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その婚約破棄、無効です ~前世弁護士のパン屋店主、契約書で理不尽を詰ませます~  作者: 他力本願寺


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第2話 代訴人にはなれません

夜明け前、リツは婚約破棄通知を読み直した。


 アニエスが記憶を頼りに書いた持参金目録もある。争う場所は見えていた。


 厨房の隅へ行き、小麦袋の裏から木箱を出す。


 蓋の中には、王国勅許代訴人の銀章が眠っていた。


 指が金属へ触れる。


 ガラス張りの会議室。企業側の弁護士が並べた和解案。取り下げ書を握った穂乃の白い指。上司の声だけが背後からした。


 前世で弁護士だった頃の、ただ一度の敗北だった。


『これ以上続けるより、現実的な条件です』


 リツは箱を閉じた。


 法律が書けないのではない。


 法廷へ立てない。取り下げるかを問われる依頼人の隣で、また何もできなくなることが怖かった。


「私の代理人になってください」


 作業台の向こうで、アニエスが立っていた。


「私はパン屋です。代理人にはなれません」


 顔から血の気が引く。


 リツはその前へ、白紙の羊皮紙を置いた。


「ただし、あなたの名で出す書類なら整えられます」


 書いたのは〈係争申出書〉だった。


 持参金をめぐって争う意思があること。破棄通知に具体的な事由がないこと。移転を進めた者にも、後の査問で経緯を説明してもらうこと。


「これで財産を止められますか」


「止める力はありません」


 リツは曖昧に答えなかった。


「公証人が無視して手続きを進めることはできます。ただ、後で婚約破棄が無効になれば、争いを知りながら移転した理由を問われます」


 正午、公証人役場でアニエスは一人、受付へ立った。


 リツは列柱の陰から見ていた。隣へ立てば、代理を引き受けたことになる。


 公証人は申出書を二度読んだ。


 ロラン家の家令は、文面の途中からアニエスではなく柱の方を探し始めた。


「移転を保留する」


「この紙に差止めの効力はありませんぞ」


「承知している。だから私の判断で保留するのだ」


 公証人は受付印を押した。


「争いを知った後まで急いで名義を変えれば、私も査問で説明を求められる。そこまでして引き受ける仕事ではない」


 家令は申出書の末尾を睨んだ。


「どなたに、この文面を教わりました」


「私の名前で出した書類です」


 アニエスはそれだけ答えた。


 家令は持参品の箱を開き、螺鈿の薬箱を押し出した。


「これは令嬢個人の品だ。侯爵家が私物まで奪ったと書き足されては困る」


 アニエスは薬箱を胸に抱いた。


 手元へ戻ったのは、それ一つ。名義移転も、判決が出たのではなく、公証人が危険を避けただけだった。


 それでも昨日より、一つ多く自分のものがある。


 その夜、厨房の窓から小さな影が入った。


 売れ残りの黒パンへ手を伸ばしたところで、リツは細い腕を掴んだ。


「離せ!」


 少女が暴れ、袖がまくれる。


 手首に慈育院の印があった。


 リツが見ただけで、少女はもう片方の手を重ねた。


「触るな」


 怒鳴った声より、守る指の方が震えている。


 リツは腕を放し、黒パンを作業台へ戻した。


「盗んだ分は働いて返しなさい」


「役人へ渡さないのか」


「渡してほしいなら呼びます」


 少女は黙った。


「名前は?」


「ミナ」


 翌朝、店を開けると、アニエスが古着姿で小麦袋を運んでいた。


 絹のドレスは質に入れたらしい。


「昨日のパンと、書類のお礼です」


「一日では返せない額だと思っている顔ですね」


「はい。持参金を取り戻すまで働きます」


 袋を抱え直した拍子に、膝が折れかけた。


 ミナが横から袋の端を持つ。


 二人とも、助けたとは言わなかった。

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