第4話 十年ぶりの受任
夜明け前、リツは木箱の銀章を掴んだ。昨日は閉じた蓋を、今日は閉じない。
ロランへ争点を告げた以上、もう書面だけ渡して店に隠れてはいられなかった。
「これが、私の資格章です。これがあれば、あなたの代理人として公的記録の閲覧を請求し、査問会で証人を尋問することができます」
アニエスが息を呑むのを見据え、リツはまっすぐに告げた。
「あなたの依頼を、正式にお受けします。ただし、私から四つの条件があります」
「条件、ですか」
「一つ、あなたにとってどんなに不利な事実であっても、私には絶対に隠さないこと。二つ、勝つために嘘の証拠を作らないこと。三つ、もし途中で相手から和解を持ちかけられた時、それを選ぶのは私でも他の誰でもなく、あなた自身の意思であること」
そこまで言って、リツは作業台の上の書類を指し示した。
「そして四つ。私任せにするのではなく、これらの書類は必ず私と一緒に読むこと。以上です。約束できますか」
アニエスは乱れたドレスの裾を強く握りしめ、やがて顔を上げた。その瞳には、昨日までの絶望とは違う、確かな光が宿っていた。
「約束します。怖くても、自分で読みます。私のことですから」
リツは小さく頷いた。
窯の中から、長く太い鉄の棒を取り出す。その先端には、麦の穂を象った焼き印が赤々と熱されていた。リツは作業台に置かれた丸パンの表面に、ためらうことなくその熱を押し当てた。
ジュッという鋭い音と共に、香ばしい焦げた匂いが厨房に広がる。
リツは、くっきりと麦の穂が刻印されたそのパンを、アニエスの手へ渡した。
「うちのパンを食べたなら、あなたはもう客です。最後まで責任を持ちます」
「リツさん……」
まだ温かいパンを両手で包み込むように持ち、アニエスは涙を堪えるように頷いた。
そのやり取りを、店の隅からじっと見つめている影があった。ミナだ。リツは彼女を手招きし、小さな黒板と白墨を差し出した。
「ミナ。うちで働くなら、まずは数字と値札を読めるようになってもらいます。これが『一』、こっちが『二』。文字はあなたを縛るものではなく、あなたが世界を知るための道具です」
ミナは警戒するように白墨を受け取ったが、すぐに黒板の上の白い線をなぞり始めた。
朝の営業が一段落した頃、店の戸が開いた。
常連客ではない。仕立てのよい漆黒の外套をまとった長身の青年だった。濡れた靴底を敷物で拭いてから、まっすぐ作業台へ来る。
「あなたが、代訴人のリツですね」
青年は名乗りもせずに歩み寄り、懐から監察院の封蝋がある分厚い羊皮紙を取り出して作業台の上に置いた。
「王立監察院査察官、セドリック・ヴァレンティアです。侯爵家から提出された婚約契約書の認証謄本をお持ちしました。提出原本は監察院の封印庫に保管されています」
その肩書きに、アニエスが小さく息を呑んだ。
リツは出された羊皮紙に視線を落とした。侯爵家が提出した、アニエスとロランの婚約契約書。その原本を監察院が照合し、相違ないと認証した謄本だった。
だが、文面を追っていたリツの目が、ある一箇所で止まった。
「これは、どういうことですか。アニエスさんの控えには、このような条項はありません」
リツが並べたのは、アニエスが持ち出していた半葉の控えだった。契約末尾の二条と署名欄だけを書き留めたもので、紙の上端は破れている。認証謄本の末尾には、その控えにない一行が挟まっていた。
『――令嬢が他家の男子と密会等の不品行に及んだ場合、ただちに本契約を破棄できるものとする』
「契約締結後にこのような重要な条項を追加する場合、当事者と立会人全員の再署名が必要です。アニエスさんの再署名がない以上、この条項は無効です」
リツが指摘すると、セドリックは半葉の上端を指先で押さえた。
「それが、後から書き加えられたものであれば、の話です。ですがこれは契約書全体の写しではない。控えを作った者が、必要と思った条項だけを書き留めた可能性は否定できますか」
「なっ……」
「監察院としては、出所不明の不完全な控えより、正式な保管手続きを経た原本を重んじます。感情で手続きを乱すのは危険です」
リツはセドリックを睨み返したが、即座に反論する言葉を持たなかった。
写しを作った者の書き漏らしだと主張されれば、今の証拠では崩せない。
セドリックはそれ以上何も言わず、写しには目もくれずに店を去っていった。
静まり返った店内で、リツは認証謄本と半葉を見比べた。
断片だけでは、条項がなかった証明にならない。契約全体を写した同時期の記録が要る。
リツは半葉を手に取り、窓からの光に透かした。
ふと、羊皮紙の右下の端、インクが掠れてほとんど見えなくなっている余白に違和感を覚えた。
目を凝らす。
そこには、震えるような筆跡で、小さく署名が残されていた。
「マルタ」
それは、アニエスが実家から侯爵家へ連れて行き、そして一人だけ屋敷に残されてしまった侍女の名前だった。




