第10話 夜明け前の伯爵夫人
『エレノア、君との結婚から三年が経つ。だが、君は我が家の跡継ぎを産むことができない。遺憾だが、君の身体的欠陥を理由に離縁させてもらう』
一週間前、夫ヴィクトルから冷たく言い渡されたその宣告が、今もエレノアの頭の中で呪いのように木霊している。
エレノアはヴィクトルを深く愛していた。政略的な意味合いのある婚姻であったとしても、彼との温かい家庭を築き、愛する人の子どもを腕に抱くことを心から望んでいた。
だが、伯爵邸での現実の結婚生活は、彼女が夢見ていたものとはあまりにもかけ離れていた。結婚して三年間、夫はただの一度も、エレノアの寝室を訪れることはなかった。使用人を通して夫を食事に誘っても、多忙を理由にすげなくあしらわれる日々が続いた。
夜ごと冷え切った広いベッドで一人震えながら、エレノアはひたすらに自分を責め続けた。自分に女としての魅力がないからだ。あるいは、自分の体にどこか決定的な欠陥があり、夫はそれに気づいているからこそ、私に触れてくれないのだと。
毎月、気休めだと言い聞かせながら高価な薬草を大量に買い込み、顔を顰めるほど苦いそれを一人で飲み下した。いつか夫が自分を妻として愛してくれる日が来るようにと祈り続けた。しかし、その祈りが届くことはなく、一週間前、唐突に突きつけられたのは冷酷な離縁の申し立てだった。
「温かいスープです。少し、口をつけてみてください」
静かな声に引き戻され、エレノアはハッと顔を上げた。
目の前には、湯気を立てる琥珀色のスープが置かれている。ここは王都の下町、粉挽き横丁にある「ホノカ」という小さなパン屋の厨房だった。
厨房に漂う、甘く香ばしい小麦の匂いと、微かな酵母の酸味。伯爵邸の豪奢だが冷え切った自室とは違う、生活の熱がここにはあった。
夜も遅い時間に、顔を深く隠して駆け込んできた身元も知れない女に対し、代訴人だという黒髪の店主は、根掘り葉掘り事情を聞くよりも先に温かい食事を出してくれた。
エレノアは震える両手で木匙を取り、スープを一口飲んだ。丁寧に煮込まれた根菜の甘みと、微かな香草の香りが、三年間、絶望と自責で凍りついていた胃の腑にじんわりと染み渡っていく。我慢していたはずの涙が、不意に視界を滲ませた。
「ありがとうございます。私、誰かにこんなに優しくしていただいたのは、本当に久しぶりで……」
こぼれ落ちる涙を上質な絹のハンカチで拭い、エレノアは深く息を吐き出した。そして、持参した革の鞄を開け、数枚の書類を取り出して作業台の上に並べた。
「私は、夫から『子を成すことができない身体的欠陥』を理由に、離縁を申し立てられました。これが、その証拠として夫が用意した書類です」
リツと呼ばれたその代訴人は、表情を変えることなく書類を引き寄せた。
その中の一枚、権威ある王都の医師の署名が入った診断書を見た瞬間、リツの黒い瞳がスッと細められた。
「この診断書に書かれているあなたの症状は、かなり断定的なものです。これほど重篤な診断が下されていたのなら、なぜあなたは今日まで何の異議も申し立てず、三年間も婚姻関係を続けていたのですか」
リツの問いはもっともだった。もしこの診断が真実なら、夫はもっと早くに離縁を申し立てていてもおかしくない。
エレノアは力なく首を振った。
「知らなかったのです。私がこの診断書を初めて見たのは、つい一週間前……夫から離縁状と共に突きつけられた時でした。それまで、私は自分の体がこれほど重い病に侵されているなど、一度も聞かされたことはありませんでした」
三年間、夫が来てくれないのは自分のせいだと思い込んでいた。だからこそ、冷遇されても声を上げることができなかったのだ。
エレノアの痛切な告白を聞き、リツは伏せていた目を上げた。
「一週間前、ですか」
「はい。もう、手遅れでしょうか。三年も経ってしまっては、妻としての義務を果たせなかった私が悪いと、法院でも……」
「いいえ」
リツはエレノアの言葉を遮った。
「知ることのできなかった事実は、知った日から一年以内なら争えます。あなたが診断書を見たのは一週間前。まだ間に合います」
その言葉に、エレノアは弾かれたように顔を上げた。
絶対的な貴族の権力と、取り返しのつかない三年の歳月。『夫の言葉は絶対であり、妻は従うしかない』と教え込まれてきたエレノアにとって、法を盾に反論するという発想自体がなかった。その重圧に押し潰されそうになっていたエレノアの前に、細く、だが確かな光が差し込んだ瞬間だった。
「ですが、争うと言っても……この診断書は、高名な医師の署名入りです。私のような不出来な妻の言葉など、誰も信じてはくれないでしょう」
エレノアが再び絶望に沈みかけると、リツは診断書の上にそっと指を置いた。
「エレノアさん。あなたは一つ、重要なことを言いましたね。この診断書の存在を『一週間前に初めて知った』と」
「はい……」
「ならば、もう一つお聞きします。あなたはこの診断書に署名している医師の診察を、直接受けたことがありますか?」
エレノアは瞬きをした。
診断書に記された、流れるような飾り文字の署名。だが、その名前に見覚えはない。王都の社交界で耳にしたことくらいはあるかもしれないが、顔を合わせた記憶すら皆無だった。
「ありません。私はこのお医者様と、一度もお会いしたことはありません」
断言したエレノアに対し、リツは診断書の日付欄を指先でトントンと軽く叩いた。
「やはり。この診断書の日付を見てください。今から二年前の、冬の月です」
エレノアはハッとして、その日付を食い入るように見つめた。
二年前の冬。その時期、エレノアは王都から南へ四日かかる伯爵領の屋敷にいた。
「この日、私は南の領地におりました。王都から四日も離れた屋敷で、ずっと一人で過ごしていたのですから……!」
エレノアの震える声を聞き届け、リツは頷いた。
「一度も会っていない医師が、南の屋敷にいたあなたを診たと記している。エレノアさん、この診断書は偽物です」
夜明け前の厨房で、エレノアは初めて診断書の日付を自分の目で確かめた。




