第1話 焼きたてのパンと、捨てられた令嬢
「欠陥書類ですね」
粉のついた指が、婚約破棄通知の空白を叩いた。
アニエスは湯気の向こうにいる女を見た。黒髪を後ろで束ね、白い前掛けには小麦粉。右手には窯仕事の火傷。どう見てもパン屋の女将なのに、羊皮紙を読む目だけがひどく速い。
「欠陥、ですか」
「不品行を理由に持参金を没収するとある。けれど、いつ、どこで、誰と、何をしたのかが一つもない。証人の名もありません」
女は通知を伏せ、先に厚切りのパンをスープへ浸した。
「食べてください。空腹のまま人生の話を決めてはいけません」
数刻前、アニエスの人生は羊皮紙一枚で壊れた。
「君との婚約は、今日限りで破棄する」
ロランが卓上へ滑らせた通知には、破棄、持参金没収、不品行。その三つだけが並んでいた。
「私が何をしたとおっしゃるのですか」
「身に覚えがあるから訊くのだろう」
「持参金は五年前、父が領地の一部を手放して用意したものです」
「我が家が受けた迷惑への補償だ」
事実を教えてほしい。弁明させてほしい。そう頼んでも、ロランは袖口の埃を払うだけだった。
私物をまとめる時間さえ与えられないまま屋敷を出され、実家の門前でも通知を突き返された。
「お前が戻れば、妹の縁談まで傷つく」
鉄格子の向こうで、父は娘より先に持参金の行方を訊いた。返らないと知った途端、顔色を変えた。
「財産まで失わせたのか」
門番が閂を下ろした。妹の部屋のカーテンも閉じた。
絹の靴で夜の王都を歩き、踵の皮が破れた頃、焼けた麦の匂いがした。粉挽き横丁の小さな店。窯の赤い火へ手を伸ばす前に、アニエスは戸口で倒れた。
目を覚ました時、女は名も事情も訊かず、温かなスープを置いた。
「ここは、パン屋です。私はリツ」
「お金を持っていません」
「では、食べた後で考えましょう」
塩味が喉を通った途端、涙が落ちた。リツは泣き止めとも、強くなれとも言わない。空いた皿へもう一杯だけスープを足した。
やがて朝の客が戸を開けた。
「おはよう、リツ。固いのを二つ」
「配達前に丸パンを三つ。受領帳も出しておくれ」
御者、洗濯女、夜勤明けの職人。客たちは短い異国名を呼び、小銭を置いてパンを受け取る。粉挽き横丁の朝は、この女の窯から始まるらしい。
最後の客を見送ると、リツは通知をアニエスへ戻した。
「不品行とあります」
「私は、何もしていません」
「何をしていないのですか」
答えられなかった。通知には、否定すべき事実すら書かれていない。
「侯爵家がそう言えば、皆が信じます」
「言葉と事実は別です」
リツは通知を折らなかった。逃げ場のように残された空白を、もう一度指で示す。
「この書類では、婚約破棄は成立していません」
窯の奥で薪が爆ぜた。
「ほかの書類も、すべて見せてもらえますか」




