第5話 いないことにされた侍女
粉挽き横丁の裏手には、石積みの大きな共同洗濯場がある。
朝から立ち込める灰汁の匂いと、冷たい水が跳ねる音。数十人の女たちが身を寄せ合い、赤くひび割れた手で重い布地を揉み洗いしている。貴族の屋敷から出た大量のシーツや、油まみれの職人の作業着。王都の汚れを引き受けるその場所は、活気があるというよりは、ただ生きるための熱気に満ちていた。
リツとアニエスは、湿った石畳を慎重に進みながら、目当ての人物を探していた。
「あそこです、リツさん!」
アニエスが声を弾ませ、小走りに駆け寄る。その先で、山積みの洗濯物と格闘していた若い女が、驚いたように顔を上げた。
「アニエス様……! どうして、このような場所に」
マルタだった。
アニエスの実家である男爵家から侯爵家へ共に移り、アニエスが追い出されたのと同じ日に屋敷を追放されたという侍女。彼女は今、華やかな屋敷の奥から下町の洗濯女へと身を落とし、日々のパンを得るために冷たい水に手を浸していた。
「ごめんなさい、マルタ。私のせいで、あなたまでこんな目に……」
アニエスがマルタの荒れ果てた両手を取り、涙ぐむ。マルタは慌てて自分の手を引き抜こうとしたが、アニエスは決して離さなかった。
「あの、そちらの方は?」
戸惑うマルタに、リツは歩み寄り、頭を下げた。
「アニエスさんの代理人を務めている、代訴人のリツと申します。あなたが手元に残してくれていた写しの切れ端のおかげで、あなたを見つけることができました」
リツが事の経緯を説明すると、マルタは青ざめた顔で周囲を気にした。
「五年前の婚約締結の場には、確かに私もおりました。家令に命じられ、私が記録用の写しを書き写したのも事実です」
「やはり。ならば、あの密会を理由とする契約解除の追加条項は、最初から存在しなかったのですね」
「はい。私が写しを取った時には、あんな条項はありませんでした」
リツの指が、鞄の中の控えへ触れた。あの半葉を書いた者が、目の前にいる。
「マルタさん、お願いします。査問会に出席し、追加条項は後から書き加えられたものだと証言していただけませんか。それがあれば、アニエスさんの名誉を回復できます」
だが、リツの言葉を聞いた途端、マルタの表情が硬く凍りついた。
「無理です。証言なんて、絶対にできません」
「なぜですか。あなたが真実を話すだけで――」
「真実を話して、私に何が残るというのですか!」
マルタが悲痛な声を上げた。
「私は侯爵家を追い出され、男爵家からも受け入れを拒否されました。この洗濯場で、毎日死に物狂いで働いて、ようやく屋根のある寄宿舎の部屋を借りられたんです。もし私が法廷に立って侯爵家に盾突けば、今度こそ王都にいられなくなります。報復されて、住む場所も仕事も奪われてしまう。アニエス様には申し訳ありませんが、もう侯爵家には関わりたくないのです」
震えるマルタの肩を見て、アニエスは言葉を失った。自分を守るための証言が、マルタの現在のギリギリの生活を破壊してしまう。その現実に打ちのめされていた。
「では、当時あなたが書き写したという、写しの現物はどうしたのですか。それさえあれば、あなたが法廷に出なくても戦えます」
「写しは……ありません」
マルタは目を伏せ、頑なに口を閉ざした。
その態度に、リツは冷ややかな声を出してしまった。
「写しの現物も出せない。証言台に立つこともできない。物証がない以上、あなたの不確かな記憶だけでは侯爵家の主張を覆せません。証拠を出せないのなら、証人として法廷に立たせる意味が――」
「やめてください、リツさん!」
アニエスの鋭い声が、洗濯場に響いた。
リツが驚いて振り返ると、アニエスは怒りに満ちた瞳でリツを睨みつけていた。
「マルタは道具ではありません! 私と同じように、理不尽に職と住居を奪われた被害者です。私の名誉を取り戻すために、マルタの今の生活を消耗品のように使い潰す権利など、誰にもありません!」
リツは、写しを探していた自分の手を下ろした。証言の後にも、マルタの暮らしは続く。
「申し訳ありませんでした」
「アニエスさんの仰る通りです。あなたの恐怖も、今の生活を守る権利も軽く扱いました」
リツが頭を下げると、マルタは戸惑ったように視線を泳がせた。
「頭を上げてください、代訴人様。私の方こそ、お力になれず申し訳ありません」
マルタはためらいがちにリツに声をかけ、そして、周囲を気にするように声を潜めた。
「写しを渡すことも、証言することもできません。ですが、一つだけ……お話しできることがあります」
リツが顔を上げると、マルタは五年前の記憶をたぐるように目を細めた。
「あの婚約締結の日。契約書に押されたロラン様の家印を、私は後ろから見ていました。あの時は、傷など一つもありませんでした。綺麗な、真円の印影だったと記憶しています」
「傷?」
リツの脳裏に、昨日セドリックが持ち込んだ認証謄本の印影が鮮明に蘇った。
羊皮紙の末尾、密会の追加条項の横に押されていたロラン家の印章。その右下の縁には、確かに三日月形の欠けがあった。
五年前の締結時に傷がなかったのなら、今の原本はいつ押されたのか。
「ありがとうございます、マルタさん。戦う糸口ができました」
リツはもう一度だけ礼を言い、アニエスを伴って洗濯場を後にした。
手元に完全な写しはない。証言も頼めない。それでも、王都の印章職人が管理する改鋳台帳なら調べられる。




