第11話 愛していたから、失った
夜明け前の薄暗い厨房で、リツは作業台の上に並べた書類を指先で整理していた。
領地にいたはずの日に、王都で診察したとする紙。これが虚偽なら、ヴィクトルの離縁理由は崩れる。
「離縁は止められます。持参金も取り戻せる」
リツは、向かいの丸椅子で身を縮めるエレノアへ告げた。
だが、エレノアは表情を強張らせ、震える声で反発した。
「お金の問題だと、おっしゃるのですね。私が三年間、一人で冷たいベッドで泣き続けてきたのは、持参金を取り戻すためだったと」
「エレノアさん。まず生活を――」
「法的な事実! ええ、そうでしょうね。でも、私の心はどうなるのですか!」
エレノアの声が厨房へ響いた。
リツは言葉を切った。それでも、確かめなければならないことがある。
「夫婦の共同生活を、正当な理由なく一年拒めば契約違反です。なぜ一年目に声を上げなかったのですか」
「夫には、正当な理由があると思っていたからです……!」
エレノアは両手で顔を覆い、嗚咽を漏らした。
「私は夫を愛していました。政略結婚であっても、彼との間に子どもを授かり、温かい家庭を作りたいと心から望んでいたのです。だから、夫が私の寝室に来てくれなくても、私に魅力がないからだ、私に女としての欠陥があるからだと思い込んでしまった……。愛していたからこそ、自分を責め続けたのです」
リツは言葉を失った。エレノアは、夫が来ないことを知っていた。だが、自分に欠陥があるのだから、夫には拒む正当な理由があると信じ込んでいたのだ。
それでもリツは、もう一つだけ問うた。
「三年経って虚偽の診断書を突きつけられ、騙されていたと知った今でも、あなたは夫へ愛情を持っているのですか」
その強い問いかけに、エレノアは顔を上げ、涙に濡れた瞳でリツを激しく睨みつけた。
「愛していたからこそ、私はこの三年間を失ったのです! もし愛していなければ、一年で見切りをつけてさっさと家を出ていました。彼を信じようとした私の心があったから、三年という時間を、女としての尊厳を、何もない暗闇の中で無駄にしてしまった……! この痛みが、あなたに分かりますか!」
喉を切り裂くような悲痛な叫びが、厨房に響き渡った。
リツの胸の奥が痛んだ。質問した自分のほうが、エレノアの三年間を財産の数字へ縮めていた。
「今の問いは、取り消します。愛していた時間まで、私が値踏みするべきではありませんでした」
エレノアはハンカチで目元を押さえた。リツは返事を急かさず、泣き止むまで待った。
「夫からの離縁申し立てを防御し、財産を取り戻すだけでは、あなたの尊厳は回復しません。方針を変えましょう。エレノアさん。あなたから、夫との婚姻関係を終わらせるのです」
「私から……?」
「はい。三年間の放置と虚偽の診断書を用いた悪質な裏切りを理由に、あなた自身の意思で、彼との繋がりを断ち切る申し立てを行います。それが、奪われた三年間に対する唯一の決着です」
リツはそう告げると、窯の中から熱された鉄棒を取り出した。
作業台の上の丸パンに、ジュッと音を立てて麦の穂の焼き印を押す。香ばしい焦げた匂いが立ち上った。
「アニエスさんへ渡したものと同じ印です。受け取っていただけますか」
リツが差し出した焼き印入りのパンを、エレノアは両手で大切に受け取り、震える唇で「はい」と小さく、しかしはっきりと頷いた。
外が白み始め、粉挽き横丁に朝の気配が漂い始めた頃。
エレノアが店の奥の長椅子で仮眠を取っている隙に、リツは厨房の隅でミナを呼んだ。
小さな黒板に白墨で、いくつかの数字と記号を書きつける。
「ミナ。今日は『日付』の読み方を教えます。これが月、これが日。人が生きた時間の記録です」
ミナは真剣な顔で黒板を見つめ、不器用な手つきで白墨を握り、見よう見まねで数字をなぞり始めた。
文字を覚えることは、証拠を読むことだ。
「リツ。伯爵の屋敷の人間を、また証人に呼ぶのか?」
ミナが黒板から顔を上げずに尋ねてきた。マルタのように、使用人を法廷に立たせるのかと気になったのだろう。
リツは首を振った。
「いいえ。屋敷の人間は、今の主である伯爵の報復を恐れて本当のことは言えないでしょう。人間の証言だけでは弱いです」
マルタが抱えた恐怖を、リツは忘れてはいない。権力者に依存する使用人の証言は、彼らの生活そのものを破壊しかねない。
「では、どうするんだ」
「人は嘘をつきますし、脅されれば口をつぐみます。ですが、毎日の生活の痕跡は嘘をつきません」
リツは、エレノアが三年間過ごした冷たい寝室を思い描いた。
「三年間、一度も使われなかった寝室。その事実を証明する、外部の『日常の記録』を探します」
それが、貴族の傲慢な嘘を打ち崩す、粉挽き横丁の戦い方だった。




