第13話 伯爵が買った白パン
昼下がりのホノカは、焼き上がった白パンを求める客で混み合っていた。
戸口に上等な外套の男が現れても、リツは手を止めなかった。男は靴底の泥を落とし、御者の後ろへ並び、順番が来ると銅貨を数えて白パンを一つ買った。
ヴィクトル伯爵だった。隣には、真珠の耳飾りをつけた若い女がいる。
店の奥で帳簿を写していたエレノアのペン先が止まった。
「よく焼けている」
ヴィクトルはひと口かじり、断面を確かめた。残りは紙へ戻し、代金とは別に小さな銀貨を置く。
「妻が世話になった礼だ。受け取ってほしい」
怒鳴り込んでくれば、追い返せた。パンを侮辱すれば、客も敵に回っただろう。だが彼は店の作法を守り、妻を案じる夫の顔で立っている。
常連たちは事情を知らない。気まずそうに目を逸らしながらも、帰ろうとはしなかった。
リツは銀貨へ触れずに訊いた。
「奥様を迎えに?」
「いいや。これ以上、人前で自分を傷つけないよう忠告に来た」
ヴィクトルはエレノアへ目を向けた。その目にあるのは怒りではなく、聞き分けのない病人へ向ける憐れみだった。
「エレノアは長く身体の不調に苦しみ、夫婦の部屋を閉ざしてきた。私は三年待った。無理強いもせず、彼女の尊厳を守ったつもりだ。離縁は罰ではない。互いを解放するための処置だよ」
「違います」
エレノアが立ち上がった。だが、声は店のざわめきに負けそうなほど細かった。
「私は扉を閉ざしてなど――」
「苦しいのは分かっている」
ヴィクトルは穏やかに遮った。
「だが、病を認められないからといって、使用人や町の者を巻き込んではいけない」
反論すればするほど、妻が取り乱しているように見える。リツは、ヴィクトルがそれを承知で客のいる時間を選んだのだと悟った。
連れの女は勝ち誇って笑うこともなく、気遣わしげにエレノアを見ている。その表情まで、よくできた一枚の絵のようだった。
リツは白パンの包みを見た。
「離縁通知にある病名も、奥様を守るため公にしなかったのですか」
「子宮虚脱症のことかね。治らぬ病を言い触らす趣味はない」
木の盆が、ミナの手から滑りかけた。
エレノアが診断書を見せられたのは一週間前だ。それまで医師から病名を告げられたことはなく、夫へ話したこともない。
「その名を、どなたから聞かれました」
リツが問うと、ヴィクトルはパンの紙包みを折り直した。角と角を几帳面に揃えてから答える。
「夫なのだ。妻の診断結果が私へ届くのは当然だろう」
「奥様へ届くより先に?」
紙を折る指が止まったのは、ほんの一拍だった。
「診断をいつ知ったかなど、本質ではない。必要なら査問会で話そう」
ヴィクトルは一礼し、連れの女の背へ手を添えた。退店を促す仕草まで非の打ち所がない。
このまま帰せばよかった。病名を知っていたという言葉は、もう店の客も聞いている。
それでも女が振り返った瞬間、リツの口から言葉が出た。
「都合の悪い妻を病人にできる人です。ご自分だけは違うと、本当に思えますか」
女の目から、作られた同情が消えた。
「私を取り込むおつもり? 随分と卑しいやり方ですこと」
「待ってください。私は――」
「結構よ」
扉は乱暴には閉まらなかった。ヴィクトルは最後の客へ道を譲り、女を先に通した。
礼儀正しいまま二人が去ると、かえって店内の沈黙が長く残った。
リツは銀貨を摘み上げた。女はヴィクトルの書斎へ出入りできる。病名の出所を探る手がかりになったかもしれないのに、自分から扉を閉じさせた。
「今のは――」
「分かっています」
いつから見ていたのか、セドリックが戸口に立っていた。リツは彼を見ず、銀貨を返金用の小袋へ入れた。紐を結ぶ指へ力が入りすぎる。
「分かっていて、止められませんでした」
「夫人を病人として扱う言葉に、腹が立った」
「理由があれば、失敗でなくなると?」
言葉が尖った。セドリックは反論せず、懐から折り畳んだ閲覧票を取り出した。
「なりません。ですから、次に使える事実を取りに行きましょう」
紙面には、診断書の日付に遠方で往診した医師の名と、監察院の索引番号が記されていた。証拠そのものではない。正規の閲覧請求で辿るための入口だけだ。
「この医師は、その日、王都にいなかった可能性があります」
リツは小袋を引き出しへしまい、閲覧票を受け取った。
今ここで頭を下げても、閉じた扉は開かない。取り戻せる事実を取りに行くしかなかった。




