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その婚約破棄、無効です ~前世弁護士のパン屋店主、契約書で理不尽を詰ませます~  作者: 他力本願寺


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第3話 三倍払うことになりますよ

アニエスは水桶を両手で運び、半分を床へこぼした。


 ミナが無言で雑巾を投げる。


「もう働いて返したことにして構いませんよ」


「いいえ」


 アニエスは水を拭きながら答えた。


「私が戻れば妹の縁談が傷つくと、父は言いました。別の土地で別の名を使えば、生きてはいけるのでしょう」


「それも選べます」


「でも、不品行を認めて逃げた女として残ります」


 雑巾を絞る手は赤くなっていた。


「お金だけではありません。私の名前から、してもいないことを消したいのです」


 表の扉が開いた。


 甘い香水が、焼き上がったパンの匂いへ割り込んでくる。


 ロランは店内をひと目見て、鼻を鳴らした。


「本当に、こんな掃き溜めへ来ていたのか」


 立ち上がったミナが進路に入り、肩を払われた。小さな身体が壁へ当たる。


「邪魔だ」


 アニエスが駆け寄る。


 ロランは作業台の丸パンを取り、指で押した。


「あの申出書は誰に書かせた」


「私の名で出しました」


「お前に書ける文面ではない」


 パンが床へ落ちた。


 革靴の踵が、焼き色のついた表面を潰す。


「公証人が臆病で助かったな。だが、保留は判決ではない」


 ロランはミナを顎で示した。


「侍女でも孤児でも、好きなだけ連れてくればいい。私が立会人はいなかったと言えば、それで終わる」


 リツは床のパンを見た。


「終わりません」


 ロランが振り向く。


「具体的な正当事由を証明できなければ、持参金は三倍返しです。名誉回復の公示費用も、あなたが負担する」


「三倍?」


「婚約契約法には、そう書かれています」


 本来なら、証拠が揃うまで争点を伏せるべきだった。


 それでもリツは言葉を引っ込めなかった。ミナを突き飛ばし、食べ物を踏みつけた男に、平民の店だから何をしても返ってこないと思わせたくなかった。


 ロランは踏んだパンから足を退けた。


「では、その法廷で会おう。証人が口を開けば、だがな」


 彼は笑わなかった。


 店を出ると、待たせていた従者へ何事かを命じる。従者は侯爵邸の方角へ走った。


 口裏を合わせる時間を与えた代わりに、ロランが立会人を恐れていることは分かった。ならば、彼より先に見つけなければならない。


「おかみ」


 ミナが壁際で肩を押さえている。


 リツは床のパンを拾い、布へ包んだ。


「アニエスさん。侯爵家へ置いてきた侍女の名を、全員教えてください」


「代理人を引き受けてくださるのですか」


 返事はせず、厨房の粉袋へ向かった。


 隠した木箱を引き出す。


 蓋に指をかけると、昨日閉じた時より重かった。

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