表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
その婚約破棄、無効です ~前世弁護士のパン屋店主、契約書で理不尽を詰ませます~  作者: 他力本願寺


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
1/27

第1話 焼きたてのパンと、捨てられた令嬢

「欠陥書類ですね」


 粉のついた指が、婚約破棄通知の空白を叩いた。


 アニエスは湯気の向こうにいる女を見た。黒髪を後ろで束ね、白い前掛けには小麦粉。右手には窯仕事の火傷。どう見てもパン屋の女将なのに、羊皮紙を読む目だけがひどく速い。


「欠陥、ですか」


「不品行を理由に持参金を没収するとある。けれど、いつ、どこで、誰と、何をしたのかが一つもない。証人の名もありません」


 女は通知を伏せ、先に厚切りのパンをスープへ浸した。


「食べてください。空腹のまま人生の話を決めてはいけません」


 数刻前、アニエスの人生は羊皮紙一枚で壊れた。


「君との婚約は、今日限りで破棄する」


 ロランが卓上へ滑らせた通知には、破棄、持参金没収、不品行。その三つだけが並んでいた。


「私が何をしたとおっしゃるのですか」


「身に覚えがあるから訊くのだろう」


「持参金は五年前、父が領地の一部を手放して用意したものです」


「我が家が受けた迷惑への補償だ」


 事実を教えてほしい。弁明させてほしい。そう頼んでも、ロランは袖口の埃を払うだけだった。


 私物をまとめる時間さえ与えられないまま屋敷を出され、実家の門前でも通知を突き返された。


「お前が戻れば、妹の縁談まで傷つく」


 鉄格子の向こうで、父は娘より先に持参金の行方を訊いた。返らないと知った途端、顔色を変えた。


「財産まで失わせたのか」


 門番が閂を下ろした。妹の部屋のカーテンも閉じた。


 絹の靴で夜の王都を歩き、踵の皮が破れた頃、焼けた麦の匂いがした。粉挽き横丁の小さな店。窯の赤い火へ手を伸ばす前に、アニエスは戸口で倒れた。


 目を覚ました時、女は名も事情も訊かず、温かなスープを置いた。


「ここは、パンホノカです。私はリツ」


「お金を持っていません」


「では、食べた後で考えましょう」


 塩味が喉を通った途端、涙が落ちた。リツは泣き止めとも、強くなれとも言わない。空いた皿へもう一杯だけスープを足した。


 やがて朝の客が戸を開けた。


「おはよう、リツ。固いのを二つ」


「配達前に丸パンを三つ。受領帳も出しておくれ」


 御者、洗濯女、夜勤明けの職人。客たちは短い異国名を呼び、小銭を置いてパンを受け取る。粉挽き横丁の朝は、この女の窯から始まるらしい。


 最後の客を見送ると、リツは通知をアニエスへ戻した。


「不品行とあります」


「私は、何もしていません」


「何をしていないのですか」


 答えられなかった。通知には、否定すべき事実すら書かれていない。


「侯爵家がそう言えば、皆が信じます」


「言葉と事実は別です」


 リツは通知を折らなかった。逃げ場のように残された空白を、もう一度指で示す。


「この書類では、婚約破棄は成立していません」


 窯の奥で薪が爆ぜた。


「ほかの書類も、すべて見せてもらえますか」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ