐いて手袋をしまい、素手でパンを受け取った。
貴族が街角で立ち食いをするなど本来ならあり得ない振る舞いだが、彼は躊躇することなくパンを口に運んだ。ライ麦特有の強い酸味と、噛みしめるほどに滲み出す素朴な甘みが、冷え切った口の中に広がる。
雨音だけが響く中、二人は並んで黒パンをかじった。
「ホノカ、でしたか」
不意に、セドリックが静かな声で尋ねた。
「あなたの店の名前です。王都の響きとは違う、東方の言葉のように聞こえますが、何か意味があるのですか」
リツはパンを咀嚼する手を止め、雨の降る通りへ視線を向けた。
脳裏に浮かぶのは、十年前のあの日。自分を庇って頭を下げ続け、そして朝の来ない夜へと消えていった、不器用で優しい女性の姿。
「私が、まだ返せていない恩義のある人の名前です」
リツは感情を押し殺し、それだけを短く答えた。前世の記憶も、その女性がどのような最期を遂げたのかも、今は語るべきではない。
「そうですか」
セドリックは短く応じただけで、それ以上深く踏み込んでくることはなかった。ただ、手元の黒パンを最後まで丁寧に食べきった。
やがて雨脚が弱まった。灰色の街並みの先に、王都法院の尖塔が見える。
リツは鞄の召喚状を確かめた。隣で、セドリックが黒パンの最後の一片を飲み込んだ。




