第12話 洗濯籠は嘘をつかない
王都の高級住宅街に建つ伯爵邸。その裏手にひっそりと設けられた勝手口の陰で、若いメイドは寒さとは別の理由で肩を小刻みに震わせていた。
「ごめんなさい……。奥様がひどい扱いを受けておられたのは知っています。私たち使用人にも、いつも優しくしてくださった素晴らしい奥様でした。でも、法廷で旦那様に逆らうような証言なんて、絶対にできません」
メイドは顔を青ざめさせ、すがるような目でリツを見つめた。
「旦那様に逆らえば、紹介状もなしにこの屋敷を放り出されてしまいます。王都で紹介状のない働き口なんてありません。私は、生きていけなくなってしまうんです」
「分かりました。無理にお願いはしませんし、あなたを法廷の証言台に立たせることもしません」
リツは頷き、怯えるメイドへ声を落として告げた。
マルタの生活を脅かしかけた失敗は繰り返さない。雇い主に生殺与奪を握られた使用人から、直接証言を引き出すのは危険だった。
リツが探すべきは、人間の脆い記憶や証言ではない。決して脅すことも書き換えることもできない「物言わぬ証言者」だった。
粉挽き横丁の裏手にある、巨大な共同洗濯場。
立ち込める湯気と強い灰汁の匂いの中、リツとミナは一人の洗濯女と向き合っていた。
「伯爵邸の洗濯物の受取帳ですね。ええ、古いものも捨てずに残してありますよ」
テレサと名乗った若い洗濯女は、濡れた手を前掛けで拭い、数冊の帳簿を束ねて持ってきた。マルタの窮地を知る横丁の住人で、リツの仕事にも理解があった。
「助かります。この帳簿を少しの間、お借りしてもよろしいですか」
「構いませんよ。でも、そんな薄汚れた帳簿が法廷で何の役に立つんですか?」
不思議そうな顔をするテレサの横で、ミナが背伸びをして帳簿のページを覗き込んだ。彼女はリツに教わったばかりの白墨の記憶を頼りに、指先でインクの跡を不器用になぞる。
「リツ、これ……日付だよね。三年前の、冬の月って書いてある」
「正解です、ミナ。よく読めましたね」
リツはミナの頭を軽く撫で、帳簿に並んだ項目を指し示した。
「人間が生活していれば、必ず日々の汚れが出ます。ですが、この三年間におよぶ伯爵邸の洗濯記録を見てください」
ページをめくっていくと、ヴィクトル個人の部屋着や彼が使う寝具の洗濯記録は頻繁に残されていた。しかし、『夫婦の寝室』で使われるはずの二人用の大型シーツや、そこで使われる浴室布が洗濯に出された記録は、三年間で一度も存在していなかった。あるのは、月に一度、使われていない部屋の埃払いをした際に生じる雑巾の記録だけだ。
「なるほど……。洗濯物が出ないということは、誰もその寝室で眠っていないという確かな証拠になるんですね」
テレサはひどく感心したように呟いた。彼女の目は、帳簿の細かな文字や数字をスラスラと追っている。平民の洗濯女としては珍しく、はっきりと文字の読み書きができるようだった。
「資料提供の証として、こちらの借用書に署名をいただけますか。形式的なものですので」
リツがペンと小さな紙片を差し出すと、テレサは「ええ、いいですよ」と頷いてペンを受け取った。
だが、紙にペン先を下ろそうとした瞬間、テレサの動きがぴたりと止まった。
「っ」
彼女の顔からスッと血の気が引き、ペンを握る指先が小刻みに、しかし激しく震え始めた。ただ自分の名前を書くだけの行為であるにもかかわらず、その瞳には尋常ではない恐怖が張り付いている。
文字が読めないゆえの戸惑いではない。自分が何かの書類に『署名』をしてしまうことそのものへの、深いトラウマのような怯えだった。
リツは強い違和感を覚えた。しかし、ここで彼女を問い詰めることは、恐怖に震えるメイドに証言を強要するのと同じ暴力になりかねない。
「すみません、私の勘違いでした。ただの借用書ですから、代訴人である私の署名だけで十分です。ペンはお返しください」
リツがペンを引き取ると、テレサは弾かれたように息を吐き、視線を床へ落とした。
洗濯の記録だけではまだ反論の余地がある。リツはさらに確証を重ねるため、伯爵邸に出入りする御用商人や、屋敷の管理を任されている警備番のもとを回った。
彼らもまた、伯爵という貴族を直接非難することは頑なに避けたが、「ただの業務記録を開示してほしい」という法的権限を持つ代訴人の要求に対しては、比較的素直に応じた。
集まったのは、屋敷の各部屋への薪の搬入記録と、屋敷の扉の『鍵』の受渡帳だった。
その日の夜。ホノカの厨房で、リツは集めた束のような記録書類を並べ、薄暗いランプの灯りの下で念入りな照合を行っていた。
「ミナ、こちらの薪の搬入記録の日付も読んでくれますか」
「うん。これは二年前の冬の月……こっちは去年の秋の月。日付の横に、部屋の名前が書いてあるみたい」
「ありがとう。やはり、夫婦の寝室には、真冬の最も冷え込む時期でさえ、暖炉用の薪がほとんど運び込まれていません。人が夜を明かすことなど不可能な温度だったはずです」
洗濯物が出ない。薪も消費されていない。
三年間、夫婦の寝室に人が継続して暮らした痕跡は、日々の生活を支える労働者たちの記録のどこにも見当たらなかった。
最後に、鍵の受渡帳を開いた。
リツは、屋敷の管理番から写しを取った『鍵の受渡帳』をめくった。長期間使わない部屋や立入制限のある部屋の外鍵は、管理室で一括して記録・保管されている。
「リツ、この長い名前……ずっと同じ人が書いてある」
ミナが白墨で書かれた文字の形をじっと見比べながら、ある特定の箇所を指さした。ミナにはまだその名前が誰のものか、正確な音として読むことはできない。事件の全容が分かっているわけでもない。だが、形の連続性という事実にはっきりと気づいていた。
「ええ、その通りです」
リツはミナの指先が示す箇所を見つめ、息を吐いた。
夫婦の寝室の外鍵。
その鍵の持ち出しと返却の記録欄には、三年間、一日も欠かすことなく、ただ一人の同じ名前が並び続けていた。
『ヴィクトル・伯爵』。
寝室の外鍵を、ヴィクトル本人が持ち出したままにしている。
「これで、伯爵が部屋を閉ざしたと分かる?」
ミナに問われ、リツは首を振った。
「まだです。合鍵があった、奥様が内側の閂を使った、家令が伯爵の名で受け取った。帳簿一冊なら、いくらでも逃げ道を作れます」
リツは〈鍵の本数〉〈錠の構造〉〈封印箱〉と紙へ書いた。
「査問会で伯爵自身に鍵を持っていないと断言させ、その後で逃げ道を一つずつ塞ぎます」




