第6話 二年前の印章
その日の午後、リツは王都の商業区にある印章職人の工房を訪ねていた。
工房の主はリツの代訴人章を確かめ、鍵付きの棚から改鋳台帳を出した。
「ロラン家の印章かい。ああ、確かにうちで打ったものだがね。ほら、ここだ。今から二年前に、古い印章を改鋳した記録が残ってる」
職人の指が差した台帳の項目には、日付と共に、改鋳前と改鋳後の印影が並んで押されていた。
「こちらが、新しく作り直した方の印影ですね」
リツは台帳の新しい印影を指さした。その右下の縁には、三日月形の小さな欠けがあった。職人は頷く。
「そうだ。持ち主が、前の印章と区別がつくように、わざと縁に小さな傷を入れてくれと注文してきたんだよ」
それは、セドリックが持ち込んだ認証謄本に写された印影と全く同じ傷だった。
「男爵家と侯爵家の婚約が締結されたのは、今から五年前です」
「五年前の書類へ、二年前に作られた印が押されています」
工房を出て、リツはアニエスと共にホノカへの帰路についていた。
「リツさん、これで勝てますね! あの原本が後から作られた偽物だと証明できれば……」
「いいえ、まだです。これだけでは勝てません」
リツが冷や水を浴びせるように言うと、アニエスは目を丸くした。
「どうしてですか? 五年前の契約書に、二年前の印章が押されているんですよ?」
「印章の矛盾は、原本が『後から作られた』ことを証明するに過ぎません。それに対して、相手はこう反論してくるはずです」
リツは立ち止まり、アニエスをまっすぐに見据えた。
「『五年前の正式な契約書があったが、何らかの理由で破損してしまった。だから、二年前の新しい印章を使って、当時の契約内容と【全く同じ内容】で原本を清書し直しただけだ』……と」
アニエスが息を呑む。
「印章の傷だけでは、あの追加条項が嘘だとは証明できません。それを証明するには、やはり五年前の契約締結当時に作られた『本物の写し』が必要なのです」
その日の夜、閉店作業を終えようとしていたホノカの裏口が、控えめに叩かれた。
リツが鍵を開けると、そこには分厚い古ぼけた外套をすっぽりと被ったマルタが立っていた。
「マルタさん……」
驚くアニエスをよそに、マルタは足早に厨房へと入り、周囲を警戒するように戸を閉めた。そして、着ていた外套を脱ぎ、その裏地を乱暴に引き裂き始めた。
ビリビリという音と共に、粗末な布の裏側から、一枚の折り畳まれた羊皮紙が姿を現した。
「侯爵家を追い出される時、荷物はすべて調べられました。でも、これだけは絶対に奪われてはいけないと思って、外套の裏に縫い付けて隠したんです」
マルタは震える手で、その羊皮紙をリツに差し出した。
「昨日は、ないと嘘をつきました。これを持っていると知られるのが怖かった。でも、あなたがアニエス様に叱られて、私に謝ったのを見て……この人なら、出した後の私の暮らしまで忘れないかもしれないと思ったんです」
それは、五年前の婚約締結の場で、マルタ自身が記録のために書き写した契約書の写しだった。
リツは祈るような気持ちで羊皮紙を開いた。
そこには、持参金の額や婚姻後の住居に関する取り決めなどが克明に記されている。そして、その末尾。
セドリックが持ち込んだ認証謄本には存在した『密会を理由とする契約破棄』の条項は、どこにも見当たらなかった。
「ありがとう、マルタさん。これこそが、真実の記録です」
リツが両手で受け取ると、マルタは力なく微笑み、アニエスの手を取った。
「私には、これが精一杯です。どうか、アニエス様をお守りください」
マルタはそれだけを言い残し、再び夜の闇の中へと帰っていった。
翌日、リツはすべての証拠書類を揃え、王立監察院へと足を運んだ。
応接室で待ち受けていたセドリックは、改鋳台帳とマルタの写しを交互に読み、しばらく黙った。
「なるほど。原本の印章が後から押されたものであること、そして、当時の写しには追加条項が存在しないこと。筋は通っています」
セドリックは書類から顔を上げ、リツを真っ直ぐに見据えた。
「ですが代訴人。あなたが証拠を揃えたと思った時ほど、注意しなければなりません」
「どういう意味ですか」
「法廷において、この二つの証拠をただ並べて見せるだけでは、相手に逃げ道を与えます。あなたが真に相手の嘘を崩したいのなら、証拠を出す前に、相手自身に『原本は作り直していない』と断言させなければならない。相手の証言を固定し、その証言と絶対に両立しない証拠として、これを叩きつけるのです」
リツは無言で頷き、セドリックの言葉を胸に刻んだ。
その日の午後、ホノカの店舗に、王都法院からの重々しい封書が届けられた。
アニエスの名誉と持参金の行方を決する、査問会への召喚状だった。




